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感性を磨く

わたしは毎朝、夫の弁当を作りながら、白湯・野菜・果物とヨーグルトの順で、胃の中にモノを入れていく。内蔵からウォーミングアップしていく感覚がして気に入っている。今朝の果物は、柿にした。

するすると皮をむきながら、祖母の手を思い出す。

鞘と柄の部分が木製の、年季の入った汚い小刀(フルーツナイフなどと言えたもんではない)を器用に使い、果物をむいていた。それから、灯油ストーブの上で焼いて膨らんだ餅をアチアチ、と潰したり伸ばしたりしていた。声に出すというより、手の動きがアチアチ、という感じ。折り紙を作ったりチラシでちり箱を折っていたりしていた。節くれだった、しわしわの手だ。

手の記憶、というのは「育ての親」のイメージに繋がるのだと聞いた事がある。中三・国語の教科書に掲載されていた、井上ひさしの「握手」という小説の指導法関連で得た知識だ。この作品では、主人公の目線で育ての親である修道士との思い出、やりとりが語られていく。その修道士についての描写が「手の動き、クセ」にフォーカスされている。彼の表情や背格好の描写はほとんどないのに、読み手は自然とその姿が想像できる。そして、その描写の徹底には意識せねば気づかないから、見事だ。

わたしは、包丁で果物をむくたび、我が子と折り紙で遊ぶたび、必ず祖母の手を思い出す。顔ではない、手なのだ。そして同時に、あの「握手」という作品の言葉の流れも浮かぶ。

特別、おばあちゃん子というわけではなかった。当たり前に家族の中にいたひとりで、なんなら思春期なんかは祖父母との同居をコンプレックスに感じていたくらいだ。良い思い出も嫌な思い出もある、それが家族だ。
それでも、祖母と会えなくなって十五年以上経った今、日常のささいな瞬間に彼女を思い出すと温かな気持ちになる。

「死んだ人はいい人だ」と、佐野洋子がエッセイ本で綴っていたフレーズが浮かんでくる。

土日の朝は、楽しみにしているラジオを聴く。西岡大貴さんのBigYup!という番組で、彼の語り口、言葉選び、時には毒や愚痴も吐きつつ進むトーク。何より彼の感性は、わたしの胸に直接響いてくる。

よく彼は、曲紹介などで「グッとくる」という表現をするが、わたしはその言葉に「グッとくる」。彼の声色と、この言葉の響きがマッチしていて良いなぁと思う。
この日は彼の選曲で、荒井由美の「何もなかったように」が流れた。

ユーミンが、愛犬を亡くした時の思いを綴った曲なのだ、と西岡さんの解説が添えられる。

「僕はこの曲を聴くと、三島由紀夫の名言を思い出すんですね。

人間に忘却と、それに伴う過去の美化がなかったら、人間はどうして生に耐えることができるだろう

というものなんですけど」

それを踏まえて、もう一度ユーミンの歌詞と歌声を振り返る。

人は 失くしたものを胸に美しく刻むから
失くしたものを胸に美しく刻めるから
いつもいつも
何もなかったように 明日をむかえる


わたしは人生において、「感性を磨く」という形のない、そして答えのないテーマを自身で掲げている。自分の感性を信じるしかないから、それを確かめるためにこんなものを書き、人様に晒してしまう。

こうやってこだわってきた「自分の感性」などというものは、自然と生まれたものではなかった。他者との関わりや、いろんなものを聴いたり読んだりした結果、育まれ磨かれてきたのだと、この穏やかな朝に気付かされた。

そしてそれらが、思いがけない形で繋がりを見せた時、あぁ自分の心はここにある、と思い知らされる。
そう、なんだか、グッとくる。

皮膚も爪も、乾いていて硬い。
そんな祖母の手の感触が、わたしの指先に蘇る。

ユーミンの歌声は優しい。口に運んだ柿は、瑞々しく、甘い。

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