奴隷商人としての自分へ。
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私は今までの人生の中で、主に職場の人(同僚や先輩、上司、後輩まで)から不当な扱いを受けたり正当な評価を得られなかったり、理不尽なことを言われたりして
何度も傷ついたり、憤りを感じるような経験を多くしてきました。
それは、
「人間としての尊厳を傷つけられた」という悔しく悲しい思いです。
そして、それらはすべて自分を傷つけた相手が悪いのだ、と心の中でその相手のことを責めたり、憎んだり、恨んだりすると同時に、常に自分の正当性を自分の中で訴え続けてきたのです。
私はこの「尊厳を傷つけられた」と感じたことを、自分が人よりもプライドが高いせい(つまり自分の捉え方の問題)だと思っていたのですが、実はその解釈が間違っていたのだということに最近になって気づきました。
私が感じたことそのものに間違いはなかったのです。
そして、それは自分自身が引き寄せたことだったのです。
無意識のうちに、
私自身が自分を「人間としての尊厳を傷つけられるような存在」にしていたのです。
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「履歴書はもう書かない」と決めた理由
私はこれまで様々な職業を経験してきました。その数は28種類にも及びます。
つまり、私は少なくとも28回(実際にはその倍くらい)「履歴書」というものを書いてきたことになります。
履歴書は何のために書くのでしょうか。
もちろん、怪しいものではないという身分の証明や学歴・職歴の証明ということに加え、「セルフプロモーション」という役割もあるわけです。
「セルフプロデュース」と言い換えてもいいでしょう。
履歴書には「応募動機」という欄があったり、「自己アピール」という欄がある書式もあります。ここに応募先の会社に対する熱意や自分が仕事を通して貢献できることを書いたりして、まさに「自分を売り込む」のです。
私は今まで何度か派遣社員として働いた経験があり、その経験を通して
「派遣会社ってまるで『奴隷商人』みたいだな。」と感じていました。
※あくまでも個人的な感想です。
しかし、それ以前に自分自身が「自分専任の」奴隷商人だったということに気づいたのです。
というのも、つい最近「もう履歴書は書かない」と心に決めたことや、ここ2週間の「自己ストライキ」がきっかけで、自分が今まで自分に対して行ってきたひどい仕打ちについて改めて内省させられることになったからです。
まず、私は人から「求められる人材」とされるために、「あれもできます。これもできます。こんな資格やあんな資格もあるし、性格もいいし、まじめだし積極的だし、会社のためなら何だってやります。」というような内容のことを必ずといっていいほど履歴書に書いてきました。
だから、採用された時にはその通りに働いたのです。
「なんでもやります。」と言ったからにはどんな理不尽な要求にも従わなければならないし、そういう人間であることを宣言したから、そういう存在として扱われてきたのです。これは当然と言ってもいいでしょう。
私は「奴隷」のような存在として売られた自分がどんな目に遭うか、良く考えもしないで無責任に「自分」という商品を「大安売り」してきたのです。
「こんなに安くて、こんなに良く働くよ!」と。
それをなんと約30年もの間、ずっと続けてきてしまったことにやっと気づきました。
しかも、それは外に対してだけではなかったのです。
私は「私」自身に対してまで「私」という商品を安売りしていたのです。
それに耐えられなくなった「奴隷の私」が、ついに今回ストライキを起こしたのです。
「こんな安い賃金でこき使われて、やってられるか!」
「ちゃんと給料を払え!」
「賃金を上げろ!」
「ちゃんと休ませろ!」
「福利厚生を充実させろ!」
「ボーナスを払え!」
「管理者手当を出せ!」
「資格手当を出せ!」
「サービス残業を強要するな!」
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特にこの1年間は私自身、今までとは違った意味で無理をさせてきたことは自覚していました。離婚して新しい人生を始めるにあたって、まず「私は1人でもちゃんと生きられる」ということを自分自身に証明するために少々無理してでも頑張り続ける必要があったのです。
これは今となっては「確かにちょっと無理があった」とわかりますが、このようなタイムスケジュールでことを進めるためには、ある程度の無理も承知の上でやったことです。
そして、もしそのことに気づいたのなら、
1年間頑張ってきた自分に感謝とお詫びを告げるタイミングなのだということ、自分の気が済むまで「ストライキ」をさせ、きちんと納得のいく「労使交渉」をすべき時なのだということです。
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そこで、まず私は「奴隷のように扱われてきた自分」に対して、
「もう勝手に安売りしないこと」を誓いました。
具体的にはまず
「履歴書を書かないこと」、
「本当に自分のやりたいことだけをすること」、
「世間や人のニーズに自分を合わせようとしないこと」。
そして、今までの自分の働きにふさわしい報酬を、一生をかけてでもちゃんと支払っていくことです。
私は私自身と和解する必要があります。
そうしなければ、私の人生の目的が果たされないからです。
つまり、本当の自由と本当の幸せを手に入れるという目的が。
私が私自身を「奴隷」のように扱っているうちは、私が完全に「自由」になることはないのです。私のすべての部分が自由になって初めて、本当の自由になれるからです。
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大きな視点でものごとを見る
「大きな視点でものごとを見る」というのは頭で理解してはいてもなかなか難しいものです。今置かれている状況だけを見ると、あまり良いとは思えない時もあるからです。
それでもまず
「良い、悪い」でものごとを判断するのをやめるという大前提を思い出すこと、
今目の前にあるものはすべて「今この瞬間」であり「明日」でも「未来」でもないということ、
「今この瞬間」の積み重ねが人生なのであり、その完成図は人生が終わった時に初めて見ることができるのだということを思い出せば、今、あるいは明日、何が起きようとどうということはないのです。
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私の人生が終わった時に、私は果たしてその「私の人生の完成図」を見て、誰かのものと比べたりするでしょうか? いいえ、しないでしょう。
というか、もし誰かの人生と比べてガッカリしたり、優越感に浸ったりするようなら生きる意味などありません。
人生とは私にしか創り上げることのできない作品を創り上げることが目的で、他の人もまたそうなのです。
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私は今まで「因果応報」という言葉にどこか怖れの念を抱いていましたが、もうそれもどこかへ消え去りました。もしかしたら、すべての前世とすべてのご先祖様を開放したからかもしれません。
私自身が彼らの罪を許し、すべてのカルマが消え去ったことを宣言したからです。
だから、私はもう前世やご先祖のカルマに怖れる必要はないのです。
私は私自身の「因果」にのみ「応報」が起きることを知っています。
つまり、たとえこの先で苦しむことがあったとしても、それは自分のした範囲内で済むのです。
私は知らないうちにネガティブなエネルギーを出してしまうこともありますが、この1年の大部分はポジティブなエネルギーを放つことに気持ちを集中させてきました。
このことで何か自分にとって悪いことが起きるとすれば、それは単なる通過点であり、良い結果を受け取るために必要な準備なのであると理解することができます。
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「である調」の功罪
言い忘れましたが、私は「奴隷扱いされてきた私」に対してもう一つ誓ったことがあります。
それは、今後はできる限り「ですます調」で文章を書くということです。
なぜなら、私は今まで「である調」で文章を書くことにより、知らぬ間に自分を責めるような内容になってしまっていたのです。
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つまり、例え自分自身からであっても
「自分の尊厳を守る」という大切な使命を
忘れていたことに今、気づいたのです。
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「である調」で文章を書くことは人を非難する時や批判的な内容を書く場合に向いています。しかし、人を非難したり批判したりすることは、自分に対する攻撃でもあるのです。
「自分が放った言葉は自分に返ってくる」ということ。
これが因果応報の法則でもあるのです。
だから、私は他人に対する、あるいは自分に対する一切の攻撃をやめることにしました。
そして、私は私自身に謝罪しなければなりません。
今まで無理をさせてしまってごめんなさい。
私はあなたのすべてを愛し、すべてを受け入れ、すべてに感謝します。
※「すべてを受け入れる」とは、「無理をさせてきた今までの自分」をも受け入れるということ。
♡♡♡最後までお読みいただき、ありがとうございました。あなたの幸せのヒントが見つかると嬉しいです^^!いっっぱいの愛をこめて。♡♡♡
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