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2か月という贈り物

 夏はあまり好きではない。父が闘病したのも、義母(夫であるアルゴのママ)が闘病したのも夏のことで、何年経ってもその時の記憶が生々しく思い出されて、いわゆるSeasonable Depression(季節性の鬱)になってしまう。

 ここ数年は投薬もカウンセリングも無しでなんとか乗り越えているものの、しんどい。因みに私は心理学を勉強するためにこの国へとやってきて、一応は臨床心理のインターンなぞもやっているのだが、心理学を勉強する人って、割と己が病んでいる人が多い気がする(統計的にも多いらしい)。そして一通り、勉強したあと、自分には臨床は向いていないと感じて違う道に進んだわけだが、それはまた別のお話。

 私が渡米してきたのは21年前。3月に日本の大学を出て、2か月間、実家に戻り、そして5月にやってきた。夏の間、言語クラスに入り、その後、院に入る予定でいた。慣れないアメリカでの暮らし、寮生活、ちっとも通じない英語。諸々あったが、それでも勉強しながら、いつも新しい何かのある毎日を暮らしていた。当時はまだアルゴには出会っていない。

 父が末期がんであると知らされたのは6月の半ばことだった。当時はまだネットもそれほど盛んではなく、もちろん、ラインなんてなかった。だから、週に一度、国際電話をかけるのが家族との連絡方法だった。あとSnail Mail (カタツムリメール、emailと対義語的な意味で使われるゆっくりなメールという意味。郵送で送る手紙のこと)

 当時は大学にいて実家にいないはずの妹が電話に出て、おかしいな?と思って問い詰めていたら「お母さんには決して言うなといわれていたけどたまらないから言うね、お父さん、癌で先、長くないって。持って3か月だって。お父さんには入院してるけど告知してなくて、自分が末期がんだとは知らないけど、入院してることをおねぇちゃんには言うなって。勉強の邪魔になるからって」妹は電話口で号泣した。膝からがくり、と崩れ落ちる。そんなことって本当にあるのかと思ったが、その時、まさしくそうなった。言葉も出ず、ただ立っていられなかった。

 渡米することに最初、両親とも大反対だった。それを父が許してくれて、これることになった。もちろん、金銭的にも全面サポートで。父は厳しい人だったが、自分が16歳で父親(私にとっての祖父)を亡くしており、頭も良く、勉強したかったが高校を中退して残された家族、母親と5人のきょうだいを養わなくてはならなかったため、子供たちがやりたいと言ったことには、必ずやらせてくれたし、応援してくれた。

 私はお父さん子だったのである。長女だったので少しばかりえこひいきされて育ったと思う。渡米の件にしてもそうだし、私はどうしても心理学をやりたいと我儘を言って浪人もしている。大学もすんなりと東京へと出してくれた。大学を卒業して実家に帰っている2か月の間もほぼ毎日、父と飲み、週末は父と遊んだ。我が家は晩酌家庭だったもので、いくつかのつまみになるようなおかずを食べ、飲み、締めにごはんを食べるという夕飯だったので、私は夕飯をこしらえ、毎日、数時間、父と話をした。今思えば、もしかしたら父は自分の体に何かあることを予感していたのかもしれない。それとも単に、遠くに出す娘と少しでも一緒に時間を過ごしたかったのか(とは言え、私は高校の頃から寮生活だったので15歳までしか親と過ごしていない)一緒に買い物に行き、一緒に庭の手入れだの、洗車だの、ドライブだの。とにかく、毎日を一緒にすごした。2か月の間、父はとても元気で健康診断だってなんの問題もないと結果が出たばかりだったのだ。それが6月には余命を宣告されている。まったく意味が分からなかった。

 呑気に留学してる場合じゃねぇ!今すぐ帰る!と言ったが、始めたばかりのアメリカでの大学生活を中途半端に終わらせるな、というのも父の強い要望だった。だから自分が入院していることは私には決して知らせるな、と。「そんなもん、本人は末期がんって知らないから言うんじゃん!」と言う私に、後になって話した母は、だからこそ、アンタが今、中途半端な時に帰ってきたら自分の病状を不安に思うかもしれないから、とにかく、夏学期が終わるまでは頑張って、それから帰ってきなさい、と言われた。

 それから夏学期が終わって、帰るまでの記憶はあまりない。覚えていない。その夏の記憶は鮮烈に残っているのに、細かい時系列的な流れはあまりはっきりとは覚えていない。なんというか、こう、絵を切り取るというか、鮮やかで生々しい記憶がぶわっとあふれるのだけど、それがいつのこと(日付だとか)だったと確信をもって言えないのである。実家に戻って、母、弟、妹の4人、交代制で病院に行ったこと、父のいる病室でいろんな話をしたこと、窓から花火を見たことは忘れられない。やたらと暑い夏だった。

 明日も来るね、おやすみ。と言って病室を出る時、明日はないかもしれないと思って苦しかった。父の前では絶対に泣かないと決めていたから、病院の駐車場、車の中でよく妹と抱き合って泣いた。妹は天真爛漫な人で、よく父のベッドにもぐりこんでは二人で昼寝をしていた。私はその無邪気さがうらやましく、そしていとおしかった。余命3か月と言われ、その3か月が過ぎても父は生きていた。だから、きっともっと長く生きるだろうって、家に帰れるくらいに元気になるだろうって、そんな風に思えた。父は最後まで告知を受けなかった。本人はきっと気づいていたような気がする。人の前、子供たちの前では絶対に弱さや痛みを訴えない人だった。

 早朝に病院から帰ってきた母が、ダイニングで一人で泣いていたことがあった。子供たちに気づかれないように口を押えて。私に気づいた母は泣いたことをあやまった。謝ることなんて何もないのに。父がその夜、痛くて、苦しくて頼むからもう殺してくれと母に懇願したのだという。何もしてない、これまでただただ一生懸命に生きてきただけなのに、なぜ俺がこんな目に合うんだ、俺は死ぬんだろう、と痛みの合間にそう言ったそうだ。父と母はお見合いで結婚した。母は父の親族に苛め抜かれていたけれど、父のことが一番で、子供の目から見ても、父さえいれば良いような人だった。父と同じくらい母もまた苦しかったのだと思う。母は人に甘えることを、自分の感情を人に見せることを嫌う人だから、余計にしんどかったのだと思う。父は強い人だったが、やはり不安だったのかもしれない。母は栄養士の資格を持っていたので毎日、夕飯を作り、弁当箱に詰めて毎晩、父の病室に泊まっていた。そして早朝に帰ってきて、仕事に行った。父が病院にいる間、毎日、欠かさずに。だからダイニングテーブルで声を殺して泣く母の姿を見たとき、「子供」としてではなく「女」として、あぁ、この人は父のことをとても愛しているのだなぁと思った。

 父が亡くなったのは9月の半ばで、余命宣言を数か月超えていた。数日の間、意識が無くなって、もうだめか、と思っていた矢先にふっと目を覚まし、ウナギが食べたい、と普通に言った。むくり、と体を起こし普通に、腹減った。ウナギ、買ってきて?と言った。鰻……好物というわけではない。でも鰻だったのである。母は大急ぎでウナギを買いに行き、家族みんなで、病室でウナギを食べた。その時、父は「俺は幸せだった。お前たちがいて本当に幸せだった」と言い、母の名前を呼び、彼女の手を握ったまま、少し寝るといった。そして母の名前を呼んだ。母がここにいますよ、と手を握り返すと、そのまま眠ってしまい、それきり、目を覚まさなかった。

 今でも思う。告知をしていたら何かが変わったのかもしれない。でも、告知をすることでもしかしたら父は治療を辞めてしまったかもしれない。もしも、発病したのが今だったらもっと長生きしたかもしれないし、癌に勝てたかもしれない。たくさんのIFがある。当時、私たちはやれることをすべてやったと思うけれど、それでも残るIFがある。享年は57歳。16歳から家族を養うために働いて、20で商売を始めて、30を過ぎて結婚して、子供たちがみんな成人してそろそろリタイヤしようかな、なんて年だった。最後の言葉が家族と一緒にいて幸せだった、家族に囲まれ奥さんの手を握って微笑むように眠ったまま起きなかった、なんていうのは人が聞いたら、良い人生だったねと言えるのかもしれないけれど。苦労ばかり、働いてばかりの人だった。やさしくて、大きな人だった。もっと生きるべき人だったと私は思う。

 父親との思い出はたくさんあるのに、夏が来ると父親と過ごした病室での記憶ばかりが思い出される。父の死後、私は鰻が食べられなくなった。これくらいの時期になるとネットでも鰻食べた~なんてつぶやきだとかニュースを見かけるので、ますます色々なことを思い出す。父は病院にいる間、毎日、なぜかラジオの子供相談室を楽しみにしていた。この子は賢いなぁとか、この子は大物になるなぁなんてにこにことして聞いていた。もしかしたら、そうして毎日続く何かを聞くことで、明日も生きたいと思っていたのかもしれない。明日のラジオを聞かなければ死ねないと思っていたのかもしれない。

 父が亡くなり、49日が終わってから私はこちらへと戻ってきた。母が、お父さんとの約束を果たしなさい、学業をしっかり修めてきなさい。そういって送り出してくれたからだ。21年。父が亡くなった年からそんなにも長い年月が過ぎているのに、それでも私は夏が来ると不安定になり、何をするにも父のことを思い出して、ふさぎ込んでしまう。

 最近になって弟に「親父とサシ飲みしたり、外で二人で飲んだりしたのってきょうだいの中ではお前だけなんだよね」と言われて、そういわれればそうだとハッとした。今思えば、大学を出てから、渡米するまでの2か月間。それは父と過ごすために、15歳の時から離れていた時間を埋めるために、与えられた特別な2か月だったのだと思う。運命だとか、神様だとか、そんなものは信じていないけれど、でもやっぱり与えられた2か月は、言うなれば神様の贈り物、というやつだったのだと思うのだ。 

 夏は嫌いだけれど、そのうち、悲しい夏の思い出よりも、その特別な2か月のこと、楽しかったこと、父に与えてもらったすべてのことを幸せな記憶として思い出すようになれればいいな、とそんな風に思う。

 そして。与えられた日というのは限られていて、つまらない毎日、何気ない毎日、そんな風に日々を受け止めないで、毎日が特別な日なのだと思って生きていきたい、と思っている。



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