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米国式葬儀の話【前編】🍎と愉快な仲間たち 〜葬式編〜

まんまタイトル。サブタイ、コメント欄でいただきました。あは。

先日、おじの葬儀に行き、様々で散々な人間ドラマに巻き込まれてきた我々であるが、そんなネタで記事を書いてネガティブキャンペーンをしてもしょうがないので、これまで経験したこちらでの葬儀の諸々を書き記したい

お葬式は何度行っても慣れるものでもないが、50も目前のBBAにもなればそれなりにお別れを告げなくてはならない機会も多くなる。故人を偲んだり、生とは、死とは、なんてことを考えては、むぐぐぐと涙を流して身動きが取れなくなることも多々あるが、この記事はこちらでのお弔いの様式なぞをお伝えしたい。サブタイに絡めて、私の経験したそんなアホな……というようなエピソードも絡めたいと思う。葬式の仕様もろもろの記事もそれほど多くはないと思うのでほほぅ、なるほどとでも思っていただければ幸い。あくまで私が経験した葬儀であるので、それは違うのでは?という所もあるかも知れないがそこはご容赦いただきたい。

日本にいるときは、お通夜、お葬式、初七日、様々な法事やお墓参りなどさしたる感慨もなくそれらの儀式に参加したが、今になって思うのは、こういう弔いの儀式というのは、故人を想うと同時に、残された家族や親族が集まり、近況を話したり、思い出を語ったり。良きシステムであると思う。なぜなら、この国には、文化や風習としてお墓参りだとか、法事といったものが存在しないからである。

我が家の近所にあるお墓なぞ、結構な広さだというのに手入れをする人がいない、訪れる人がいない、そんな理由で荒地化してしまいどうすんのよ的なニュースになった。

お墓参りにいくかどうか、これは個人の思い入れなぞも関係するだろう。行く人たちはいるのだろうけど、私の周りでは、墓参りをした、という話を聞いたことはない。一応、言っておくがテンテコな日々、滅茶苦茶な人々に囲まれている私ではあるが、至って普通の米国日常生活を送っているので、機会があれば、お近くの米国人に聞いてみればよい。ところでさ、墓参りってしたことある?葬式、肝試し以外で墓所にいったことはある?って。多分、答えはNoのはずだ。

めちゃくちゃに広いこの国で、例えば退職したから別の土地に引っ越すなどする人が多い。ずっと地元や同じ土地にいる人は、割と少ない。日本人は、マイホームを購入したり、仕事につくと、その土地を終の住処とする人が多いように思うが、こちらの人は割とほいほい転職、引っ越しなぞを行うため、家のお墓のある土地に残る人が少ないのと、そもそも、家の墓ではなく、墓は、個人の墓なのである。土葬で埋葬されるから。

ゆえに、お墓参りといっても、例えばお父さんとお母さん、じいちゃんとばぁちゃんのお墓が別々の場所にあるのは当たり前だし、むしろ夫婦や家族が隣同士のお墓なんてケースは珍しいのだと思う。後述もするが、実際、我々は夫の祖父母の墓所を知らないし、夫婦揃ってお墓参りをしたのは日本でだけ。こちらではしたことがない。機会もないし。お墓の在り方にもまた国特有の家、家族という概念が現れるものだなぁと思う。

例えば数年前に他界したおじの話。義母の兄は大都会生まれだが、亡くなった場所はアトランタである。彼は大層なプレイボーイであり、結婚、離婚を繰り返し、プラスそこに多くの彼女が存在した。彼は文字通り、米国中に子供がおり、我々が知るだけで15人位はいる。わかっているだけで15人なので多分、もっといる。そんな複雑過ぎる家庭では確かに一家の墓所なるものを設置するのは難儀であろう。因みにこのおじの葬儀には現在の妻、過去の妻たち、愛人たち、元彼女たちが勢揃いしていたので、おそらく、彼はそれぞれの女性を確かに愛していたのであろう。しかし、現在、過去の女たち全員集合なんてドラマみたいな話だ。実際、夫アルゴはぼそりと「マンガです」と日本語でつぶやいていた。

映画やドラマで見るようにこちらは多くの場合、土葬される。それが正統というか、伝統的な考え。土に還るというやつである。昨今では様々な形態の埋葬スタイルが存在するがやはり土葬が一般的であろうと思う。ただ、我々は少し特殊というか、実のところ、土葬による埋葬という場に参列したのは1度きりである。

義母が亡くなった折、諸事情があり、平たく言えば、夫の義父が保険金を全部ぶんどり、一銭も出さなかった。なので、お葬式・埋葬の費用をどうするか、また、大都会出身であるママをどこに埋葬するかで揉めに揉めた。私は、荼毘・火葬が当たり前の国から来た女であるので、ほんなら火葬にしてもらえばいいじゃない、と何気なく言った。

だって、費用もなければ、前述したように残された人たちがお墓参りに行くとは考えられない。ゆーて、我々だってこちらの祖父母の墓参りなぞした事ないし、墓所がどこであるかも知らない。それなら荼毘に伏して、お骨をそれぞれに分ければいいじゃない、いつも一緒だし、墓の管理うんぬんという面倒がないじゃない、という考えだった。土葬に比べ、火葬の方が安い。そして慌てて探したお墓(遠方)に埋葬となると段取りも費用も大変ではないか。合理的と称される米国人たちである。なるほど、と納得されるかと思った。

だが、その時は夫を含め、全員が「はぁぁぁぁぁ!?荼毘?!!燃やすの?ふっさげんな!」と最初は大憤慨され、ありえない、もう、非人間のような扱いをされたわけであるが、超興奮状態の親族ご一同に私は前述した事実を淡々と告げてみた。結果、そうするしかない、という結論に達し、ママは荼毘にふされた。

火葬。燃やす、というのが宗教的に、心情的にどうしても受け入れられない人が多いのだと思う。日本の文化や他の国の文化を色々知る夫アルゴですらこの時の最初のリアクションは、断固拒否、絶対無理、無理ったら無理、あ〜無理無理。あんた(=私)何言い出すんだ、あほか、頭おかしいのか、いや、おかしいよ!というような反応であった。

これがきっかけなのかは知らないが、その後、亡くなった3人の叔父たちは、生前の遺言により、荼毘にふされた。先日亡くなったおじは、ノースカロライナのビーチに散骨してくれと言っていたらしく、そうするらしい。正直、散骨についての規制とか法律とかどうなっているのか謎である。そういった理由で、映画なぞでみる埋葬シーンの経験は1度きりである。とはいえ、火葬が一般的ではないこの国での諸々は私にとっては驚きの連続でもある。

まず初七日、四十九日といった儀式がないゆえ、お骨はずっと家にある。義母の遺骨は、夫とその兄、弟、そしてママのきょうだいに分骨された。うちには骨壺、そして義母の遺灰を詰めたペンダントがある(その骨壺をもって夫はスペインの巡礼路に散骨した)だって、お骨を収める場所(お墓やお寺)がないのだもの。家にずっとおるよ、そりゃ。仏式、日本の慣習でいえば、ずっとお骨を家に置いておくのはよくないらしいが、とりあえず、悪いことが起こったことはないし、そばにいるんだからそれでいいと我々は思っている。寧ろ、ママがここにいる、家にいてくれてる、そんな安心感すらあるのだ。

仏壇もないので、キャビネットの上に写真や思い出のものと一緒にネイビーブルーの骨壷は鎮座している。日本で仏壇を見た夫アルゴは、仏壇を買いたいと熱望しているが今のところまだ購入してはいない。

日本のようにお葬式の後に火葬場へ行くということもない。火葬場まで親族で行き、お骨を拾うという行為は、多くのアメリカ人にとって理解不能な行為らしい。そんな!残酷な!的なことを言われたことが何度かある。宗教観念の違いというやつである。こちらは、お葬式の後、最後のお別れをしたら、あとは葬儀会社が火葬の手続きをし、大体一週間後くらいにお骨を取りに行くか、もしくは宅急便で送られる。宅急便て……しかも普通のやつ。別に特別なサービスがあるわけでなく。普通の宅急便で送付される。

親族以外の人で火葬されたのは、事故にあってご遺体の損傷が激しかった友人が二人。どうしてもオープンキャスケット(お棺の蓋を開けたまま、最後のお別れをする)にできない場合などに、どうしようもなく、で、火葬というケースもある。こういった場合は、火葬されてから葬儀が執り行われる。

お通夜はない。私の経験した範囲では、亡くなってから大体、一週間後くらいに葬儀が行われる。義母の場合は病院で亡くなり、その夜、病院で対面したあと、次に彼女に対面したのは一週間後。葬儀の前日のことであった。

葬儀は2部に分かれる。Calling Hours, Viewingといって、お別れを告げる時間(大体二時間くらい)があり、 Funeral、お祈りや故人を偲ぶスピーチだのがある。Calling Hoursは、会場にお棺があり、お花などが飾られており、個々人が故人にお別れを告げ、ご遺族と話すというようなものでお通夜の感じと似ている。

そして続くFuneral であるが、Celebration of Lifeとも表記されるし、言われる。人生の祝福。これは日本人である私にとっては馴染みのない言い回しであるが、神のもとへ召される、という考え方であるので、神様に会える、天国にいける=祝福、なのであろう。仏様になる、という観念と神様に会いに行くという観念。そらお葬式や法事のスタイルが大きく異なるのにも頷ける話である。

夫親族の場合は、それほど熱心なキリスト教徒というわけでもなかったので、キリスト教的なお祈りだとか歌、牧師さんのスピーチなどは少な目であった。というか、ほとんどなく、葬儀会社の手配というか、パッケージ的な感じでついてきた感じであった。

夫アルゴもまたキリスト教を信じているわけでもないし、私と一緒になってから彼が教会に行ったのを見たことはないが、それでも幼い頃は教会に行かされていたと言っていた。そのせいかお祈りなどは出来るようで、祈りを諳んじていた。日本語での天にまします我らが父よ〜という祈りは知っている私だが英語バージョンは知らないので、祈りの間、私はもそもそと黙祷している。

このfuneral は1時間〜2時間ほど。一通りのお祈りなどか終わったら、参列者が最後のお別れをし、その後、埋葬される場合は出棺となるが、火葬の場合はそこが最後のお別れの場となる。

話が前後するが。葬儀の手配が済むと、Obituaryといってお葬式はここですよ、的な告知がされる。このObituaryには、略歴(どこで生まれて、何してとか、親族や家族のお名前なぞ)が掲載される。これもまた葬儀社の手配で行われる。日本で父の葬儀を手配した時も思ったが、葬儀屋さんの迅速、かつ丁寧、だが商売っ気の漂う一連の流れは素晴らしい、そしてそれは米国においても同じようである。

もちろん、お棺のグレード、式場のグレードなぞは存在しておりそこは日本と同じであるが。戒名などは存在しないのでお坊さん、お寺さんとの手続きなどはない。通っている教会があればそこの牧師さんが来るし、ない場合は牧師の資格を持っている人や葬儀会社の人が祈りを捧げる。ので、お布施などのやり取りがあるのかは不明。少なくとも義母の葬儀の時は彼女の友人であった、牧師の資格を持つ人が祈りを捧げてくれ、お布施などはなかった。

また葬儀において、お悔やみのお包みはあまり見ない。このobituary にお悔やみの寄付(って言い方もおかしいけど)を募ることもあれば、お葬式の日にカードと共に小切手や現金を包み、ご遺族へ渡す人たちもいる。今回亡くなったおじは心臓病を患っていたこともあり、寄付は全て心臓病のための組織に寄付される。あとお金の代わりに植樹する寄付もあった。我々は3本の植樹を行った。チャリティーってやつである。

そんな風であるので、ゲストブック、参列した人たちの名前を書くものはあるが、日本のようにテーブルがセットされ、親族、友人が受付をし、挨拶をし、記帳するということはない。大体の人がフォーマル姿で参列するが、普段着で来る人も多いし、カジュアルフォーマル?とでもいうのか、まあまあきちっとした姿(男性はジャケット着用、女性はワンピース的な)の人も多い。

書き始めたらまた長くなったので(いつものことながら)後半へと続く。

続き

こちら、今回の記事に関連して。夫アルゴの巡礼、散骨、そして(糞)義父による保険強奪事件、を書いた記事。


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