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おばあちゃん。そっちの世界はどうですか?無性の愛。大好きな人。

去年、大好きだったおばあちゃんが死んだ。
十数回の心筋梗塞と糖尿病、たくさんの病気を乗り越えて、野菜づくりが大好きで
じっと横になることが出来なくて
だから病院大嫌いで
80にもなって
「まだ死ねないから長生きさせてよ。先生」
と言い放った肝が座ったかっこいいおばあちゃんだった

両親は共働きで家で一人きりになる時間があるとおばあちゃんちに行った。おばあちゃんと野菜を収穫しておじいちゃんと牛に餌をあげて
スコールを飲みながら宿題をして
おばあちゃんたちと一緒に相撲を見て両親どちらかが迎えに来るのを待つ。

3人の中に会話はほとんどない。

それでも、祖父母の家はあったかく居心地はとっても良くて、
祖父母のことはとっても大好きだった。
今でも変わらず大好きだ。

軽トラでおじいちゃんの隣に座り、病気を感じさせない元気さでお墓参りと草刈りに毎日出ていた。
体は弱かったが80を過ぎても全然ボケを感じさせずかなの好きな食べ物も喜ぶものもかける言葉も熟知していた。

畑越しにおばぁちゃーーん!とさけぶと
「だいよ。(誰よ。)かなちゃんや。」
と、のそっと立ち上がりおばあちゃんの太ももより遥かに大きな大根片手にこっちへ向かって歩いてくる。
漬物も、おせちも、こんにゃくでさえなんでも作ってしまう料理がとってもうまいばあちゃんだった。
とりわけ、卵焼きはかなの大好物で
孫もみんな大好きで。
「運動会でせっかく早起きして作ったお弁当そっちのけでみんなが一口目に選んだのはおばあちゃんの卵焼きだった。あれは悔しかった。」と母は笑う。

18で実家をでて、22で美容師を辞めて実家へ戻った時も、
「こけすわらんか。(ここにきて座りなさい)」
と、申し訳ないと思う気持ちをパーンと跳ね除けて盛大に向かい入れてくれた。

かなが再び実家を出てから、入院することが増えた。おまけに、世の中はコロナが蔓延し、実家に帰ることもできなくなった。

やっと会えると父と病院に行った時。
見違えるほど痩せこけ、光をなくした目。
もうおばあちゃんは自分の力では歩けなくなっていた。深くうなだれた体にぎゅっとハグをする。
いつものように、
「だいよ。かなちゃんや」
そう微笑み、うんうんと頷く
おばあちゃんとベットに腰掛け、手を繋ぎながら、たわいもない現状報告をする。
「ばあちゃんね。ずっとあん山を見ているの。ちょっと前は緑くしてたんだけどねぇ。」
「退屈で仕方がないのよ。帰らせてくれって言うんだけどねぇ。
だいもばあちゃんのゆうこちゃきかん。
(誰も私の言うことを聞いてくれない)」
「かなちゃん、野菜持って帰りなさいよ。てげに(適当に)頑張んなさいよ。」
遠くの山を眺めながらぽつりぽつりと言葉を放つ。うんうん。かなも頑張るから。と返す。
一緒に行った父もかなも何も言葉が出なかった。
すぐ退院できるよ。なんて軽々しいことも言えなかった。

鹿屋の大きな病院へ移っても面会謝絶は続いた。母は幾度と病院へ通い、最善策を探していた。

ある朝、看護師が病室へ向かうと
おばあちゃんが床で寝てたという
泣き叫びながら
「じいちゃんに会いたい。家へ帰りたい。」
そう言ったと。
この状況から脱したいその一心でベットから降りたが
体が言うことを聞かずそのまま床で朝を迎えたらしい。
普段物静かで声を荒げることはほとんどない。強く逞しい小さな小さなおばあちゃんが。心から叫んだ魂の行動。

コロナというものを甘く見ていた私にとってこのおばあちゃんの変化には大きく考えさせられた。
人と会わないことはここまでも人を大きく変える。会えないことがここまでも辛いとは。
私が大人になるように、おばあちゃんもまた少しずつ歳を重ねていた。
子供の頃は
年末、お盆、行事ごとにおばあちゃん家に集まりご飯を食べた。またみんなでご飯を食べたい。と話したおばあちゃんが
治療より何より嫌ったのは
「みんなと会えなくなること。」だった。

それは1番近くにいた祖父と母が1番理解していたと思う。

鹿屋の大きな病院から実家と祖父母の家から近い、病院と併設した施設へと移った。
それは、もう終末期へと入ったからだ。と、のちに聞かされた。
たくさんの病気を持っていたため、受け入れてくれる施設もほとんどなかったという。
けれど、そこの施設は個室で、尚且つ、親族であれば面会も許してくれた。
久しぶりに。約1年半ぶりほど。おばあちゃんに会いに行った。
真っ黒の髪にパーマをかけていた綺麗な髪の毛は短い白髪へとかわり、
シングルベットが大きく見えるほど、
布団から浮き出ないほど小さな体で。

すやすやとおばあちゃんは眠っていた。

起こすのは申し訳ないと思った私を横目におっきい声で母が起こす。
「ばあちゃん!かなが帰ってきたよ!」
「起きてーー!!」
おばあちゃんは
ぱちっと目をあけゆっくりと頭を動かし
「だいよ。かなちゃんや。帰ってきたのか。」
と目を合わせ微笑んだ。

「そう。かなだよ。ただいま!会いにきたよ。やっとやっと会えたね。」

名前を覚えててくれた。目をあけてくれた。母と目を合わせ涙を堪えた。
あの感動はずっと忘れないと思う。

その後、おばあちゃんは祖父のいる家へ大きな介護ベッドと共に帰ってきた。
看護師と、介護士、ホームヘルパーの資格を持っている凄腕母のおかげで
自宅での療養が認められた。
母はずっと続けていた仕事を辞め、おばあちゃんの介護に専念した。
18で実家をでてから、がくっとおばあちゃんと会う頻度も減った。おばあちゃんが家へ戻ってからも嬉しい反面、おばあちゃんの変化に耐えられない自分がいた。
ほとんど一日中寝ているらしいが、かなが帰った時には幸運にも起きてくれていてベットにもたれながら、
時にとなりに座りながら、

特に会話もないが私は手を握り続けた。

母が台所に立ち、おばあちゃんのベットの下で祖父が新聞を読む。
志布志にいる、いとことも会う頻度が増えた。
夕方になってご飯を食べながらみんなで相撲を見る。

あの、小さい頃に少しだけ戻ったようだった。
おばあちゃんが家に帰れたのも母のおかげ。

おばあちゃん良かったね。おうち帰れたね。
お母さんありがとう。

実家へ戻り数ヶ月、草木が青々と色づき、たくさんの紫陽花が咲き誇る梅雨の初め。

おばあちゃんは天国へと旅立った。
たくさんの孫と近隣住民の方が駆けつけた。

声を出して泣く長女、現実を受け止めているのかいないのか声をかけ続ける母、ありがとう頑張ったな、とすすり泣く祖父。

みんなでおばあちゃんを囲む視界が、テレビ越しに見えているようで。
姉妹が泣き過ぎて過呼吸になるんじゃないかと心配し、おとうちゃんの写真撮影に文句を言えるほど。

私は泣けなかった。

私は受け止められていなかったと思う。

気がつくと、全ての行事が終わりおばあちゃんは写真の中で微笑む人になった。

また日常が始まる。

おばあちゃん

実家をでてから、いつでも会えなかったけどもう、いつでも会えるね。
もう卵焼きも里芋の煮っ転がしも食べられないけど、ちゃんと味覚えてるんだよ。だからいつでも食べられるね。卵焼き挑戦するんだけどいつも失敗して、まだまだおばあちゃんにはこれっぽっちも敵わないね。
美容師を辞めて実家に帰ってきた時、
両親に申し訳ないという気持ちが強くて情けなくて、でも、
「帰ってきてくれてありがとう。」って言ってくれてありがとう。
そんなこと言われたの初めてだったから、畑目の前にして泣いちゃった。
そんなわたしにすっとスコール渡してくれて。おばあちゃんが草取りするのをポーッと見つめて。
手伝えよ。って、もっと喋っとけよ。ツーショット撮っとけよって。今、思います。

お葬式の時いろんな方が口にした。
「自慢のおかあさんね。」
そうなんです。そんなすごいお母ちゃんがもっとすごいっていうのがおばあちゃんなんです。強いんです。おばあちゃんは。

そして、どんな時もポジティブに、おばあちゃんのために仕事を辞め生活の全てを注ぎこんだ母の愛情深さは、おばあちゃんにも同じように、無性の愛で育てられてきたからこそだと思う。

かなもそうなれるかな。そうなれるよね。おばあちゃんの孫だもん。ありがとうね。

先日、親友が
祖母孝行で旅行に出掛けていて
酔っ払ってかなに電話をかけてきた。
かなの話は時々聞いているようで、お世話になってます〜と親友のおばあちゃんと話をした。
おばあちゃんの子だからね。この子は大丈夫。辛い時もあると思うけど、それはあなたが優しい証拠。と、
元気をもらった。
と同時に
何もしてこれなかったね。ごめんね。おばあちゃん。かなは、もうそんなことはできないんだ。とほろっと涙が溢れた。

もうすぐで、おばあちゃんがいなくなって一年が経つ。
もう少し、おじいちゃん借りるね。おばあちゃんにたくさん土産話持って行かせるために祖父孝行していくね。もちろん、おとうちゃんとおかあちゃんも大事にする。
きっと、前言ってくれたみたいに
「かなちゃんも大事にしなさい。」って言われちゃうね。

お葬式で泣けなかった。でも、時々おばあちゃんを思い涙を流す。
今だって
涙が止まらない。こうして少しずつおばあちゃんへの死を受け入れていくんだろうな。

おばあちゃんへの気持ちは尽きない。
ここまでにしておこう。

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