わたしじゃないし、主体だし ──『もしもし、わたしじゃないし』に寄せて
2020年9月、かもめマシーンは、サミュエル・ベケットの作品『NOT I』(邦題:わたしじゃないし、訳:岡室美奈子)を原案とした作品『もしもし、わたしじゃないし』を上演した。
(予告編動画)
1972年に発表された『NOT I』は、「口」と「聞き手」を登場人物とした作品。戯曲の指定では、暗闇の舞台上2m50cmの高さに浮かぶ「口」が、未熟児で生まれ、孤児院で育ちながら、70歳を迎えた「彼女(今回の上演においては「あの子」)」についての話をまくしたて、「聞き手」は時折、「同情してどうしようもない」という身振りをするだけ。「口」は、彼女の話をまるで自分のことのように語るものの、リフレインされる「誰って? 違う、あの子だよ(Who?... No!... She!)」という台詞が、その語りの主語を宙吊りにしていく。
今回、私たちはこの作品を原案としながら、これを電話を使った上演として再構築することで、劇場で味わうものとは異なった演劇体験の創出を試みた。(文責:かもめマシーン 萩原雄太)
客体としての「私」
『NOT I』という作品を貫くのは、タイトルの通り「わたし」という主語の否認である。「口」は「彼女」という言葉を執拗なまでに使用することによって、徹底して「わたし」であることを回避していく。それが逆説的に描き出すのは、「わたし」の存在だろう。膨大な台詞をまくしたてるように語るその発話は、あたかも「わたし」として名指すこと/名指されることから必死で逃れているように読むことができる。私は、劇場でこの作品の上演を目撃したことはないけれども、YouTubeにアップロードされているBBCのバージョンをはじめ、これまで上演されてきたいくつかの作品を見ると、その多くが、本文中から不自然に消された「わたし = I 」という主語を巡る作品であったように考えられる。
今回、この作品を上演するにあたって私が焦点を当てたのもまた「わたし」というものについてだった。
では、ここで「わたし」とは、何を意味しているのだろうか?
これまで、かもめマシーンでは、日本国憲法をテキストに、「日本国民」という言葉を「俺」という言葉に変換することで、主権者という総体の中に存在する「俺」という個を描き出したり(『俺が代』)、『NOT I』と同じサミュエル・ベケットの作品『しあわせな日々』では、女が埋まっている円丘全体を彼女の身体として捉え直すことによって、円丘に閉じ込められてしまった「閉塞感」ではなく、円丘を「わたし」に拡張してしまうような「活力」を描き出してきた。
そのような経験から実感するのが、「わたし」という意味の多様性だ。
「わたし」は、人間社会において普遍的な言葉であるからこそ、そこには様々な意味や、意味とは呼べないようなささやかなイメージの断片が積み重ねられている。
(『俺が代』 舞台写真 撮影:荻原楽太郎)
『NOT I』のテキストを素直に読めば、そこには「わたし」に対する揺るぎない信頼が伺えるだろう。「わたし」が確固たるものであるからこそ、「彼女だよ」という言説が、自動的に「NOT I」へとスライドしていく。
しかし、2020年に、「わたしの確固さ」に対してどれだけリアリティを持てるだろうか?
とりわけ80年代以降、新自由主義が拡大するなかで、「わたし」は「価値を生み出す存在」としてみなされるようになっていった。この文脈において求められる「わたし」の姿を記述するならば、次のようなものになるだろうか。
「わたしを操作することによって、わたしは価値を生み出す。だから、わたしには、価値を生み出すようにわたしを操作する責任があり、価値を生み出せないのは操作するわたしの責任である。わたしは、わたしに対して責任を取らなければならないし、それが取れなかったら罰を受けなければならない」
上記のような「わたし」を基盤にしているからこそ、「自己責任」という言葉がこの社会の根幹をなす言葉になり、今や総理大臣が「自助」を第一の優先事項として掲げるまでになった。
その一方で、あるいはその反動として位置づけられるのが、SNSなどに見られる「わたし」のあり方だろう。
今更言明するまでもなく、現在、アカウントに切り分けられた「わたし」を複数所持することが当たり前になっている。というよりも、ならざるを得なかったのだろう。わたしがわたしに対して責任を追求されるなら、責任の所在であるわたしを小さく限定的にして分散化することで、リスクを低減できる。「わたし」をアカウントによってどんどんと切り分けていくことは、この世界を生き抜く術なのだ(accountには、責任や説明という意味が含まれている)。
世界とコミュニケートするために必要な「わたし」は今や、個人や人格、あるいは存在というような総体的なものではない。それはアカウントであり、インターフェイスであり、輪郭や接線と呼ばれるようなもの。換言すれば「OBJECT = 客体、物体」であるような「わたし」である。客体であるのだから、きっと「彼女」という言葉にも置き換えられるだろう。
ここで、ひとつの疑問が浮かび上がる。では、これらを考えている「わたし」とは誰なのか?
「わたし」がアカウントに小分けされた小さなものであるとしても、これを考えている「わたし」という意識は存在するし、きっと、これを読んでいるあなたにも「わたし」という意識が存在する。「存在してしまっている」と言ってもいいだろう。それは、「わたし」が思考を巡らす前からすでに存在している。こちらの「わたし」を「主体」という言葉で名指してみよう。
「わたし」という言葉の意味が変質し、どんなに客体化しようとも、誰もが主体であることからは避けられない。「わたし」という一人称が指すものと、「主体」は乖離しているのだ。
そのような認識のもとに『NOT I』という作品を見たときに、例えばこういう言い方はできないだろうか?
「わたしじゃない、けれども主体である」
ただし、主体であるためには、意識に先んじた存在としての「身体」が必要となる。では、この作品における身体性とはどのようなものだろうか?
電話線の末端に「いる」
(「もしもし、わたしじゃないし」稽古風景)
「わたしじゃない、けれども主体である」
そのようなコンセプトもまだ明確になる前、稽古の初期段階で考えていたのは決して電話という方法ではなく劇場公演の配信、もしくはZoomなどを使ったいわゆるオンライン演劇の形だった。
稽古場にプロジェクタを持ち込んで口だけを映し出してみると、確かに、BBCが製作した映像のような魅力的な画面が生まれる。しかし、そこには口が映る以上に何かを付け加える余地はなく、BBCの作品を超えるものにはならないだろう。
また、Zoomを使って俳優に台詞を読んでもらっても、どうもしっくりこない。ディスプレイ越しのやり取りは、どうしようもなく断絶されているように感じる。それは、同じ場を共有することによって共犯関係を結ぶことを第一義とする、私の考える「演劇」に該当しないものになってしまう。「場」がないところに、演劇は生まれない。
しかし、電話というツールを使えば、電話線上でつながる二者の間に「場」が生まれるのではないか。
電話をしているとき、人は無意識のうちに相手の姿を想像し、相手の存在を身近に感じる。映像がないにもかかわらず、いや、ないからこそ、声からその存在を受け取ってしまう。それは、テレビタレントよりも毎日聞くラジオパーソナリティの方がどこか身近に感じられることに似ているだろう。
また、電話というツールを利用してきたこれまでの記憶も、無視できない効果を果たしているはずだ。家族との通話、恋人との通話、友人との通話、電話を通じて行われてきた様々な会話の記憶は身体化され、私たちの「情」と呼べるような部分にまでアクセスする。電話とは、決して情報を伝達するためのツールではなく、ある質感を伴った文化的なツールとなっているのだ(付言すれば、それはLINEやMessenger、Zoomなどに押されてピークアウトした文化であることも、その質感を助長している)。そんな質感を持ったメディアを使えば、そこには仮想的な場が浮かび上がる。
だから、わたしたちは電話線の末端に「いる」ことができるのだ。
この「いる」という感覚を利用して、「口」に新たな身体性を与えることが「もしもし、わたしじゃないし」の創作の中心となっていった。
ベケットの作品には、「物質としての身体」への記述や、何かしらの障害を背負うような身体が登場する。「口」という部分にフォーカスした『NOT I』も、そんなベケットの身体観に基づいた作品だろう。身体の一部分としてではなく、あっけらかんと「口」という存在が置かれることによって、まるで、わたしたちはバラバラ死体を見るかのような圧倒的な違和感を覚える。そこに、特殊な身体性が浮かび上がってくる。
しかし、上記のような「口が(身体の一部ではなく、ただの)口である」という記述が驚きをもって迎えられる期間は長くない。すでに初演から50年あまりを経た『NOT I』を観る人々は、「口」が登場人物であることに驚けなくなってしまった。今、それに驚くためには、例えば、わたしたちが「しあわせな日々」で円丘の下にある身体を想像させることを意図したように、口の背後にあるものへと観客の意識が向かわなければならない。不在によって、目の前にあるよりもさらに強い身体の手触りを伝える必要があるのだ。
「身体性」は必ずしも身体から生まれるものではない。それは、身体を知覚する観客によって生み出されるものである。「口」が目の前になく、電話口で想像をしてしまうことで、この上演では、「わたしじゃない」という特別な身体を持つ「主体」を生み出している。
「プライベートな身体」への演劇
(「もしもし、わたしじゃないし」上演中の様子)
こうして、電話を使った演劇作品「もしもし、わたしじゃないし」は生み出されていった。そして、電話線を「場」として演劇を展開すると、これまでの演劇が果たすことができなかったことが達成できることに気づく。それが、プライベートへの介入だ。
これまで、演劇に触れるためには、劇場、あるいは舞台が設えられたある特定の場所に出向くことを必要とした。劇場は、必ず、別の観客と空間を分有することを前提とする場所であり、観客は「観客」としての演技を求められる。その環境は、観客に「観客」としての「パブリックな身体」を求めてきた。
しかし、電話を使った演劇作品は寝室のようなプライベート空間に入り込むものであり、そこにあるのはパブリックな身体とは異なるプライベートな身体である。その身体は、椅子に座っている必要もないし、服を着ている必要もない。
そのような身体に対してアクセスをすることで、演劇の可能性を広げることができるのではないか。
そもそも、これまで劇場で行われる演劇は、常に主役の座に君臨してきた。決して「ながら見」をすることはできず、観客はそこで行われている劇に集中しなければならない。別の言い方をすれば、これまで、観客の身体は常に劇によって操作され、劇に服従することを強いられてきた。
しかし、それは観客が「パブリックな身体」を持っているからこそできることだろう。
部屋着に着替えたプライベートな身体は、劇場にいる身体よりも「弱い」もの。そこでは胸を張ってもいないし、背筋も伸びていない。劇に対して集中することはできない。その身体は、操作されることも、服従することにも耐えられない。
だから、プライベートな身体に向き合うときに、劇が主役の座を降り、脇役の座に徹しなければならなくなる。その時主役となるのは、観客を取り巻く周囲の環境であり、生活と呼ばれるものだろう。
観客の身体を操作する権力を手放し、観客を取り巻く環境と共存する演劇へと変化を遂げる。それによって浮かび上がってくるのは、観客が誘われる別の場所ではなく、今、まさにこの寝室にいるという圧倒的な日常性だ。電話という形式によってプライベートな身体を持つ観客を想定することで、演劇が作り上げるパブリックの姿は、少し変わらざるを得ないだろう。それは、寝室にいるプライベートなわたしを肯定できるようなパブリックのあり方であり、アカウントにも回収されないような「わたし」を見つめるパブリックのあり方である。
緊急事態宣言の中で家の外に全く出ない生活を送ってきた私が必要としていたのは、そんなパブリックのあり方だった。
上記のような思考を逡巡しながら、『もしもし、わたしじゃないし』という作品はつくられていった。このテキストは、上演と上演の間の休憩時間に執筆している。きっと、すべての上演が終われば、また異なる思考が働くだろうが、ひとまずここまで。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?