見出し画像

あなたも私もたくさんいる 〜自分の多様性と、自分の中の多様性について〜

くめです。「結婚滅亡」という本を読んでいたら、以下のような一文に巡り会いました。

人は誰かと繋がることで、無意識に「その人によって生まれた新しい自分」を生み出しているってことです。たくさんの人と繋がれば、それだけ多くの新しい自分が自分の中に芽生えるのです。

確かにそうだなあと思えることがたくさんあります。

「この人かっこいいなあ」「こんな人になりたいなあ」と思うと、立ち振る舞いや仕事の仕方とかを無意識にコピーしていたりします。

「この人のこの喋り方が好きだなあ」と思うと、無意識に同じ口癖になっていたりします。今の私の口癖は確実にあの人の影響ですし、今の私の笑い方は確実にあの人の影響だっていうのは自分で理解できていたりします。

「自分は何者なんだ」「本当の私を見つけたい」って考え込んでしまう人は多いと思いますし、私もよく分からなくなった時期がありますが、「私って一つじゃないんだよな」ってことです。

自分の多様性

その環境・その生活・そこで会う人によって、人の立ち振る舞いって変わるじゃないですか。

仕事をしている時、家族と会う時、一人で趣味に向き合っている時、恋人とレストランに行く時。それぞれ立ち振る舞いは変わるかと思います。

ここで「この時はこのキャラクター、この時はこの仮面を被る」って思い込んでしまうと、じゃあ本当の自分ってなんだ。ってなるわけです。

じゃあどうすべきかというと、どれも自分だし、偽っているわけではないと考える。仕事をしている時とか恋人といる時は自分を偽っているんじゃないかと思ったりしちゃうかもしれませんが、それも含めて自分だと思えば気持ちはいささか楽になるものです。

人の生存戦略は”社会性”にあります。人と関わりあいながら社会を作って生き残っていくということです。

昔は一つの社会空間でしたが、現代の人々はいろんな社会で生きています。家族、友人、職場、趣味、インターネット、実に多様です。そこで生きていくべく、思考や行動を柔軟に変化させて、「自分」を変えているはずです。むしろそれが普通だと思います。

それぞれの空間では”自分じゃない”と思われる行動を起こしているのかもしれませんが、それもあくまで”自分”なんでしょうな。

なので、会う人によって自分がどう見られているのかも異なるはずです。

また、空間が一緒でも、立場によっても変わります。職場の上司からは「真面目だが柔軟性がない人」、と思われているが、同僚からは「優しくて頼り甲斐のある人」、取引先からは「実直でつまんない奴だが、信頼できる」と思われているかもしれません。

その空間、その立場、その状況によって自分の見られ方は変わってくるわけですから、私に対する考えや評価が変わってもなんらおかしくありません。それを全て受け取ろうとするとパンクしますが、「それもまた自分なんだなあ」と受け入れて考えると、新しい自分を発見できたりします。

反対に、他人を自分のフィルターを通して見たとしても、あくまでその人の一部分しか見えていません。

バリバリ仕事ができて優秀で、とても頼れる部長。部下として信頼できますし、一生ついていきます!と思えるかもしれませんが、実は家ではぐーたらで、だらしのない奴で、離婚の危機にあるかもしれません。だからといって自分の信頼度が崩れるかというと、そうでもないかと思います。

「仕事ができて頼れる人」「家ではぐーたらでだらしない」。これは別に相反しませんし、どっちも”その人”です。仕事ができるから、きっと素敵な奥さんと素敵な生活を過ごしている、なんてのはただの思い込みにすぎません。

自分の中の多様性

いわば、「一人十色」です。
「一人十色」とは、自分の中に複数いる自分の存在を、自分自身が認めることです。「人とつながる」ことで生まれた十色の彩りとは、柔軟性であり、適応力でもあります。

人と会うたびに、いろんな影響を受けると思います。で、それがいつの間にか自分のものになっていたりします。

私が好きな音楽は、たいていは私が出会った人が聞いていた曲です。私が好きな映画や本は、たいてい私が出会った人に勧められた本です。私が節約を心がけているのは、主に親から影響を受けています。私が文章を書くことを始めたきっかけは、好きな文筆家の影響です。私が仕事を頑張ろうなと思えたのは憧れる人の影響ですし、私がよく本を読むのも、私の尊敬する人の影響が大きいかと思います。

私は渋沢栄一にように、何か大きい仕事をやって社会に貢献したいと思う気持ちがあります。一方で、兼好法師のようにゆったりと日常の幸せを味わって生きていきたいなあという気持ちもあります。いろんなところに行きたいという欲がある一方で、部屋に引きこもってだらだらしたいという欲もあったりします。

それもこれも、全部”自分”です。一見相反しそうなこともあるかもしれませんが、自分は一つじゃないのです。いろんな気持ちがあって当然ですし、それぞれの存在を認めると、かなり楽な気持ちになれます。そして、自分の中で折り合いをつけながら生きていけばいいのだと思います。

他人の中の多様性

自分には色んな姿があり、色んな考え方がある。ならば、当然ながら他人にも色んな姿があり、色んな考え方を持っています。

ここで注意したいのは、「ある一部分をもってして、それがその人の全て」と決めつけないことですな。

SNSでよく見かけるのが「こいつはこう発言しているから◯◯に決まってる」、「この前はこんな事を言ってたのに、違うじゃないか、最低だ」とか。極論ですが、こういう趣旨の発言がまかり通っていたりします。

SNSは過去の発言も永遠に残ってしまうので、何かと過去を引き摺り出されますが、まずそれは「その人の考え方の一部である」事。そして、その人も「いろんな人と出会って色んな影響を受けて、色々変わっている」という事。これはぜひ理解しておきたいところです。

一人を一つの物として見ない事。これができるようになれば、その人の憧れる部分と、反面教師にしたい部分を見分けることができるようにもなります。

そしてその人に対する評価も変わってくるかと思います。上司が部下に対して評価をする時、国民が政治家の政策を評価する時、いろんな場面で活用できますね。

「お前はここがダメだから評価はゼロ、人間性なし」ではなく、「ここは素晴らしいから伸ばしていってほしい、逆にここは課題」というように。
「この政治家は性格が悪いからクソ」ではなく、「この政策は評価できるが、この政策は改善してほしい」など。

とはいえ、これをできるようにするためには、まず自分自身の多様な彩りの存在を認めることですね。

他人と出会って、自分を創っていく

繰り返しますが、人は会う人会う人に影響されています。そして、それが自分に取り込まれて自分ができあがっていくんですね。

ならば、それをもうちょっと意識的に実践していくことで、自分を形成するスピード(≒成長すること)も高まっていくでしょう。

例えば中国古典の「易経」には、見龍という龍が登場します。最初の修養として、師匠を見習い、師匠の教えを繰り返し実践する事で、物事の基本を学ぶことを例えたものです。

「見習うことが大事なのだ。わしも見よう見まねして色んな事を学んだぞ。学び始めは先生そっくりにできるようになるまで何度も練習したものだ」

「えっ、王様も見龍みたいに真似したんですか?」

「もちろん。わしが前の王様である父に初めて教わったのは、挨拶の仕方だった。国の民やよその国のお客さんにきちんとしたお辞儀ができるようになるまで父を見て、ひたすら真似したんだ」

「どうして始めに挨拶だったんだろう」
「挨拶ができない王様がいたらどう思うかね?」
- 『易経 陽の巻―夢をもつってどういうこと?』より

誰だって始めは何もわからないし、何も出来ないものです。それでも憧れる人や師となる人の教えに従い、段々とその人に近づいていくことができます。

これを更に部分化したものとして、梅田望夫氏が提唱している「ロールモデル思考法」があります。

外界の膨大な情報に身をさらし、直感で「ロールモデル(お手本)」を選び続ける。たった一人の人物をロールモデルとして選び盲信するのではなく、「ある人の生き方のある部分」「ある仕事に流れるこんな時間」「誰かの時間の使い方」「誰かの生活の場面」など、人生のありとあらゆる局面に関するたくさんの情報から、自分の波長と合うロールモデルを丁寧に収集するのである。
- 『ウェブ時代をゆく』より

これはまさに「一人十色」の考え方ですね。

その人が持っている自分が惹かれた一色を見本として設定し、真似して自分のものにするということです。

家族から見習える事、職場の人から見習える事、友人や恋人から見習える事、特定のコミュニティで見習える人、いろんな人と出会う事でいろんな自分が形成されていき、そうして自分という存在が確立していくんですね。

そして、見習える人は何も対面で会う必要はありません。「この小説に出てくるこの人物の言動」でも良いですし、「この曲のこの歌詞が良い」でも良い。偉人や経営者の言葉に習うもよし、Twitterに流れてきた知らない人の言葉でも良いわけです。

大事なことは死に方なんだ

乃木坂46の「忘却と美学」という曲に出てくる歌詞なんですけど、良いですよね。かっこいいです。好きですね。

で、これと似た言葉は「論語」にも出てきたりします。

君子は、自分が生きている間の名声ではなく、死んでからの名声を気にする。
- 『超訳 論語』より 

で、さらに自来也先生もまた、似たような発言をしていたりします。

忍びは生き様ではなく死に様の世界。
忍びの人生とはどうやって生きたかではなく、死ぬまでに何をしたかでその価値が決まる。 
- 「NARUTO」より

良いですね、この考え方は(見習えるかどうかは別として)好きです。

さてなにかピンときたときは、自分の心が動かされた証拠です。それは共感に限らず、時に怒りや嫉妬などもあるかと思います。しかしそうした思いを深掘りしていくと、実は憧れだった、なんてことも有り得ます。「嫌よ嫌よも好きのうち」、ですね。ぜひ自分の心の動きに注目してみてください。

ところで一例を出しましたが、J-Popも中国古典も漫画も、色んな人の考えに触れられるきっかけをくれたりします。それに限らず、小説・ゲーム・映画など、今じゃ数えきれないくらい色んな作品があります。読書が好きならたくさん本を読めば良いし、ゲームが好きならたくさんゲームをすれば良いのです。

ふと自分を振り返ると、あ〜あの時に出会ったあの人(作品)が自分を創っていたんだなと気づいたりします。そして、その人や作品に感謝するようになります。そうなったら、過去出会った人、これから出会う人、色んな人に感謝できるようになれるのかもしれません。

※関連記事


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?