高校苦登校から脱出したが2回休学した男が半生を語る❸-高3受験編-

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紆余曲折はあったが、果たして無事に受験を乗り越えることは出来たのか。
この記事は「高校苦登校から脱出したが2回休学した男が半生を語る」という自分語りの3作目の記事となります。前回の記事は上のリンクより見ることができます。
※この記事の終盤には大便の話題が出てきます

高校卒業と、大学受験と(2021・高3)

以下、(高校にはまともに友達もいなかったので)基本的には高校や受験勉強のあらましについて述べていきたいと思う。3年となり先輩から伝授されたサバイブ術を実行に移すこととなった。結論から言えば、大分楽になった。
 最初こそ大分緊張していたり、身体がなかなか動かない時に休んでよいものか悩んでいたら早く決めろと言う親と衝突したりはした。しかし、少なくとも教室の中では指されなくなってからは大分楽に感じた。究極的に言えば、学校に足を運び、50分間×7教室の中にいれば良いのである。勿論体力は少し落ちていたり精神的にも疲れたりしないわけではないので大変ではあるが、やはりその中でも幾分か休めると気持ち的にも大分違う。最終的には内職を平然とこなすようになるまでになった。英語の授業を聞かずに単語帳を開いたり、国語の時間は教科書の文を読むより古文単語帳を開いたり、地歴では参考書を読んで一問一答をやったり。その辺りでかなり日々の勉強時間を稼げたような気がする。教科的に関係あるものをなるべく選んでいるので許せ。とは言ったものの結局数学や理科基礎でも関係ない教科を勉強していたが。
学校の方からは基本的に内職は禁止されていたが、時々授業を休んでいるので、致し方ない。一番危なかったのは、共通テスト数学の過去問演習中に英単語帳を平然と開き先生に見られた(?)ことだが、何故か怒られることはなく、どうにか事なきを得た。
 月の初め頃にその月の授業日、コマ数を調べ、その1/3に達しない日を計算して休む。早退する。体育は友達がいないのでペアは作れないが、まあボーナスタイム。授業は基本内職。しんどくなったら保健室に向かう。最終的には寝たくなった時に保健室に行っていたような気がする。
 とはいえ困ったこともあった。精神科に行き始め薬を処方してもらったことで不安感はかなり軽減された。それは良いのだが、その副作用としてどうしても眠気が出てきてしまい、授業中寝てしまうことが増えてしまった。授業だけならまだ良いのだが(良くはないだろ)日々勉強に励まねばならない受験生にとってはこれは致命的な事態だった。特に休みの日、せっかく時間があるにも関わらず机に向かっている時でさえもウトウトしてしまうこともしばしば。顔を洗ったり30分くらいだけ寝てみたりといろいろ試行錯誤はしてみたが、結局最終的なところでも最大で1日3時間程度しか勉強することが出来なかったというのは少し危なかった。よく合格できたものだ。ともあれ、さまざまな配慮をしてもらったり工夫をしたりすることで、高校での居心地の悪さのようなものは卒業する頃には相当軽減されていたと思う。

遂に塾に入るが…

親に対しては一応一通りの事情を説明したが、授業に穴が空くことになるので、元々僕は塾に行くことに対しては随分と否定的だったが、流石に1人で勉強するのはリスキーだと思ったので、高2の3月に塾に入ることにした。とはいえ、やはりまだ塾というものをあまり信用していなかったのと、この頃は参考書信者となっていて、「参考書を使いつついろいろと受験をサポートしてくれる塾はねぇかな」とか思いながら学習塾のサイトをシュポシュポ探していた。
 見つけたのはオンライン塾だった。なんでも週に1度zoomで面談をして講師と共に1日〜1週間の計画を立て、参考書などを使いながら各自参考書などの学習を進め、日々学習時間や成果などをSkypeで報告、わからないところは講師に聞くなどのシステムが確立されているらしい。塾などに直接行かなくても済み、自分のペースで学習を進めることが出来る、親をどうにか説得し、これしかないと思い入会した。

数学を捨てる

 しかし、最初はあまり上手くいかなかった。というか、講師との相性が悪かった。本人はかなりの進学校出身で某帝国大学在学中だったかで相当優秀なのだろうなというのはなんとなく理解したが、いかんせん僕との考え方が合わない部分が大きかった。まあ実を言えば最初は僕も某帝国大学を志望していたからこの人があてがわれた訳だが。しかし8時間とかを勉強しろと言われている中、前述の事情の通り、2時間とか3時間とかしか勉強することが出来なかった上、せっかく立てたスケジュール通りに参考書を進めることも出来なかった。また、他の教科はまだ良いとしても(良くはない、宮廷志望にも関わらず進研模試で偏差値50以下の結果が多い中で)数学が壊滅的に出来ず、進研模試ですら偏差値が40前半とか下手したら30台にも突っ込んでいたような気がする。受験を経験した人にならわかると思うが、その大学のレベルでは青チャートを余裕で解かなければならないにも関わらず、僕はそのレベルの二つ下の白チャートですらちゃんと解けなかった。この成績で(事情があるとはいえ)この勉強時間でということで毎日のSkypeのメッセージやzoomの面談で怒られ音を上げ、高校では国立志望のカリキュラムを選んだのにも関わらず、高3の4月にして数学を捨てる決断をする(=私立文系を選ぶ)という偉業を成し遂げることとなる。何せ数学の定期試験で赤点を回避することが出来たのが1年生1学期の中間試験だけという惨状である。「高校の時は成績良くなくていつも赤点ギリギリだった…」とかのレベルにも達していない。遅すぎたぐらいだ。こんなことは受験上の戦略に過ぎないので自慢しても仕方ないのだが。

まあ数学を捨てれば良いという問題でもない。数学を受験科目から外し、国語英語地歴(世界史選択)の3教科に特化して勉強していけばどうにかなるのでは!?と思ったが、勉強時間は変わらず。で相変わらず講師に怒られ続け、塾に入ったことを後悔し始めていた。そんな中で当然成績が上がるはずなく、案の定模試ではコテンパンにされた。こんな言葉をかけられた。
「今努力出来ない人間が、将来努力出来るはずもない」
流石に心外だったので反論も試みたが、その倍ぐらいやられるので嫌気が差し始めていた。頑張っていないわけではないのだが、薬の副作用もありなかなか長時間勉強することが出来ない。あと普通にスケジュールがあまり守れない人間だったということもある。あと不安感。
ふと、最初塾の広告を見た時に、講師はいつでも変えることが出来ると書いてあったのを思い出した。こっそりメンターのようなチーフ的な人にそれを伝え、講師を交代させるという行動に打って出た。やっぱりいろいろと問題児だった気がする。

救世主、現る

その次の先生こそ、僕の受験での恩人の1人であり、この人がいなければ受験は上手くいかなかったであろうと思うぐらいには感謝している先生である。次の講師の条件としてどんな人が良いかということをチーフの人に聞かれたので、不登校苦登校的なことに配慮のある人、自分のペースを尊重してくれる人というような人生舐めとんのかと思うような注文を投げつけた。果たしてどんな人だろうと思って面談に臨むと、とある名門私立大学に通う女性の先生だった。なんでも高校の諸々に耐えることが出来ずに高校を辞め、1年浪人した後にその大学へと入ったと言う。確かに僕と境遇というか巡り合わせが似ていて、理解のありそうな人だった。仮にT先生としよう。
T先生の指導方針は予想外のものだった。まず、計画について。体調などが優れないことがあるのだから、計画を守ることが出来なくても構わない。そして───これが自分の勉強に対する見方の転換点となったのだが───日々の報告で自分が理解出来たこと、納得出来たようなことを報告して欲しいとのこと。また勉強のことでなくても良いので趣味のことでもいいよと。偶然先生もアニメが好きだった。「ひぐらしのなく頃に」の話で、盛り上がった。
確かに言語化をしていくことで理解の助けとなるかもしれない。完全に目から鱗だった。そこからはだんだんと成績は上向いてきた。テキストをよりいっそう深く読み込むようになった。日々の報告では僕のまとめに対して先生がより深い知識を教えてくれるので勉強になったし、それに負けじとしっかりと机に向かうようになった。どんなことでも報告してくれと言ってくれたのは、リラックスして勉強して欲しかったからかもしれない。それだけその頃の僕は肩がガチガチだったりしたのだろうか。
 その頃から勉強内容を文字にまとめるのにハマり、Twitterに勉強垢を開設した。それが良くも悪くも僕のツイ廃人生の始まりだったりする。周りの人間は当然のように中高一貫の進学校だったり東大志望だったり早慶志望だったりと少し心は折れかけたが、自分なりのペースを守ることをなるべく心がけた。夏休みは高校から10時間やれやと脅されており、塾でもそれに準ずる時間をやるよう言われており無事顔が青ざめていたが、やはりT先生は暖かい目で僕の勉強を見守ってくれていた。そんなT先生ではあったが、諸事情により9月末をもって先生を辞めてしまうとのことで流石にショックだった。しかし、後続の先生(M先生)もまた優しい方だった。
 進学校出身ではあったが、腹痛持ちであったために現役時代受験が上手くいかず、1浪で某中堅私立大学に入学したそうだ。進学校と言えども希望の大学に入れる人間は一握り。よくあるパターンだろう(何様なんだお前は)。僕もIBSに苦しめられていたので、やはりこちらの先生にもシンパシーを感じた。そしてやはり素晴らしい方だった。お世話になりました。つらい経験を持つ人は、往々にして優しいということなのかもしれない。塾の先生と生徒という関係性ではあるものの、そういう経験を持つ人を暖かい目で見守りたいというスタンスはこの頃培われたような気がする。

成績、悪戦苦闘(2021〜2022・高3・冬)


さて、成績は多少伸びたものの共通テストの模試はあまり出来なかった。過去問は大体国語6〜7割、英語5.5割、世界史7〜8割。平均か平均より少し上ぐらいだったが、第一志望はどれも共テ利用で8割越えをしなければならないので、まあ使い物になる成績ではなかった。結局本番はそれよりも更に低い成績で、滑り止めにも利用するのを断念した。文科省を許してはならない(他責)。

 これで大丈夫なのかという心配はあったが、幸い私立の一般入試の過去問は(第一志望以外は)それなりに取れていたので共テ利用はやめて私立の一般入試対策に集中することにした。5校。時間をあまり取れない僕にはこのぐらいの数がちょうどいいように思えたのと、仮に第1志望に落ちたとしても、行きたいと思える大学を選び抜きたいという思いがあってのことだった。塾の側でもただ漠然とした志望理由ではなく、しっかりとした理由を講師と一緒に考えていくというようなコンセプトがあり(継続さえ出来れば学歴を手に入れたいとかでも別にOKらしい)、僕の場合にはやはり趣味や心の支えとしてアニメが好きだったこともあり、サブカルチャーやアニメなどの文化を学びたいというのがあり、大学のパンフレットを読み込みそういう学問分野のある大学を志望した、はず。よく考えればこれでも学歴云々と同じくふわっとはしているが、ある程度モチベーションにはなっていたので、まあ良しとしよう。

遂に受験!

 今にして思えば、受験はいろいろとカオスだった。結果から言えば5校出願したうちの2校合格。耐えた方な気はする。第1志望。古文・漢文が出来ない。英語が解き終わらない。世界史がわからない。普通に実力不足だった。本番は諦めて試験の合間にモ○ストをやっていた。勿論不合格。第2志望。第1志望とレベル感は似ている。国語が現代文のみ。ボーダーは6割ちょい、そして過去問ではなんと7割5分と善戦した、少し高望みしたかと思っていたが合格が見えてきた、行けるか!?本番元々読書をしていたことから得意だった現代文の話題が硬めの伝統芸能、頭が回らず冷や汗、そこから集中力は途切れてしまい、すんでのところで不合格…第4回合格発表までは粘ったのだが。第3志望。問題の癖が強く、ほぼ筆記。難易度自体はさほど高くはなかったが、ボーダーは7割、過去問演習では7割未満が続く。落ちそうかと思いきや本番での問題との相性がよくむしろこちらが合格。第4志望。あやしい。なんだかふわふわとした理解で問題を解いていて、途中眠くなるなどし怪しい部分はあったものの、なぜか合格。

第5志望不戦敗事件

 第5志望。滑り止めのハズだったがまさかの大失敗。誤算その1。会場は世田谷のキャンパスだったのだが、間違えてその受ける学部のある町田まで行ってしまう。その2。当日腹の調子がめちゃくちゃ悪かった。(間違った)会場に着くとき腹がとにかく痛かった。早く着いたから人がいないのかなと思っていたが、時間が近づいても人がいない。これはおかしいと受験票を確認すると、会場は世田谷だった。痛む腹を抱えながら、僕は絶望した。電車の時間を調べる。間に合わない。ならタクシーは。間に合うかはわからないと言う。町田から世田谷までタクシーを飛ばす。時刻を見ると、試験の遅刻の限度を超している。僕は、察した。受付のスーツっぽい人になんか申し訳無さそうな顔をされ、結局、親に2万ぐらいの受験料を払ってもらいながら、試験すら受けられず、受験会場のトイレでう○こだけし、トイレの中で親と講師の先生への詫びのメールを入れていた。この時は流石に生きた心地がしなかった。この失敗に懲り第4志望以後はちゃんと受験会場を何度も確認し、下痢止めを買った。2つの失敗が、折り重なっていた。

波乱のまま幕を下ろした受験、とはいえ第1・第2志望までは落ちるが第三志望の、特に行きたい大学に合格することが出来たのは普通に嬉しかった。

こうして無事に受験も終え、苦い経験も多かった高校ともおさらばし、東京での大学生活に胸を躍らせていたのだが……

余談

もっと受験に関しては詳細に書き、受験生や不登校に悩んでいたりする読者の皆さんにとって有用なものを書き上げたかった(そもそもどこの馬の骨ともわからない人間の自分語りなのだが)のだが、2年前であり筆者の記憶が曖昧になっていること、また筆者の文章力が足りず、参考になるか怪しい点はご容赦願いたい。

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