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月に願いを  SS0015

中秋の名月 2018/9/24

 ──月なんて、大っ嫌いだ。
 特に中秋の名月なんて見たくもない。最近は、黄色信号や、月見そばやうどんの黄身を見るだけでも、涙が込み上げてくる。

 憂鬱な休日出勤を終え、駅から家路に向かう道を、私は夜空を見ないよう、うつむきながら早足で進んだ。毎回必ず寄る途中のコンビニエンスストアにも目もくれない。この時期には、月見商品があふれている。

 何とかアパートにたどり着き、息を吐く。
 明かりを点けると、リビングの片隅にある、いまだに片付けることのできない、ケージとサークルが目に入り、目頭が熱くなる。

 二か月前の満月の暑い夜、サークルの真ん中で「ぷうちゃん」は冷たくなっていた。

 東京で一人暮らしを始めた七年前、寂しさを紛らわすために、ブルーのネザーランドドワーフの子うさぎを飼い始めた。初めての飼育は大変だったが、愛くるしい仕草や表情は、何事にも代えられず、私の宝物となった。
 仕事で辛いことがあっても、家に帰れば、ぷうがいると思えば耐えられた。ぷうは人生の支えであり、家族であり、全てになった。

 寿命だったのかもしれないが、最愛の者の死に目に寄り添うことのできなかった無念が、強く残った。うさぎは死ぬと月に帰るらしい。死を受け入れられなくて月を見るのを避けた。

 大きなため息をついてベッドに腰掛ける。物音がした気がして、ついサークルを見てしまう。嬉しいときに何度も飛び跳ねる、ぷうの姿が思い浮かぶ。お気に入りだった黄色のマットがぽつんと置かれたままだ。うっすらと埃が積もっている。胸が苦しくなる。

 また物音がした。ベランダからだ。部屋は二階で、裏は墓地だ。まさか、泥棒──。

 手に分厚い百科事典を持ち、恐る恐る窓に向かう。カーテンを開け、ベランダを覗くが、暗闇には誰もいなかった。拍子抜けして座りこんだら、つい上を向いてしまった。

 中秋の名月が、目に飛び込んできた。まん丸で黄金色に輝く月が、滲んで見える。胸に想い出が甦る。熱い涙が、頬を伝わっていた。


 ──その晩、夢を見た。
 ぷうが足元を八の字に走り回っている。鼻をつんつんさせた後、ごろんと寝転がった。私は座り、その柔らかく温かい体をなでる。
 頬ずりして小さな体を抱き締めると、ぷうは眼を細め、気持ちよさそうに鳴いた。
「また会えるよ」そう言った気がした。

 上半身を起こした私は両手を見る。ぷうの温もりが残っている手を、そっと胸に当てた。

「ねえ、夢でしか会えないの」ブルーのネザーランドドワーフが、不満げに聞いてくる。
「ええ、それも条件があります。相手があなたを深く想いながら満月に願いをかけないと駄目なのです」私は頭をかく。彼岸の手伝いをしている私に、どうしても現世の飼い主に会いたいと、このうさぎは無理を言ってきた。
「毎日……会いたいのにな……」
「それでもうさぎ属は月に一度、満月の日には会えるのですから幸せですよ。人属は年に三回ですからね……」彼岸の今はその時期だ。
「ああ、でも楽しかったな……。死神さん、ありがとね」うさぎは嬉しげにぴょんぴょんと跳ねながら、月への道を帰ってゆく。

 死神の私は、実体には触れられないが、音なら出せる。たまたま彼岸の会期の途中だったので、少し手伝っただけだ。「満月は今晩だから、実は昨晩のは奇跡なのですよ……」

 窓の開く音に振り返ると、真っ赤な眼で笑っている女性が見えた。私は口の端を上げる。
 今日も会えますように──。

第13回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞して自衛隊ミステリー『深山の桜』で作家デビューしました。 プロフィールはウェブサイトにてご確認ください。 https://kamiya-masanari.com/Profile.html 皆様のご声援が何よりも励みになります!