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せっかちな夫  SS0013

終戦の日 2018/8/15

「──おい、ばあさん、そろそろ行くぞ」
 夫が居間に入ってくるなり、大声を出した。
 本当にこの人はせっかちなんだから、私はまだ用意ができていない。息子たちは出掛けているし、それに高校野球がいいところ。ここまで見たら最後まで見届けないといけない。
「お、甲子園も、もう百回目か。どれどれ」
 夫はテレビの前にあぐらをかいて座ると、やがて目の前の試合に夢中になり出した。
 この試合中の正午に、サイレンが甲子園に響いた。今日は年に一度の特別な日だ。
「よしっ、おおっ、このサードうめえな」
 野球好きなのも変わらない。というかこの人は昔、甲子園に出場したことがある。
「あ、この馬鹿、慌てて送球したから暴投じゃねえか。せっかちな奴だ。サードはだな、もっとどっしりとしてなきゃいけねえんだ」
 夫の相変わらずの声に、私は久しぶりに笑い声をこぼした。
 夫は名サードだった。軽やかなゴロを捌いてファーストに鋭く投げる姿に、私は憧れた。
 まあ、せっかちで慌て者の夫は、同じように、時々暴投しては頭を抱えていたが……。
 夫が甲子園に出場したのは、戦前最後の夏の大会だった。朝鮮半島代表の確か……平壌一中と対戦したのだったかしら……。
「おっ、いいぞサード、やりゃあできるじゃねえか。それでいいんだよ」
 試合に歓声を送る幼なじみだった夫の後ろ姿は、あの頃と変わらない。大きな背中を、私はいつも後ろから見つめていた。

 あの時も村の外れに私を呼び出し、背中を向けたまま、私に言ったのだった。
「俺はせっかちだから、徴兵を待つなんてしたくねえ。志願して飛行機乗りになる」
 三年後に再会した夫は、見違えるようになった精悍な顔で、「数か月しか暮らせねえかもしれねえが、一緒にならねえか」と言った。
 突然の告白に躊躇していたら、「俺はせっかちなんだ。駄目なら駄目と言ってくれ」と泣き出しそうな顔で迫ってきた。
「あんたは、本当にせっかちだね……」と私は、久しぶりに笑ったものだった。
 しかし、特攻に志願したと聞いた時は、せっかちどころではなく、粗忽者だと思った。
 お腹に赤ん坊がいることを告げたら、目を丸くして黙り込み、やがてうつむいた。
「す……すまねえ……」
「できるのなら無事に帰ってきてください。迎えにきてくれないと、私は恨みますよ」
 おどけたような声を返すのが精一杯だった。

「ああ、またサード。せっかちな野郎だな」
「そりゃあ、そうでしょう。サードのその子は、あんたのひ孫なんだから。せっかちなのは、あんたの血のせいですよ」
 夫はこちらを向くと目を丸くした。
「そ、そうか……。それじゃあ、この試合が終わるまでは、待たなきゃいけねえなあ」
 夫のしんみりとした優しい口調に、胸に温かい想いが、満ちあふれる。
「せっかちなあんたなのに、七十三年も待ってくれたんですからね。約束を守ってくれて、ありがとね、あんた……」

 私は連絡を受けて、息子夫婦を残したまま、甲子園から急いで実家に帰ってきた。
 母の死に顔は、穏やかな笑顔だった。
 側に特攻で亡くなった父の写真が、落ちていた。仏壇の横に飾られていたものだ。
 バットを構えた父の写真を手に取ると、なぜか私は、安心した気持ちになった。
「親父……。お袋は頑張ったんだぜ……」
 優しい夜風が吹く、八月十五日の夜だった。

第13回『このミステリーがすごい!』大賞優秀賞を受賞して自衛隊ミステリー『深山の桜』で作家デビューしました。 プロフィールはウェブサイトにてご確認ください。 https://kamiya-masanari.com/Profile.html 皆様のご声援が何よりも励みになります!