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2つの「わかる」

わかるには2つある

わかるには2つあることがわかった。ここで言う「わかった」のは1つ目のわかる、すなわち論理的理解だ。もう一つのわかるは、共感的理解だ。

論理的理解と共感的理解

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たいがい、こうした違いを見る場合、それぞれを漢字で書くと書き分けられ、理解が深まるのだが(聴くと聞くとか)、分かる、解かる、判かる、どれも2つの意味に重ならない。どうやら中国語の概念では明確に区別がついていないらしい。英語ではlogical understanding と Empathic understandingで、これも単語として分かれていないということは、明確に区別されていないのだろう。
なぜこのような区別をあえてしたかというと、何かを「わかろう」とするとき、どのように「わかろう」としているかで、わかり方も、聞き方も変えるべきだからだ。そして一般的にそれができていない、あるいは一つの聞き方しかできないことが非常に多く、無駄が生じている。

論理的理解と共感的理解

特徴をまとめてみた。

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論理的理解とは、「客観的事実、因果関係、状況を把握し、異なる状況への展開やアクションの材料とする」ためのものだ。客観的理解という言い方をしてもいいかもしれないが、論理的という言い方で構造化・抽象化する作業を含めたい。いわゆる「わかる」や「理解」という場合、この領域を指し示すことが多いかもしれない。だが、その際に共感的理解を忘れてしまうことが、かえって非効率や無理解を生み出す原因になっていることに留意したい。それがこの記事の趣旨でもある。
共感的理解とは、「話し手の心情およびその背景を把握し、聞き手の経験および心情から近い感情を描く」と定義づけた。おそらくこの言葉は、カウンセリングの第一人者であるカール・ロジャーズが使っているものとして有名だと思われる。つまり、そもそも出発点が、カウンセリングの際の聞き方として生み出されたものであると言えよう。
この「共感的理解」の存在を理解し、適切に論理的理解と使い分けることで、ビジネスでもプライベートでも、コミュニケーションと名のつくものであればなににしても、役立てることができる。
性差をステレオタイプに語ることは好ましくないが、比喩としてよく言われる、男は問題解決型の会話を好み、女は共感型の会話を好む、という際のイメージをあてはめるとわかりやすいかもしれない。男は狩りに行った際にいかに獲物をしとめるかを話しあい、女は集落で料理や裁縫をしながら社会的結びつきを強めているのだ、と(とはいえ、男性にとって居酒屋談義は極めて共感的であり、女性にとって化粧品についての情報交換は極めて課題解決型の会話なわけだが)。

理解の構造

理解の構造が異なる。論理的理解は構造化し、抽象化することで個別自称から何かを学び、別の事例に活かす。そうすることで小さな動物しか取れなかった狩りにおいて、肉食獣をも狙うことができるようになる。科学の進歩ももちろん、そもそも宗教の創設も、「神々しさ」という普遍的なものを個別事象から抽出することで生まれてきたと言えよう(具体的な神が目の前にいるのであれば、それはまた別の話として)。なお、論理的理解においても個別事象の理解が目的である場合もある。その点はここでは省略しているが、それもより高次な視点からは構造化・抽象化するための作業であるとはいえるだろう(例:博物学的な観点で個別の生物を観察・分類するなど)
共感的理解は構造から違う。構造化し、抽象化すべきではない。ある主婦が姑のひどいいじめに悩んでいたとしても、それを構造化し、分類して「あなたはAタイプのいじめにあっていますね」としたところで、それは主婦にとって意味のある理解とは言えない。むしろそうした分類は、ステレオタイプ化され、「私の気持ちは私だけのものなのに」という主張を受け入れないこととなる。個別事象を個別事象のまま、ディテールをディテールのまま理解することが求められる共感的理解なのだ。

目的

なぜそのような違いが生じるのか。そもそもの目的がちがうからだ。
論理的理解は、なにか課題があって解決しようとしたり、既存の行動をより効率的に行ったりするために行われる。仕事で使うパソコンが壊れてしまったら、どうすれば直るのかを調べるために、ハードの異常か、ソフトの異常か、ソフトはOSなのかアプリなのか、ということを確認して、理解していく。
共感的理解においては、なにか課題を解決することは、否定はしないものの目的ではない。パソコンが壊れてしまったら、この時期に壊れなくてもいいじゃん、困ったよ!という気持ちを共有すること自体が目的だ。より突っこんで言うと、情緒を安定させるためと、お互いの信頼関係を醸成するためになされる会話であり、その会話によってもたらされる理解である。

真実

この際、陥りやすい罠がある。論理的理解においては、世界で一つの正解があることが前提となっている。つまり「真実」が存在し、そこに近づいたり、より細かく知る「正しい理解」というものが存在する。理解そのものはフレームのおき方で複数作られるが、正しい理解・正しくない理解は存在するし、対象となる事実は世界に一つしかない。
共感的理解はそうではない。真実は話し手の中に存在する。ある事象について複数の話し手がいれば、その話し手の数だけ真実が存在する。この際重要なのは、「この人が言っていることは本当だろうか」などの疑念を抱いては共感的理解には至らない。「自分は天皇陛下です」という人が100人いたら、100人天皇陛下がいるのだ。そしてこの態度をもって話を聞くことは極めて難しく、さらにこれと論理的理解を行ったり来たりすることはさらに難しい。

技術

ここまで見てきて、違いはかなり明確になった。当然、それぞれの理解のための方法論・技術も大きく異なる。論理的理解に必要なのはロジカルシンキングであり、イシューアナリシスである。さらにいえば、その事象そのものに対する知識であり、理解の積み上げである。
共感的理解において有用な技術は「傾聴(アクティブリスニング)」である。先述したように、傾聴の目的から定義づけられた理解が共感的理解であるともいえるので、むしろ当然と言えよう。
ここで重要なのは、「どちらもそれぞれ大事なので両方学びましょう」ということに加えて、「両方を同時に使うことは原理的に不可能なので、状況に応じて使い分けるか、双方必要な場合は時間を区切って使う」ことだ。これができる人は極めて限られており、しかも暗黙知化している場合がほとんどだ。

共通要素

当然、双方にとって重要な前提条件もある。興味関心を持つこと、先入観や偏見を持たないこと、自分の過ちを認め、むしろ積極的に理解を更新しようとする姿勢をもつことなどだ。これらの要素はそれぞれの理解において区別をする必要もなく、あるいは人間の生きざまとして持つことに副作用があるとも思えない。持ちたい素養だ。もちろんそうした素養を持つことが難しいからこそ、価値があるともいえるのだが。

2つの理解の相互作用

ここからが本題だ。2つの理解は相互に作用する。

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論理的理解をきちんとすることで、話し手の客観的状況や意味あいを正確に把握し、話し手に信頼を持たれ、心情的な理解を正確にすることができる。以前も述べたが、相対性理論を理解せずにアインシュタインの孤独を理解することはできないし、相対性理論について何も知らない人が、アインシュタインから心情理解をしてもらえているという信頼を得ることも難しいだろう。
これは話を聞く際の態度にも影響される。カウンセリングやコーチングはともすれば、状況理解を飛ばして心情理解に進もうとする傾向にあり、それ自体が話し手の心理的安全を損なう場合が多いことには留意すべきであろう。また、たとえばそもそも日本と米国が75年前に戦争をしていたことを知らない人間が、戦時中の悲劇を話を聞くことでできる共感的理解には、おのずと限界があることも容易に予想がつく。
ただし、論理的理解ができていれば自然と共感的理解ができるわけではないことにも注意が必要だ。業務知識を豊富に持つ上司が、部下からの報告で部下が置かれている仕事上の立場と悩みを完璧に理解できたとしても、心情的に共感的理解をできないことが多いのは、よくあるケースだ。「お前は根性が足りない、俺ならこうする」とかね。
そして、逆の相互作用は見落とされがちだ。むしろビジネスの現場ではほぼ無視されていると言ってもいいだろう。共感的理解があることで、話し手と信頼関係を構築し、話し手の情緒が安定することで、情報を網羅的・中立的に収集でき、理解が深まる。本音で話してもらえる、ということだ。
昨今、コロナ禍によって社内コミュニケーションが減少し、エンゲージメント向上が注目されているが、単なるエンゲージメント向上だけではなく、論理的理解にも結び付けなければ、従来の生産性や仕事における成果を期待できないことは、もっと注視すべきことだと思われる。
特に都合の悪い情報、耳障りの悪いことは信頼関係ができており、話し手の情緒が安定していないと話にでてこない。それがなければ、正しい理解はおぼつかない。そこまで明確でなくても、話し手も意図せず省略されてしまう情報や、重みづけが変化することにも気を付ける必要がある。
むしろ、ビジネスの現場でデジタル化やフォーマット化が進む中、人間が関与する意味としての共感的理解の重要性がますます増しており、さらにそれを踏まえて論理的理解をすることで、より高次の理解をも求められていることを意識すべきだろう。


最後に

最後に繰り返し。この2つの理解、または2つの理解のための聞き方は、双方を同時に行うことができない。したがって、場面に応じて使い分けるか、場面を区切って2つの手法を交互に行ったり来たりする必要がある。難易度は高いが、実際に行った時の効果は驚くべきものがある。
たとえば話しにくい話題の前にアイスブレイク的な話題を入れるなどは、その手法の一形態と言えるだろう。人事面談で最初に本人のフィードバックを受けてから話す、などもそうだ。それらをただ手法として使うのではなく、上記のような構造化、狙いのもとで使ってみることを推奨する。またそうした特定のフォーマットの会話だけでなく、通常のビジネスでの対話でも、都度そうしたコミュニケーション設計をして臨むことを薦めたい。プライベートでも、だ。
そして。使い分ける際は、聞き方だけでなく、理解の仕方も分ける必要がある。共感的理解においては、真実は話し手が述べることであり、具体的理解を構造化し、抽象化してはならない。そもそも目的は課題解決ではない。翻って、論理的理解においては、課題解決のため話した内容を構造化し、抽象化する必要があるのだ。

神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/