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自由についてのあれこれ(青山記)

上町しぜんの国保育園の青山です。いつもアーカイブを読んでいただきありがとうございます。

今回は、園内勉強会04のアーカイブから「自由」について、特に子どもといて感じる自由について、考えてみたいと思います。

保育の中での自由と聞いてまず思い浮かべるのが、自由遊び、いわゆるフリープレイと呼ばれるものがあると思います。
子どもが自分で遊びたいように遊べる時間、おとなから「あれしろ、これしろ」と言われない時間、そういう意味では自由遊びの時間があることは、自由につながっているともいえます。

一方で、設定保育(おとながあれやこれや内容を設定し、子どもに投げかける)のなかに、不自由しかないかというとそんなこともないと思います。自由遊びでも、手持ち無沙汰になってしまうならほんとうにそれは自由なのかという問題もありますし、設定されたなかで生き生きと活動していればそれは自由と呼べるのではないかとも思います。

もっとかんたんな例をあげれば、鬼ごっこ。鬼ごっこをやるときに「ルール」は欠かせません。ルールが共有され、それをつかいこなしていけなければ、鬼ごっこという遊びをくりかえし楽しむことは困難です。
では鬼ごっこを嬉々としてやっている子どもたちは不自由でしょうか。

こうしてみてくると、設定やルールがあることと、自由かどうかは一概には言えない、あるいは両立し得ないことでもない気がします。
自由遊びの時間があるというのも、それは単に、自由をいれこむ器(枠)があるというだけであり、問題はそのなかでどのように生きているのかということではないしょうか。

反対から言えば、設定やルールがあることそのものが不自由かどうかは一概には言えないともいえます。それはたんに器(枠)なので、同じくそのなかで私たちがどう感じ、どうふるまっているかが大事なのではないか

こんな話を園内勉強会でもしました。そしてそのときに思い出した本が2つ。
ひとつはゲド戦記の作者、アーシュラ・ル・グィンの「アメリカ人はなぜ竜がこわいか」。
もうひとつは、E・フロムの「自由からの逃走」。

どちらもかんたんに紹介できる本ではないのでご興味あるかたはぜひ読んでみてもらいたいのですが、ル・グィンのほうはアメリカ人のおとなが「竜なんてばかばかしいw」と半笑いで否定するその態度が、想像力へのおそれである、と看破しているもの。

フロムの「自由からの逃走」は、なぜワイマール憲法という自由を保障された憲法下で、人々がナチスに政権を委ねてしまったのかを分析した、社会学の古典です。自由を担うくらいなら、判断停止してカリスマに委ねちゃったほうがいいよね!となりがち。という。人は自由から逃げるのだ、という論考です。

こうみてくると問題は、枠の形(保育ならば自由遊びか、設定か)ではなくて、自分で感じたり考えたりすることのめんどくささや、ときには思いもかけず直面する、他者との差し向かいの関係のきつさを背負いつつ、それでも自由でいたいかどうかではないでしょうか。

なんでもいい、というなかでひとは自分がどう感じ、どう考えるかを持ち出さざるをえません。それは、そうは思わない他者との出会いや葛藤やときには衝突にも出会っていくことでもあります。

自由のなかで私たちがいつでも自在なわけではなくて、自分というものにつまずくような身振りのことを、私たちはほんとうは自由としてうっすら感じている。だから自由のめんどくささも、怖さも、どこかで知っているんじゃないでしょうか。

まとまりのないことをつらつらと。。
でも子どもといて感じるのはまさに自由の風です。
子どもといることの、この時間を通して、仕事を始めたばかりのときは動きまでをも縛り付けられているような不自由感を感じたものでした。
子どもはいつでも半径1m以内にいることを要求し、「みてみて!」といって、そのまなざしへの同化を促し、ときには味覚や触覚までも響き合うことを求めてきます。

しかし、あるとき、私に感覚の転倒が訪れました。
子どもといるということは、子どもの自由に身を委ねることで自分が自由になることなのだ、と。

この転倒がいつ、どのように起こったのか、私にもたらされたのかははっきりしません。それは子どもとのくりかえされる日々の時間の積み重ねの果てに、あるとき、ふいに起こったものです。

これはもしかしたら保育者独特の自由の感じ方なのかもしれません。
登山家は流れる雲を見つめながら、そのなかに自由を感じるかもしれませんし、牛飼いは牛とともに暮らして牛について自由を感じるのかもしれません。

というわけで、自由について。終わりなきことについて考えることは終わりなき言葉を連ねることになりますので、このあたりで。

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