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植物をわざと枯らす女

新居に引っ越してから、少し遅れて買った小さな観葉植物。

キッチンカウンターに置いた。
ここにあったらいいなって思って、珍しくわたしが買った。

わたしは、もともと植物を上手に育てられない。

毎日水をあげるという行為がもはや出来ない。

で、この植物も時々シワシワの危うい姿になっていた。

その時に気が付くと、水をあげる。

すると、なんとか元に戻る。

そして、また放っておく。

時々、見て見ぬ振りもする。

ある日、ふと思い出したようにその植物に目を向けると、完全にカリカリになっていた。

(これは水をあげても元には戻らなそうだ)と判断し、ささっとゴミ箱に捨てた。

その後、何かに突き動かされるように、その植物を買ったお店へ向かっていた。

そして、同じ植物を手に取る。

会計台へ持って行き、袋に入れてもらって受け取る。

すると、店員さんがこう言った。

「なるべくお水を絶やさないようにしてくださいね。」

わたしの事を、わたしの行動を全て見透かされているかのような発言!助言!

少しドキリとしたけれど、分かってます、当然ですよねという顔をして微笑んでお店を去った。

植物を家の中に置くと、
いつも心の隅に、ある思いが浮かんでいる。

(水をあげないと本当に枯れるのかな)

(意外と大丈夫なのでは?)

(・・・どこまで放っておいたら完全に枯れるんだろう)

そんなことを半分無意識で考えていた。

そして、今回は結果的に枯れるまで実験をした形になった。

ゲームのように、するっとリセットさせてしまった小さな観葉植物。まったく同じに見えて、まったく違うモノ。人なら許されない。動物でも許されない。モノならいいの?植物は?

ちなみに、面白いことに、買い換えてからは今のところ毎日水をあげている。(わたしという謎。)

ただ単に、子どものような好奇心を満たす為の実験なのか。

擬人化して、己の残酷さを消化してるのか。

ところで、うちの娘は何でもかんでも擬人化する。
「でも、それ〇〇さん(モノでも何でも)が可愛そう。。」と。時々イラッともするけれど、何でも雑に扱うよりは良いだろう。(もちろん、わたしのように残酷なことをするよりも)

そこで思い出したのは、内田樹さんの本で出会った言葉。

「自分に対する敬意とは、第一に"自分の身体に対する敬意"というかたちをとるべき」

脳の欲望に騙されず、身体からの信号をきちんとキャッチせよという話。自分の身体に敬意を払えない者は、他人の身体にも敬意を払えない。

あれ?これはこれは、、、

一連の観葉植物への態度が、わたしの自分の身体に対する態度と重なってみえてきた。

(水をあげないと本当に枯れるのかな)
(意外と大丈夫なのでは?)
(・・・どこまで放っておいたら完全に枯れるんだろう)

そんな実験してる場合じゃない。

わたしはリセットできても交換はできないじゃないか!

擬人化上手ですべてのモノに敬意を払う娘は、確かに自分の身体の状態や不調や好調にまで敏感だ。それは敬意と呼べるかもしれない。

丁寧に生きているように見えるあの人は、きっと自分の身体と同じように全てを扱っているんだ。

そうだね。

自分の心だけじゃなく(心は時に、脳に騙されているかもしれないし)

まずは身体に敬意を払い、
お水を絶やさないようにしてあげよう!と改めて思うことができたのでした。

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