長く住宅が利用される都市の実現に関する考察


はじめに

 本稿では、私たちが暮らしたい都市と住宅として「住宅が長い時間愛されて使われる都市」を提案する。まず、日本の都市と住宅が抱える課題を整理した上で、これらへの解決策として理想の都市と住宅の姿を提示する。さらに、その実現に向けた具体的な行動を提言する。最後に、「集団的記憶」の観点から、理想の都市と住宅がどのように豊かな社会の形成に貢献するか示す。

日本の都市と住宅が抱える課題

 今日の我が国の都市と住宅は、以下の5つの課題を抱えていると考える。

環境問題

 2015年に合意されたパリ協定において、日本は2030年度の温室効果ガスの排出量を2013年度比で26.0%削減することを目標に設定している。これは決して容易ではなく、日本全体で取り組まなければ達成し得ない目標だ。
 我が国全体の温室効果ガス排出量のうち、新築工事によるものは1割前後を占めると推計されている。削減目標を達成するためには、建設業も相当の改革を迫られるだろう。
 さらに、建設資材としての森林資源の搾取や、建設廃棄物による環境汚染も懸念される。

低成長社会

 バブル崩壊後、我が国は長期にわたる経済低迷に悩まされている。「日本病」とも呼ばれるこの現象は当初一時的なものに過ぎないと思われていたが、労働人口の現象や製造業からサービス業への産業形態の移行など、経済構造自体が変容していることから、このまま以前の成長水準に戻ることは想定しづらい。

空き家問題

 人口減少下で特に地方都市で空き家が増加している。住民がいない建物はメンテナンスが行き届かず、雨漏りなどの劣化が気づかれずに放置されるため、老朽化の進行が早い。このことは倒壊の危険性の増大や、住環境の劣化、不動産価値の下落、違法行為の温床となり治安の悪化をもたらすなど、様々な面で近隣に外部不経済をもたらす。

男女同権

 日本では古くから「男性が外で働き、女性は家に残って家庭を守る」という性役割が良しとされていたが、男女間の差別が社会的注目を集めるに従って旧来の価値観は見直されつつある。すなわち女性の社会進出や共働き世帯の増加、「主夫」と呼ばれる家事を専業とする男性の登場など、性規範に囚われない平等な役割分担が受け入れられるようになっている。
 一方で、この傾向は出生率の低下や待機児童の増加、育児放棄など、副作用として他の課題を浮き彫りにしている。

災害に対する脆弱性

 近年の我が国を襲った数々の災害は、都市の災害に対する脆弱性を浮き彫りにした。2011年東日本大震災の折には首都圏の公共交通機関が麻痺し帰宅困難者が多数発生した。代替交通手段に人々が殺到したことで道路渋滞を誘発した。2019年台風19号による災害では、武蔵小杉のタワーマンションが浸水し、水道や電気といったインフラが遮断された。住民はエレベーターを使うことができず、近年人気を集めているタワーマンションの意外な欠点として驚きと共に報じられた。
 これらは過度な集積により、鉄道や排水設備などのインフラの整備が追いつかず、都市の災害リスクが増大している例だと言えるだろう。

私たちが暮らしたい都市と住宅

 私は、住宅が長い時間愛されて使われる都市に暮らしたいと思う。新築主義から脱却して、歴史の蓄積を大切にしながら発展していくような街に住みたいと思う。
 そのためには、リノベーション、コンバージョンの普及が不可欠だろう。今ある建物に適切なメンテナンスを施すことではじめて建物を長持ちさせることができるからだ。

 これは、決して私の夢想ではなく、むしろ避けては通れないシナリオのようにも思われる。というのも、先に挙げた5つの課題を乗り越える上で、「住宅が長い時間愛されて使われる都市」の実現は非常に効果的な解決策だからである。

 環境問題がより差し迫った課題となる中で、大量の資源を消費し、多くの温室効果ガスと廃棄物を排出する新築工事の縮小は避けられない。その代わりに、住宅の維持管理に関する工事は拡大するだろう。そのような時代の流れに適応した建設会社だけが生き残ることができる。

 産業構造の効率化という面でも、この変化は好ましいものだ。労働人口が減少する中で、一定の経済成長を達成するためには人的資本の蓄積が不可欠だ。すなわち、一人一人がより高度な技能や知識を蓄えることで、一人当たりのGDPを増加させる。
 付加価値率の低い建設業から、付加価値率の高い知的産業などに労働力を移転することで、より高度な人材を育成することができるだろう。また建設業全体が縮小する中で非効率な建設企業が淘汰され、建設産業内の生産性の向上が実現される。

 空き家問題に関しては、人口減少下ではもはや避けようのない課題に思えるかもしれない。しかし、効率化された産業構造下の経済成長で所得が増加した国民が、一人当たりより多くの床面積を需要するようになれば、空き家問題の解決に向けた活路が見出される。そのためには建築的工夫が必要だろう。
 誰もがインターネットに接続できるユビキタス社会が実現された現在、インターネットを経由したリモートワークが広まりつつある。郊外の空き家をコンバージョンして、オフィスとして利用することも可能だ。たとえ都心に本社があっても、週の半分は本社で、半分は近所のリモートオフィスで過ごすといった働き方もあるだろう。一人一人が利用する床面積が増加することで、人口減少が進行しても空き家の数は減少する。また、人が建物を日常的に使用することは、建物の老朽化予防に繋がる。
 さらに、郊外住宅地で住居と職場が近接することで、男女の平等な社会参画もより実現可能なものになる。住宅街の空き家がオフィスになることで、生活圏が物理的に狭くなり、通勤時間などの制約から解放される。また、家族が同じ地域内で日常を過ごすことで、ちょっとした困りごとや災害時に、家族間や近隣の住民との協力がよりスムーズに行えるようになるだろう。
 ゆとりある生活や助け合えるコミュニティが構築されることで、地域での子育ても行いやすくなる。これまで一方的に子育ての責任を背負わされてきた女性を解放し、地域全体で次の世代を育成する体制を整えることができる。このことは結果的に、良好な育児環境に繋がり、人口減少の歯止めとなるだろう。

 このような都市の実現においては人口の大きな移動はないと想定され、既存のインフラを十分活用することができる。従って、急激な人口変動にインフラ設備の調整が追いつかないことによる災害への脆弱性を克服できる。更に、新たなインフラ整備に投資する必要がないため、余った予算を安全な街づくりのための防災政策に割り振ることができるだろう。
 また、生活圏が限定されることで交通インフラへの需要が減少し、通勤費用の節約、移動による温室効果ガスの削減、通勤混雑の軽減なども期待される。

理想の都市と住宅の実現に向けた提言

 では、「住宅が長い時間愛されて使われる都市」の実現に向けてどのような行動が必要となるのだろうか。

 第一に、不動産鑑定の手法を見直す必要がある。今日の不動産鑑定法では築年数が重視されるため、リノベーションやコンバージョンによる資産価値の向上はほとんど期待できない。そのため、住宅改修への投資の動機付けが十分でなく、住宅の適切な維持管理は難しい。既存住宅を活用するには、住宅改修への投資が資産価値の向上として還元されるような不動産鑑定の仕組みが必要だろう。

 次に、一極集中を促す大規模開発の抑制が必要だ。近年都心回帰の傾向から都心での大規模再開発が頻繁に行われているが、そのような開発は郊外からの人口流出を招き、本稿で提示した理想の都市と住宅の実現速度より早い空き家の増加を引き起こす恐れがある。このような政策は車のアクセルとブレーキを同時に踏むようなものであるから、大規模再開発を規制しなくては「住宅が長い時間愛されて使われる都市」の実現は困難だ。

 一方で、多様な住宅のあり方を規制する法律の撤廃は検討するべきだ。最低敷地面積やワンルームマンション規制などは、既往研究でもその妥当性に疑問が呈されている(河野ら、2009など)。実際、市民の様々な利用に必要とされる住宅の床面積は異なるため、住宅の種類を規制することは柔軟な住宅供給に支障をきたすことになる。例えば、ワンルームマンションは単に住居としてだけでなくSOHOとして利用される事例がある。ワンルームマンション規制はベンチャー企業のインキュベーターたるSOHO規制に繋がり、効率的な経済発展の妨げになると言える。

 働き方改革の推進も、本稿で提示した都市と住宅の実現には欠かせないものだろう。リモートオフィスでの勤務や、柔軟な労働スケジュールで夫婦が協力して家庭を支えられるようなフレックス制度の導入が求められる。

集団記憶の継承に向けて

 「住宅が長い時間愛されて使われる都市」は上記の実利に加えて、精神的豊かさをも社会にもたらすだろう。

 社会学者アルヴァックスは「集団的記憶」という概念を提示し、「個人は集団の成員として過去を想起する」と訴えた(浜日出夫、2000)。ここでいう集団とは、国家や町内会、家族、友人関係など無数に存在する集団であって、私たちは同時に無数の集団に所属している。個人の記憶は、そのような無数の集団の一員としての記憶の重ね合わせの上に想起されるのだ。例えば友人と撮った写真を見返して思い出に浸るとき、たとえ1人で見返しているのだとしても、私たちは友人たちの集団の一員としての視点からその写真を見ているのである。
 また、集団的記憶は必ずしも同時代の集団だけで共有されるものではなく、遥か過去の世代とも共有されうるものだ。

 アルヴァックスはさらに、空間的枠組と集団的記憶の密接な関連を指摘して次のように述べている。
 「空間とは持続する現実である。われわれの印象は、現われてくるものを次から次へといかけていくので、われわれの心の中には何も留まらない。それで、もし過去が実際にわれわれを取り囲む物的環境によって保持されていなければ、過去を取り戻せるということは理解されないだろう。われわれが注意を向けなければならないのは、空間へ、われわれの空間へなのである。……しかじかの部類の想い出が再生されるために、われわれの思考が凝視しなければならないのは、この空間なのである。」 (Halbwachs、1950)
 要するに、空間は思い出を再生するのに必要不可欠であるということだ。それは、私たちが思い出の場所を再訪した時に、同じ時を過ごした仲間の面々を思い出さざるを得ないことからも経験的に理解される。
 このことは同時に、一つの建物が取り壊されることで、その空間と結び付けられた無数の集団的記憶が消滅することを意味している。

 若林(2009)は、「記憶は想起されることによって顕在化し,目に見える形で他者たちと共有され,それによって人びとを結びつけたり,複数の記憶の齟齬や競合によって離反や分断を生んだりする。」と指摘する。空間を通して集団的記憶を呼び起こすことによって、私たちは他者とつながることができるのだ。

 私が上京したのは2016年のことで、同潤会アパートは既に取り壊されていた。今となっては写真や文献からその痕跡を辿るのが精一杯で、空間が失われた以上、黴臭い室内や蔦が這う外壁を通してそこで紡がれた営みの記憶を、そこに生きた人々と共有することはもはや叶わない。私にとっては同潤会アパートも海底に眠るアトランティスも、空間を通して記憶を共有することができないという意味では、同様に隔絶された過去なのである。

 加えて、集団的記憶の価値は、歴史的蓄積のある空間だけでなく、むしろありきたりでつまらない空間の中にこそ宿る。若林(2009)は、郊外やニュータウンで共有される集団的記憶について「地域の住民にとって,そしてまたそれらの社会や人びとを研究する者にとって,たとえはかなく,薄っぺらく,捉えがたいものだとしても, つねに『今・ここ』にあるもの」なのであって、何かの機会に「呼び覚まされ,顕在化する」のを待っているのだと指摘する。

 無秩序に拡大した必ずしも美しくはない我が国の住宅地においても、そこに住む人々の営みは例外なくその空間に蓄積されている。住宅を長い時間大切に使い続ける都市において、私たちは過去、現在、未来を生きる人々と、記憶を共有し結びつけられるのである。

おわりに

 本稿では、環境問題、低成長社会、空き家問題、男女同権、災害に対する脆弱性、の5つの課題を乗り越えるべく、「住宅が長い時間愛されて使われる都市」を理想の都市と住宅として提案した。このような都市と住宅は、不動産鑑定手法の見直し、大規模再開発の抑制、多様な住宅のあり方を阻害する規制の撤廃、働き方改革の推進を通して実現可能である。これはさらに、空間に蓄積された人々の営みの記憶を通して、時代を超えた結びつきを私たちに与え、精神的に豊かな社会の実現に繋がる。


参考文献


Halbwachs, Maurice., 1950, La memoire collective, P.U.F.=小関藤一郎訳『集合的記憶』   行路社.
河野達仁、森田有一. (2009). 最適な容積規制と用途規制:各用途および用途間に発生する外部不経済の適正化. 土木計画学研究・論文集, 26(0), 67–76.
浜日出夫. (2000). 記憶のトポグラフィー (特集1 記憶/保存/伝統). 三田社会学, (5), 4–16.
若林幹夫. (2009). 郊外,ニュータウンと地域の記憶 — 集合的記憶の都市社会学試論—. 日本都市社会学会年報, 2009(27), 1–19.

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