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北西の夜空に中指を立てる

生産性の無い強い愛着がいつの間にか手元から離れていたことに気付いた日にはそれを実感してしまう瞬間がたまらなく恐ろしくなるものです。
外では強がった顔をしたり余裕のあるような文面を誰かに返信し、そして1人の部屋で大きな声で泣きじゃくり「ばか、ばか」と誰に対してでもない無意味な言葉を繰り返し吐きます。

愛着なんて持たなければ良かったのか。執着があるから苦しむのだ。そんなことは短くはない人生で繰り返し考えました。
それでも人は何かに情を注いだりふと惹かれてしまうということは、これは本能に基づいたものなのでしょう。

思考や感情や視える世界なぞ所詮は自分の脳内の電気信号に過ぎません。愛も恨みも怒りも恐怖も全て脳ホルモンで行う攻防であり自慰行為のようなものでしょう。それなのに愛とやらは確かに存在するようなので余計に厄介です。

受け入れて癒すぐらいならばいっそ何も認識できないほどに壊れてしまえばいい。喪失感を拒絶した脳は自傷的な思考も過るほどに他で溢れ返させなければ正気を失う気がしてしまうのです。
其れは既に失っていたというのに認識した時点で其の存在の無いこれからを想像したり、想像できなかったりするからでしょうか。いずれにせよもう手元には無いのにです。

そんな人が目の前にいたら、今ある幸せに目を向けなさいときっとアドバイスをすることでしょう。代わりになるものを見つけるでも良いでしょう。
解っています、解っているのです。
ですが代わりがきちんと私の中に嵌ってくれるか、埋まらない渇きは何なのか、何が最も適しているのか、そもそも代わりは代わりでしか無いのです。癒しは痛み止めのようなもので傷を治す薬ではありません。

代わりがいつか本物になる日が来ることだってあると私たちは知っているから希望を持ったり期待をしたり寂しくなるのでしょう。

居ても立っても居られない破壊衝動は体の中でずしりととぐろを巻いています。理性のロープでどうにか縛ります。他人に危害や不快を加えてしまう結果は招きたくないからです。強くない人間の余裕の無い日は此れを全てを自分に向けるしかないようです。手持ち無沙汰を誤魔化すように吸う煙草は灰皿に次々と溜まってゆき、ふと気が抜けると自分の左手の甲でその火を消してしまいそうになります。

悲しみにはサイクルがあるようで一周回って、一番初めに感じたことについてより考察をしてしまいます。走馬灯のように思い出が蘇ったりもします。そしてふと寂しくなって、ああ実感してしまうと危機察知してまた同じ思考のルートを辿るのです。悲しみは輪廻のように抜け出すまでこれを繰り返します。

思考の裏で胸の中がじくじくと痛んでいることに気付きます。ようやく実感してしまうようです。失ったのです。

離れてしまったものは前に進んだということでしょうか。私への愛着以上のところへ飛んで行ってしまった、いえ、初めからそんなものは無かったのかもしれません。価値が無かったのでしょうか。そんな烏滸がましい思考に気付いてまた嫌気が差します。

何もする気が起きなくても明日はやって来て日常を強いられます。人は親族が死んだ時以外に慰めの時間を取ることをなかなか許されない世界を生きています。
まだ今日はご飯を食べていないから、きちんと食べないと叱られてしまう。そう考えた時に頭の中に浮かぶ顔が抑止力になってくれているのです。感謝すべきです。裏切りたくありません。

のろのろと浴びたシャワーで顔を流し、ベランダの夜風を浴びながら地上を見下ろします。
ほら、やっぱり廻ってる。いつも通りに。
執着なんざさっさと捨てて自分も普段に戻るだけで良いのです。これも解っているのです。

解っているのに何故こんなにも怖くて寒くて寂しくて叫びたくて仕方がないのでしょうか。
衝動と闘う夜は長く、蓋をするか否かちらちらと迷います。

そんな心持ちになるとよくRCサクセションの名曲、雨上がりの夜空にを聴きます。幼い頃から父の好みで車で聴いていたこの曲は高校生になって購入したウォークマンに入り何度も再生されました。軽快なイントロが始まり忌野清志郎さんが自由に叫んでくれるのです。

“この雨にやられて エンジンいかれちまった
おいらのポンコツ とうとう潰れちまった”

“Oh どうぞ勝手に降ってくれ ポシャるまで
Woo いつまで続くのか見せてもらうさ
こんな夜にお前に乗れないなんて
こんな夜に発車できないなんて”

自分の尻は自分で拭い、自分の機嫌は自分で取ることが大人の礼節です。私はこうやって何度も何かをきちんと終わらせてきたはずです。
だからこんな日も同じように終わらせることができるはずです。

これが続いてゆくのが人生でしょうか。
生きることそのものが荊棘の道を行くように表皮に致命傷にならない程度の血を流し続けることなのでしょうか。
赤黒い激情の存在が私の何を変えるのでしょうか。
何でも良いけれどある種の狂気に囚われないと人は生きてはゆけないのでしょうか。

私はどうやって私の色を定めれば良いのでしょう。変化しないものなどないのに自分の色ぐらいはコントロールを試みないと不安になってしまうのです。

平均寿命の約3分の1を生きて残りの時間に思いを馳せると少し疲れてしまいそうで。
こんな夜に何にも乗れないのなら何もかも壊してしまえ。行動は勢いが無いとできないことが殆どだと耳元で何かが囁いて。


壊れてしまえ、壊れてしまえ。みんなみんな私の洪水に飲まれて流されてしまえ。
そんな旧約聖書の神のような力は持ち合わせていない私がせめてできる足掻き。
星一つ見えない都会の夜空、北西に向かって中指を立てて静まるまで不要な感情を殺し続けます。

一体何が残るというのか。ああ、自分の価値ぐらい自分で用意しておくべきでした。
観察して得た相対性から探してみたり他人の言葉に甘えるのではきちんと形成されないようです。


一つだけメリットを挙げましょう。私は一つから解放されたはずです。
言葉にすると何故こんなにも淋しいのか。均衡の取れた秤のように、同じ程度に求められたかったという我儘がまだ残っているからでしょうか。

燻った積年の記憶は蔦のように私の首を這い、真綿の糸のように絞めながら濁った空へ私を連れ出そうとします。そのまま昇って堕ちてしまえたら?
揺らぐ意義。巡る衝動。焼き切れそうな理性。冷え切った体と沸騰する頭。

そもそも私はこの夜を終わらせ続けなくてはならないのでしょうか。

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