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【後編】Life Quest ~釜石で〇〇する人たちの多様な生き方〜第10歩目『「地域」から「地域」を伝えるということ。』×手塚 さや香

本記事は、岩手県釜石市で人生を探求し生き方を自分でつくることに挑戦し、様々な活動に取り組むゲストの生き方に迫っていくイベント型オンライン番組『Life Quest』の内容をnoteに転載しています。         
今回は、2020年10月5日に実施された第10歩目に取り組む『「地域」から「地域」を伝えるということ。』に取り組む手塚さや香さんをご紹介します。実際の放送については、こちらよりご覧ください。

わたしのLIFEQUEST

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新聞社に入社 盛岡へ

手塚)なんとなく中学生ぐらいの頃から新聞記者になりたいなという夢がありました。より具体的に考え始めたのは、大学2年、3年のことでした。一時は、法学部に入っていたので司法の道に進もうかなと思った時もあり、私は、刑事訴訟法の中でも冤罪を研究するようなゼミに入ったんです。そうすると冤罪事件というものは当時から色々問題になっていました。

弁護士の仕事とかを考えた時、私は、唯一無二の真実というものは今はないと思っているのですが、ゼミに入る前は、司法の仕事を通じて本当のことや事実を認定することに関わりたいと思っていました。いざ知っていくとやっぱり真実というものはわからないなと感じました。そうこうしているうちに、やっぱり新聞記者は、取材をするという行為を通じて、物事の事実を明らかにすることができるのではないかと思いました。当時は、社会部という事件などを扱う部署にいきたいなと思い、希望を出していました。結局、社会部にはいかなかったのですが・・・笑

戸塚)新入社員の時は、どこの部署だったんですか?

手塚)全国紙は新入社員は当時、部署ではなく、地方に配属になりました。なので、最初は、高校野球を担当しながら警察官の家を回ったり(所謂、夜討ち朝駆け)、行政や選挙をやったりと4.5年続けていました。その後、

戸塚)初任地が盛岡だったんですよね!ちなみにご紹介していませんでしたが、手塚さんの出身地はどちらでしょうか?

手塚)はい、そうです。出身は埼玉県さいたま市です。

戸塚)なるほど。初めて埼玉から盛岡へ行って、一人暮らしということだったんですね。

手塚)はい、それこそ岩手県自体が、盛岡配属が決まって家探しの為に訪れたのが最初でした。

戸塚)実際、真実をある場所にいこうとして、新聞社に入られたのことでしたが、いきなり盛岡配属になってそこではどんなことを経験されましたか?

手塚)そうですねー、本当に埼玉や東京しか知らないで育って、21歳の時初めて岩手に来て印象に残ったのが、あらゆるところで岩手の人が何かをつくるとか作り出すということが暮らしの中に根付いているということでした。例えば、盛岡市内の中に当時の支局があったのですが、そこから歩いて2.3分の所に南部鉄器や漆の工房がありました。

また、こびるという農作業中のおやつがあるんですが、それも皆さん手作りなんですよね。それを作る時米や麦であったり、そこらへんからクルミを拾ってきたり、、そうやって身近なものから何かを作り出すということが当たり前のように行われていました。それを考えた時に自分が住んでいた埼玉や東京って何かを消費することばかりしていたと逆説的に岩手にきて気づかされました。その中で何かをつくりだす象徴が一次産業だったので、それが4年間盛岡にいて一番印象的でした。

戸塚)とても共感します。今まで自分が思っていた豊かさの概念が崩れるというのを私自身も感じています。

東日本大震災

戸塚)4年間の盛岡を経て、大都市圏で働かれていた時に東日本大震災が起こったのですか?

手塚)はい、そうです。盛岡の後に東京へ3年間行き、大阪にいた頃に東日本大震災が起こりました。

戸塚)この東日本大震災は、手塚さんにとってどういった出来事だったのでしょうか?

手塚)そうですね。かつて、お世話になった盛岡支局の先輩方の御実家が被災されたり、お世話になった取材先でも被害に遭われた方がいらっしゃいました。特に私が震災後現地に入ったのが、陸前高田だったこともあると思うのですが、自分が知っていた街の姿がこんなにも無くなってしまうことがあるんだと呆然としました。しかし、いざ、大阪に戻ってくると被害少なく、そことのギャップをとても感じました。また、大阪にいる人で岩手に行ったことがない人も多いという環境は結構堪えました。

戸塚)なるほど・・・。慣れ親しんだ場所が被災をして、そこからかけ離れた場所にいてというところだったと思うのですが、そこから転職して釜石に来たというのはどのような気持ちの変化だったのでしょうか?

手塚)そうですね。結局、会社を辞めたのは震災から3年後なんですね。それまでの間に東京、盛岡支局と段々と岩手との距離をつめていったという感じなんですが、そういう意味では、めちゃくちゃな人事異動の希望をだしたのにも関わらず会社が柔軟に対応してくれて感謝しています。

しかし、前半の話にも繋がるのですが、大阪から東京にきたもののやはり岩手のことはわからないなと思いました。それじゃあと思って、盛岡にいかせていただいたのですが、2週間に1回ぐらいは沿岸部に取材に行っていたのですが、とはいえ120キロの距離なのでそれはそれで現地の様子はわからないと思いました。やっぱり記者として大切なものを伝えるのではなく、自分自身が直接的に感じたことを伝えたいという気持ちが起こりました。

戸塚)どんどん現場に近づいてますね笑。今までのお話を聞いて、手塚さんってやはり現場型の方なのかなって思いました。

手塚)やっぱり自分で直接みてみたり、知りたいという気持ちが強いんですよね。

転職し、釜石へ

戸塚)実際会社を辞め、釜石に移住し、釜援隊として活動されているわけですが、釜石に来てから今を含め、どのような期間になっていますか?

手塚)やっぱり来る前は、取材をするという新聞記者の仕事しかしていないということを引け目というか、実際に地域の役に立てるか不安がありました。でも、正直にいえば、13年培った社会人経験もそれなりに役に立つんだなということを知りました。最初の方は、心配するよりもやってみようという気持ちの方が強かったです。特に、林業スクールの方は、着任して2か月でホームページに掲載して募集しようということだったので毎日ひたすら仕事をしていました。

手塚)そこから、わりと落ちているのですが、特に大変なことがあったというわけではありません。でも、2016年ぐらいから、台風や山火事が続いていて、林業は特に、気象災害の影響をもろに受けるので、そのせいで職場が忙しくなるという中で若干疲れたなというので下がっています。

戸塚)今、現在にかけては段々回復してきたという感じですかね笑 

手塚)希望を込めてという意味もあります笑。確かに、釜援隊の活動の他に1次産業者と消費者をつなぐことは釜石ではなく他の岩手県の地域でおこなっていることです。そういう仕事の幅を広げる中で最近は色々やりたいことが増えています。

戸塚)なるほど。それこそ、「地域」と「地域」を伝えるということを幅広く取り組み始めて、少し気持ちが上になっているのですね!

あなたにとって釜石とは?

自分という看板を掲げた場所

手塚)やっぱり新聞記者というのは、新聞社の名称を持ってその媒体に書くという仕事ですが、釜援隊や林業や移住であったり、それぞれの場所で「手塚さや香」として任せてもらえる仕事ができたという意味を込めました。

あなたにとって人生の道しるべとは?

「現場」を自分の目で見たいという好奇心

手塚)社会にとって役に立つことがしたいとかいろんな思いを持って仕事をしているのですが、やはり私にとってモチベーションはこの好奇心だと振り返って思いました。

戸塚)常に現場に近づいていっている様子が今日お話を聞いて、伝わってきました。手塚さん、ありがとうございました!

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