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【後編】Life Quest~釜石で○○する人たちの多様な生き方~第1歩目「地方創生」×石井 重成

本記事は、岩手県釜石市で人生を探求し生き方を自分でつくることに挑戦し、様々な活動に取り組むゲストの生き方に迫っていくイベント型オンライン番組『Life Quest』の内容のアーカイブ記事になります。
今回は、2020年5月18日に実施された、第1歩目「地方創生」に取り組む石井重成さんをご紹介します。実際の放送については、こちらよりご覧ください。

ー後編では、石井さんご自身の人生について探求していきます!

わたしのLIFE QUEST

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大学時代まで

戸塚)まず、石井さんはどのような子どもでしたか?

石井)村の神童と呼ばれていました(笑)。母子家庭に生まれ塾には行ったことなかったんですが、学校の勉強はできたんです。20歳過ぎればただの子と言ったものですが…(笑)。
高校生の時は、いい恋をしましたね(笑)。すごく好きだなと思って初めて自分で好きだという表現をして、お付き合いをする経験をしたんですね、高校生の時に。5つ上の方で。イトーヨーカドーでお会いして。回転寿司のバイトをしたりして。

就職後の生活

石井)大学卒業後は新卒でアビームコンサルティングという会社に入って、業務改善やB to Bの困りごとの解決をしてました。頭の中に箱を作って考えて話せとひたすら言われていましたね。「ロジカルシンキング」ってやつですね。(入社したのは)流されに流され、その時には自分で頑張って選んでる気がするんですけど、人がどんな風に言っているのとか、なんとなく「かっこいいから」「成長できそう」とか、二次情報、三次情報を元に、なんとなく決めてきたような気がする。心身ともにハードワークで学びは多かったなと思いますね。

平元)25歳が250人集うイベント企画って何したんですか?

石井)100歳まで生きるとしたら、25歳って4分の1じゃないですか。ちょうどみんなが25歳になる4月1日に、250人が集まったら面白いんじゃないかなって思って、異業種で20人のメンバーで25歳が250人集うようなイベントの企画・運営を行いました。この時の経験って釜石でやってることには活きてるような気がする。

オリンピックセンター借りて、企画してコンテンツ作って、当時インテリジェンスさんから協賛をいただいたんですよね。一連のステップとかやりくりとか、今の言葉でいうとプロボノみたいな。

戸塚)課外活動というか、会社ではなかなか出来ないような0→1を作る経験をされたんですね。そんなことがあった後に釜石に行くっていうことになるわけなんですけど、この辺りは、どんな出会いがあってなぜ釜石に行こうと思ったんですか? 

釜石での体験

石井)縁もゆかりもなかった釜石に行くっていう決断が、自分の意思で自分の生き方を決めた最初のきっかけだったんですよね。2012年、初めて被災地の現場に行く機会があって行ってみたら2つ驚いたんですよ。

1つ目が、震災から一年も経っているのに、めちゃくちゃ瓦礫の山で街が埋もれていて、一年経っているのになんでこんなに何も進まないんだろうという当時の素朴な疑問が驚きの1。

2つ目は、そこにいる人たちが前向きに見えたんですよ。みんな辛い思いをしているはずなのに、ボランティアで来た人たちと仮設商店街の飲み屋で「こんな町にしていきたい」と夜な夜な話してるところを見て、とっても衝撃的で、心の温度が上がったことをすごく覚えている。

「今ここにいなくて、どこにいるんだろう」と思ったんですよ。すぐに当時の会社のボスに東北へ行くと言っちゃった。復興支援をやっている団体に釜石のことを紹介してもらって、釜石市役所にデスクとパソコンを貸してもらって、君の席はここですって言っていただいたのが、もう8年弱前。

戸塚)その頃初めて石井さんと出会ったわけですけど、すごい外資コンサルみたいな感じで歩いてました。

石井)当時民間出身で、釜石市役所に震災後に入った一人目だったんですよね。最初につけてもらったニックネームがアジェンダくんだったし。

戸塚)釜石きたらすごく凹んでいき、また上がっていくわけですけど、どういう心境だったんですか?

石井)呼ばれていないのに勢いで釜石に来て友達も出来ないし、寂しいわけですよ。ふとした時に「あれ、何で来たんだっけ」みたいな。引っ越す前には釜石にきた事もなかった。気持ちが回復して上がっていくのは、一つは仲間が増えたなっていう実感値。

今日活動の一枚目に出した写真って、釜援隊メンバーの合宿。2012年にきた年末に限られた復興支援4~5人のメンバーで食事会をしてたんですよね。2013年の年末はすごい飲み会多くて。外から入ってくれる人たちとか訪問してくれる企業の人たちとかもいるし、地元の人たちと飲める機会も増えて仲間増えたなと。

もう一つは、「自分がやっていることは町を開いていくこと」だなとピンとくる瞬間があったんです。闇雲にはじめて試行錯誤して進めてきたなかで、自分のやっていることを言語化できたりする瞬間がめちゃくちゃ嬉しくて。その二つがあって、テンションが上がっている。


地方創生室長に就任

戸塚)そしてまた下がってますけど、何があったんですか?

石井)28歳の時に釜石市の地方創生の室長になったんですよ。Yahoo! newsのトップにものって、この1~2年が一番辛かった。何が辛さの根源にあるかというと、もともと僕はゲリラ戦をやってたわけですよ。外から入ってきて街の隙間を埋める。余白を見つけて価値を生み出すためのプロジェクトを作ってきたのに、気づいたら正規軍のリーダーになっていました。しかし、ゲリラ軍と正規軍では必要なマインドやスキルは全然違っていて…。そもそも地方創生の戦略任せたって言われて、自治体の計画作りとかやった事ないし。マネジメント経験も少なかったし。

市役所の各部署が何やってるかよく分からないし、各分野で第一線で活躍している方々を地方創生のアドバイザーとしてアサインさせてもらって、第一線のダメだしを受け続け、慣れない議会答弁の槍玉にあげられるシーンも多く、周りの期待値だけは上がっていく、みたいな。何をすればいいんだろうと思ってたんです、半年くらいずっと。夜寝る前に自然と泣けてくるという経験をはじめてした。

戸塚)そういう時って、どう過ごしてるんですか?

石井)あらゆることは気休めにはなると思うんだけど、本当に辛い状況におかれた時に克服するのは、自分しかないんだと思う。出来ないことを許容する。だけど出来るようになりたいからやり続ける。その過程では、期待外れだったとか、色んな摩擦や辛いことがあるけど、やり続けることでしか自己解決ができないと思います。自己解決できないと次にいけないと思います。

僕が苦労が多いのは不幸じゃないって思えるようになったのは、とっても財産なんです。今思うといい苦労させてもらったなって感謝しています。もう一回やれって言われたら絶対嫌で、28歳の自分には戻りたくない。でも、今28歳の自分に会えるとしたら「頑張ったらいいよ」と伝えたいし、そう思える経験をさせてもらったことは、とても幸せなことだと思う。

平元)ラーメンのくだりってなんですか?

「自分」の地方創生

石井)とっても大変な時期があって、なんとかやりくりをしつつ、日々暮らしていく。そして、何年かしたら頑張ったなって気持ちになるんですよね。ふとある時に、元々ラーメン苦手だったことを思い出したんです。こっちに来てから知ったのですが、釜石はラーメンの街なんです。薄味の醤油ラーメン。何人の方々からラーメン食べに行く?とお誘いを受けて、純粋に嬉しかったし、友達が欲しくてラーメンを食べるようになって。気づいたら一人でもラーメン食べにいってたんです(笑)

で、数年経ったある時にふと思い出したんですね。そういえば、ラーメン苦手だったなと。それで、本当はラーメンが苦手だったことを周りに話すようになったんです。その時に気づいたのが、ラーメンが苦手なことを忘れてた自分は、自分を押し込めているところもあったし、「釜石のために、東北のために」という荷物をたくさん背負っていた気がします。

みんなに苦手だったことを話した後は、その荷物をおろして「自分がやりたいからやる、自分が好きだから続ける」その中で、釜石にどう貢献するか。主語が地域から自分に変わった瞬間が僕はこれだったんです。

ローカルベンチャーの取り組みを始める時に、地域や課題ではなく自分だっていうのを設定しているのも、自己変容の体験だったりする。まずは自分があって、自分のやりたいことを突き詰めていく環境があって、その結果として地域がよりよくなっていく世界観をどうやったら作れるのかなっていう取り組みにつながる発見でした。

わたしにとって「釜石」とは

Resilience and Try.

石井)釜石は鉄と縁が深くて、近代製鉄の技術が生まれたという歴史があります。鉄には「何度でも何にでも生まれ変われる」という言葉があるのですが、釜石はそうした土壌を感じられる地域であると思います。太平洋戦争で町が焼け野原になったり、震災の津波も過去にあり、コロナで変容が求められたり・・・

でもそんな大きな変化の中で釜石の地域を作ってきた人と、そこには挑戦ができるフィールドがこの場所にある。外部と内部の交流を町の推進力に変えていく気質を感じるし、そこが好き。

わたしの人生の道しるべ

目の前の「現実」は変えられる。

石井)釜石に来て最も学んだ大切なことは「目の前の現実は変えられる」という実感そのものなんです。どんな立場にいても自身の前には様々な困難があるじゃないですか。困ったこと、嫌なこと。その現実を自分たちの力では変えることができないものとしてとらえるか、所詮人がつくってきたものだから、制度も文化も取り組みも人の意思で変えることができるって思うのでは、一人の人間としての歩みが全然変わってくるよね。

26歳でとりあえず釜石に来ちゃった僕は、地域からみたら未熟なよそもので、やたらカタカナが多いし、雨の日に交通整理のお手伝いをしたりとか封筒にお便り入れるのを手伝ったりとかそんなところから始め、街のことを外に発信して、内外の人と仲良くなることで、お金を作るサイクルを回していったり、都市部の企業さんとのパートーナーシップ事例を時には失敗もしてるけど、積み重ねていく中で議会答弁出来るようになって。

それって僕が特別何か持っていたわけじゃないし、優れた資質を持っているともそんなに思わなくて。でも、目の前にある困難をなんとか変えたくて悩んで取り組んだ結果、現実って作れるんだなって実感を8年やってくる中で思えるようになりました。このことは、40代、50代になっても思い続けていきたいし、目の前にある現実はきっと変えられるという感性を持った人たちと一緒に新しい社会を作っていきたいですね。

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