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【後編】Life Quest〜釜石で○○する人たちの多様な生き方〜第9歩目「新しい漁業のカタチ」×久保 晨也

本記事は、岩手県釜石市で人生を探求し生き方を自分でつくることに挑戦し、様々な活動に取り組むゲストの生き方に迫っていくイベント型オンライン番組『Life Quest』の内容をnoteに転載しています。         
今回は、2020年9月21日に実施された第9歩目「新しい漁業のカタチ」に取り組む久保晨也さんをご紹介します。実際の放送については、こちらよりご覧ください。

わたしのLIFEQUEST

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JR東日本時代

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久保)中央線の車掌をやっていた時の写真です。東京から高尾山付近の高尾駅や立川駅から奥多摩駅の山の方まで担当していました。東京で仕事はしていたのですが仕事柄、満員電車も路線を担当する時もあれば、その日によって立川駅から奥多摩駅の方の田舎の方まで行ったりすることもあり、1日で都会から田舎まで楽しめることがありました。東京で車掌をするということは都会で大変そうな印象はあると思うのですが、自然を感じながら仕事をしていました。

戸塚)釜石から東京に出てお仕事されていましたが、この時は東京に出て行こうと決めていたのですか?

久保)小学校の低学年くらいから、父親には漁業は継がないという話をしていて、小学生の頃から既に田舎に飽きていました。高校卒業したらどんな仕事でもいいのでとりあえず東京に出ようとは決めていました。

戸塚)東京に出てきた当初はどう感じました?

久保)楽しかったですよ。しかし、J R中央線の武蔵小金井駅に勤務していた時、もともと田舎育ちで東京の駅名も詳しくないですし、土地勘もなかったので、最初の1、2ヶ月くらいはお客様の方が道や駅内も詳しいくらいでした。お年寄りの方に駅聞かれたことがありましたが、一緒になって探していましたね。最初はわからないことだらけで、覚えたり慣れたりするまでは苦労しました。

戸塚)ここの節が今の活動につながる★1つ目ですが、働き方を知り、社会人一歩目として動き出した頃ですよね。今にどのような影響を与えていると思いますか?

久保)まずは東京に出たいとずっと思っていて、最初に達成してしまい仕事に対してモチベーションが落ちていました。それもあって震災後に今後の働き方について考えるきっかけに繋がったと思います。また良い面もあって、サラリーマンのようにいわゆる9時から17時までで月曜日から金曜日まで働くスタイルの会社ではなかったことが、自分ではかなり大きかったです。

駅員の時代だと24時間勤務で合間に休憩や仮眠がある仕事でしたし、車掌業務においても勤務時間は日によってバラバラで不規則な仕事でした。泊まりの仕事が多い分、プライベートの時間や休みの時間というのが一般的な会社員に比べて取れました。会社の仕事に慣れてきたあたりから、この先のことを考えたりする時間や、外の人との付き合いの時間や興味のある場所に行くなど、興味の持ったことに時間を使えることが自分にとって大きかったです。

戸塚)この時の仕事の経験で学んだことはありますか?

久保)時間管理ですね。何分何秒までを大事にする仕事だったので、その時から時間管理を徹底していました。朝早起きをする習慣も身についたと思います。

今の仕事で良いのか?

仕事のモチベーションの低下

久保)今まで全く先のことを考えることがなかったのですが、震災をきっかけに、この会社に定年まで勤めるのかなとか初めて今後どのように生きていくかを考えました。それまでは会社の中の付き合いしかなかったですが、震災終わって2012年くらいから2・3年くらいにかけては、外に目を向け自分の興味のある分野や共感した人、イベントなどに足を運び自分で体験してみるという期間がありました

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久保)この写真は2012年にカンボジアにスタディーツアーに参加した時の写真です。2011年の秋頃、カンボジアを舞台にした映画を見てすごく感銘を受けたのをきっかけに、地元の小学生と触れて一緒に活動をするスタディーツアーに参加しました。それまでは海外には全く興味もなく行ったこともなかったのですが、その映画の舞台となった地域に行きたいという一心だけで、2012年にその映画に近いような活動をしました。

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久保)この写真は、その数ヶ月後にベトナムに行った時の写真ですね。当時の職場の先輩が東南アジアやベトナムによく行っていた方で、ちょうど自分が海外や東南アジアに興味を持っていたタイミングで誘っていただいたので即決でついて行きました。

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こちらもカンボジアです。2014年に行った時の写真です。やっと海外に慣れてきたタイミングだったので今度は1人でバッグパックを背負って行きました。今まで体験したことないところや、少し危険もあるような行ったことない場所に行ってみたかったので、カンボジアのシアヌークビルと呼ばれるカンボジアの中でもリゾート地のような場所に1週間ほど使ってベトナムも旅しました。この頃は海外の少し危ない場所に行っても大丈夫なんじゃないかと思っていたので、自分の興味のある場所に手当たり次第行っていましたね。

平元)アクティブですね。震災きっかけでいろんな場所に足を運んでみたり、興味関心のあるものにとにかく行動しようとなったのですね。
こんなに行動的になったのはどのような気持ちの変化があったからなのですか?

久保)やっぱり震災があって地元が被害を受けて、家族のような特別身近な人が亡くなったわけではないのですが、知っている人や近い交流があった人が亡くなったりしたので、自分は興味のあることやワクワクすることをやり続けるような人生で生きようと心に決めました。震災があったときは20代前半だったので、やりたいとか行きたいと思った場所は心のままに行こうと震災があってから気持ちの変化がありました。

戸塚)2つ目の★はモヤモヤ期とありますが、行動したことによって新たにどのように生きるのかについてどう影響があったのかを教えてください。

久保)自分の興味のある分野や自分のワクワクすることに触れるにつれて、今の仕事に対して自分がワクワクして興味のある分野なのかを比較して考えてしまうことがありました。

自分が会社に入った時のモチベーションやその時の気持ちを考えた時に、鉄道が好きだとかこの仕事に興味があって入ったわけではなく、当時は東京に行きたいということだけが理由だったことに気づいた時には、完全に仕事とプライベートを割り切って生活してしまっていました。

久保)プライベートはワクワクして充実しているのに、仕事となると給料や休みのために仕事をするようになっていて、働くうちにプライベートと仕事とのギャップが大きくなるごとにだんだんと仕事のモチベーションが低下していました。


2015年3月〜2017年3月 

・三陸ひとつなぎ自然学校スタッフ
・尾崎100年学舎 観光プログラム企画


戸塚)どういったことがしたくて、釜石に戻られたのですか?

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久保)1番は自然が好きだということに気づきました。もともと都会に憧れていましたが、東京にいながらも仕事の時やプライベートでも自然に触れると、自分の中でも心地よいなというのは常に感じていました。

プライベートだけでなく、仕事の時間も人生の大半を占めるので、何か自然に触れる活動というのを土台に置きたいと思い、この2014年の秋頃から自然活動を仕事にできないかなと調べていくと三陸ひとつなぎ自然学校にたどり着きました。

久保)三陸ひとつなぎ自然学校での活動は主にボランティアコーディネートや釜石の地域資源を生かした観光プログラムを企画することをしていました。震災をきっかけに全く自分が生まれた場所ではない地域に何か貢献したいという大学生や社会人にもたくさん出会い、良い刺激をもらいました。


戸塚)そして三陸ひとつなぎ自然学校を経て、次の活動が尾崎100年学舎ですね。

久保)そうですね。三陸ひとつなぎ自然学校で観光プログラムを企画していたように、その経験を応用して、自分の生まれ育った尾崎白浜地区でもこのような観光プログラムを企画できないかなと考えていました。尾崎白浜地区では、大漁旗をなびかせた十数隻の船が釜石の港をパレードする曳き舟まつりが有名な「釜石まつり」が毎年10月中旬にあるのですが、釜石のお祭りをもっと深く知ったり楽しめたりするような企画をしました。地元の尾崎白浜地域を少しでも外に向けて発信したいという思いと、生まれ育った場所を守り繋いでいこうという思いで、地元の方々や漁師の方々と一緒に企画をして外からお客さんを呼ぶ活動をしていました。

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戸塚)この経験が久保さんの現在の取り組みにつながっているのですね。
もし高校生に戻ったら同じように釜石を出ようと思いますか?残りますか?

久保)もし戻ってもまた釜石を1回出るかもしれないですね。ずっと釜石にいたら今のような考え方やこのような経験もできなかったと思います。今はスマホの普及で情報を取り入れやすい時代にはなったと思いますが、一回外に出て全く違う環境で生活したいという考え方は変わらないと思いますね。ただ、釜石に戻ってくる前提で釜石を出て、この経験をどう釜石に生かそうと考えながら生活すると思いますね。

あなたにとっての釜石とは?

自分を表現する場所

久保)釜石は自分の生まれ育った場所でもあり、自分が経験したことや感じたことを嘘偽りなく話せる場所だと思います。生まれ育った場所で漁業の仕事や牡蠣の営業など県内に広めることも自分らしく活動できています。

あなたにとっての人生の道しるべとは?

ワクワクにそってチャレンジ

久保)震災があり、今後の生き方や仕事を模索していた時に、自分のワクワクすることや興味を持って楽しめることからチャレンジする考え方に沿って行動していたと思います。今は釜石に戻ってきた時の仕事の内容を続けているわけではないですが、根底にある考え方は変わっていないです。

今まで経験した活動や仕事の中でのワクワクに従っていくと、今度は漁業にワクワクし、父親と共に漁業をする中で牡蠣のことをもっと知ることにワクワクし、牡蠣について詳しくなる中でもっと他の人に牡蠣の良さを伝えていくことにワクワクするなど連なって新しいことにチャレンジすることができています。

どんな場所や場面、どんなことにワクワクするのか常にアンテナを立ててチャレンジを続けていく考え方をこれからも土台にしたいなと思っています。

戸塚)素晴らしいです!まさにご自身の活動に繋がる説得力のある言葉でした!久保さん、ありがとうございました!

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