見出し画像

イエメンで鮭釣りを

『FlyFisher』2013年3月号掲載

僕はチョークストリームの緩やかな流れに立ち、足元で水が流れ弾ける音色に耳を澄ます。辺りを包む霞の中をオレンジ色のラインが力強く、それでいて優雅に流れ出し、フライが綿毛のように静かに着水した。二度ほどフライが小さな波に揺らめき、波紋とともに消える。僕はシュッと鋭い音とともにロッドを素早く立て、心地よい魚の抵抗を全身で感じ取り、自然と人間とが繋がるほんの僅かな一瞬を永遠に感じていたいと思った。
 と、いうところで目が覚めた。

渓流が禁漁になってから3ヶ月。ついに禁断症状「釣りがしたい」病が発症してしまった。こうなると解禁まで治らない。どうにかならないものか。自宅の庭に川でも作って釣りをするか、はたまた近所の用水路にヤマメを放流してプライベートリバーにできたらと考える。だからこそ、バカバカしいとは思えない小説が『イエメンで鮭釣りを』(白水社)である。

堅物のイギリス国立水産研究所の学者フレッド・ジョーンズ博士に、釣りに魅せられたイエメンの富豪シャイフ・ムハンマドから自分の国の川でサケを釣れるようにするプロジェクトの協力を持ちかけられる。この「イエメン鮭釣りプロジェクト」には政治利用にしか眼中にないピーター・マクスウエルという首相官邸広報官の思惑も入り交じりプロジェクトは大事になり、それこそチョークストリームのように静かに曲がりくねりながらプロジェクトは進んでいく。
 物語を川に喩えるなら、登場人物は釣り人だ。物語の重要人物であるイエメンの富豪シャイフは物事に対して達観し、何事も結果がどうあれ、それが神の思し召しと言う。
 目的に対して「信じる」ことができれば結果はどうであろうと受け入れるのが、釣り人の一つの到達点ではないだろうか。
釣れなくても釣りなのである。
この物語のシャイフ・ムハンマドは完成された釣り人の象徴なのではないか。
 そして主人公であるフレッド・ジョーンズ博士は可能性が限りなくゼロのものに対して成功を信じられず、行動を起こす前に諦めようとする。慎重と言えば聞こえはいいが、釣果だけを求めている僕みたいな青二才な釣り人の象徴だ。
 そして首相官邸の広報官ピーター・マクスウエルは、養殖場の監獄のような生簀のなかで苦しそうにひしめき合っているサケを見て「野生の生き物をこんな間近で見られるのは実に興味深い」とのたまう、釣り人からは忌み嫌われる人物として描かれる。釣りには絶対に誘いたくないタイプである。
 そもそも、なぜイエメンでサーモンフィッシングなのか、と思う人もいるだろう。しかし釣り人にとっては「釣りがしたい」以上の理由があるであろうか。あのトーマス・グラバーは奥日光の湯川に魚を放流し、その後ハンス・ハンターは彼の地を一大レジャースポットへと創り上げる夢を見た。
 それはなぜか。
「釣りがしたい」からだ。
 砂漠にサケを泳がせるという馬鹿げたプロジェクトを可能と「信じる」。なぜ「信じる」ことができるのか。
それはやはり「釣りがしたい」からだ。
 釣り人にとって何時間釣れなくても川に立ち続けることができるのは、「釣れる」ことを「信じている」からこそである。これこそが釣り人の習性なのである。

 シャイフ・ムハンマドは言う。
「信じる心こそすべての苦悩を癒す薬である」と。
そして「信じる心なくして、希望も愛もありません。信じる心は希望以上のもの」と。

 しかし、釣り人はこのシャイフの名言を、自分と結婚してくれた世界一寛容な、そして世界一釣りに不寛容な伴侶への決めセリフとして使ってはいけない。なぜならこの言葉はこう結ばれる。
「愛以上のものなのです」と。

殴られるまえに正直に言おう
『釣りがしたいです」と。

画像1

『イエメンで鮭釣りを』
ポール・トーディ/著 小竹由美子/訳
白水社 2,700円 ISBN:978-4-560-09002-2

画像2

『砂漠でサーモン・フィッシング』
2012年 イギリス
監督:ラッセ・ハルストレム
出演:ユアン・マクレガー、エミリー・ブラント、クリスティン・スコット・トーマス、アムール・ワケド


最後までお読みいただきありがとうございました。 投げ銭でご支援いただけましたらとても幸せになれそうです。