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「後悔」と「言い訳」の釣り文学/『FlyFisher』2014年11月号

『FlyFisher』2014年11月号掲載 

釣りに行く時はタックルと一緒に本を持っていく。実用系の本ではなく、随筆などのいわゆる釣文学と呼ばれる本である。
では釣場で読むかと言えば十中八九読まない。
文字を追うより魚を追っていた方が楽しいからだ。しかし、夕闇が迫り、浮かべたフライが見えなくなるのを合図に納竿し、テントの中でページをめくるのだ。一日を眠りにつくまで釣りに浸れる幸福感は格別なのである。
お酒が飲めない僕にとっての睡眠導入の役割も否定はできないが。

今回、釣り文学の特集に関連して、眠気を誘うには役に立たない本を紹介させていただいた。
中には釣師のバイブルのアレが無いではないかと言うご指摘があるかと思う。当然アレは僕も読んではいる。テントの中で読み始め、翌朝までグッスリと寝られたことを考えれば目的を果たした名著であるが、個人的には翌朝の釣りに影響が出そうな本を意地悪くも選ばせていただいた。皆様が寝坊した隙に、僕が先に川へと行くために。

さて、今回の原稿を書くにあたり一通り読んでみてわかったことがある。
紹介した釣文学は、半分が思い出と後悔であり、残りの半分は言い訳ということである。

『マクリーンの川』は思い出そのものであるし、『イギリスの鱒釣り』も川の管理の記録である。
体験から随筆は生まれるものであるから思い出は当然である。創作であるヘミング・ウェイの『大きな二つの心臓の川』など一連のニック・アダムスの物語でさえヘミングウェイの自伝的なものである。
後悔は〝逃がした魚は大きい〟ということである。リーダーの選択を後悔し、立ち位置を後悔し、力なく風流れる切れたラインを呆然と眺めるのである。その後大物を釣り上げたりすることもあったと思うが、釣り人の自慢話はあまり憶えてはいない。

そして残りのほとんどが言い訳である。
日々の生活の少々を、中には大半を犠牲にして釣りに行くことへの後ろめたさか、はたまた罪悪感か、釣りというあまりに中毒性のある遊びをなんとか正当化しようという試みが、数百年にもおよび言い訳として語られているのである。

なぜ魚を釣るのかと問いに
モーリー・ロバーツは「苦難、悲哀、心配を忘れ得る一つの方法なのだ」と言い、ジョージ・オーウェルは「今まさに瀕死の状態にある文明に感傷を抱いているからである。そして魚釣りがこの文明を代表しているのである」(共に『釣師の休日』)と言い放つ。
「愉しみのため、魂の洗濯のため」という
元アメリカ大統領ハーバート・フーバーの言葉をアーノルド・ギングリッチは引き合いに出し(釣れぬ日の慰め『鱒釣り』)、
「釣りと名づけられるものなら、どんなものでもそれは釣り人にとって、最も活気に満ちあふれた人生形態の一つなのだ」と言ったのはアーサー・ランサム(釣竿と糸『雨の日の釣師のために』)である。
ロバート・トレーヴァーにいたっては「釣りは、男が淋しさなしに孤独でいることができる、地上に残されたわずかな場所の一つだ」と男の美学で修飾する。

なぜ言い訳ばかり書かれた本に我々は魅了されるのか。
釣行前日の高揚感。川に立ったときの期待感。ラインが水辺に伝える希望。大物を逃したときの悔恨の念。釣り上げた時の喜び。それらを得るために僅かな、人によっては大きな代償に見合う言い訳を先人たちは文学として記してきたのだ。
それは今も昔も変わらず、釣り人の考えは同じということの証左なのだ。

我々はどう足掻いてもエドモンド・ヒラリーとテンジン・ノルゲイがエベレストに初登頂したときの征服感を感じることはできないし、ユーリ・ガガーリンが地球を眺めた時の感動を得ることもできない。
しかし井伏鱒二が奥日光で鱒を釣り上げた喜びも、ヘミングウェイがカナダでニジマスと格闘した恍惚感も、釣りを通じ時代を超えて同じ喜びと恍惚感を我々釣り人は得ることができるのである。

開高健が釣りを説く時に引き合いに出していた中国の古い〝言い訳〟がある。

一時間、幸せになりたかったら酒を飲みなさい

三日間、幸せになりたかったら結婚しなさい

八日間、幸せになりたかったら豚を殺して食べなさい

永遠に、幸せになりたかったら釣りを覚えなさい

「永遠に」とはそんな時代を問わないという意味ではないかと僕は思うのである。

 最後になるが、書店で働いている身ながら心苦しいのは今回取り上げた本のいくつかが絶版となっていることである。
本との出会いは一期一会とよく言う。出会った時に手に入れないとその後出会うことは難しい。
しばらくたって絶版になっていた、というのはまだマシで、多くはその本自体を忘れてしまうからである。こと釣りの本に限っては顕著である。まずほとんどが増刷せず初版で絶版である。釣り人しか読まないからであり、その中でも少数派であるフライフィッシングについて書かれた本であればなおさらである。また釣りの本を出そうなどという物好きな出版社は社長が仕事と称してタイイングしている会社でもなければフライフィッシングの本など出さないのである。それでも景気の良かった昔は物好きな出版社は釣りの本を出していても許されていたのだ。現在は本が売れない時代と言われていて、実際そうなのだが、商売として本を出版するからには売れなければ次は無く、非常に限られた読者人口にならざるを得ないのは理解出来る。
しかし釣文学と呼べる本が新刊書店を探すより古書店を探した方が質、量ともに豊富であるという事実は、出版不況を言い訳にしてはいけないと僕は思う。
現在、良質の釣文学が少なくなった原因は、釣りをするのに言い訳が必要でなくなったからではないだろうか。
ピカソは言った。
〝芸術は苦しみと悲しみから生まれる〟と。
釣り人は少し苦しみ悲しんだ方が良いのかもしれない。

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