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「もしかして、うちの娘、発達が遅いかも…」16歳の私から母へのインタビュー

福祉業界に転職してから、発達障害のある子どものいるご家庭、特にお母様と関わり、想いを聞く機会が日々ある。

わたし自身には、知的障害のある姉がいるが、きょうだいと親では、感じることや経験することが大きく異なるように思う。わたしにとっては、生まれたときから一緒に過ごしてきた姉が、世間的には「障害者」と呼ばれて区別・差別されていることに物心ついてから気付く。一方で、母親にとっては、それまで自分とは無関係と思っていた「障害者」が、自分の人生に突然現れたのだ。

自分の子どもが「障害者」であることを受け入れ、周囲に頼れる人が少ない中で必要な情報を手繰り寄せ、その子にとって最適と思える環境を選び取っていく。その過程には、ひとりひとり、壮絶なドラマがある。多くの家族と関わる中でも、そのドラマへの想像力を忘れないようにせねばならない。

13年前、高校の現代社会の授業で、身近な人にインタビューをするレポート課題があった。そこで、自分の母へ、姉の子育てに関してインタビューした。その内容を、固有名称だけ削除してほぼ原文ままで掲載する。

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わたしには知的障害を持つ姉がいる。名前はM。家族や友達からは「Mちゃん」 と呼ばれる。その姉の成長を、子育てをした母の目線から追ってみる。

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姉はとても難産だった。羊水を大量に飲んでしまい、念のため未熟児用の保育器に一晩入っていた。

体の成長は順調。1歳2、3ヶ月でマンマなどの言葉が出るようになる。しかし、1語出れば一気に出てくるはずの言葉がなかなか出てこず、 変だなと思い始める。また、笑うことや表情の変化そのものが少なかった。父はそんな姉を喜ばせたくて、子ども用の木馬を手作りした。

姉は、ブランコに乗っているときと、 母の歌を聴いているときは、よく笑った。少しでも姉の笑顔が見たくて、 母は毎日ブランコに乗せるために公園へ連れていき、その傍らで歌いかけ、反応がなくてもたくさん話しかけた。近所の公園のブランコが埋まっているときは、空いているブランコがある公園を車で探し回った。ブランコに乗る姉と母の周りには、小さい子どもがたくさん集まってきた。大抵の場合、親は子どもを公園で遊ばせているあいだは大人同士で世間話をしており、子どもに付きっきりで話しかける親はめずらしく、歌を聴いているのも楽しかったようだ。

近所付き合いのなかで、同年代の子どもがいるママ友達から「歩き始めた?」「話し始めた?」などと聞かれることが多かった。母はもうその頃、姉の発建の遅れになんとなく気付き始めていた。知り合いに姉がジロジロ見られるのが嫌で、わざと遠くの公園に連れて行くようになった。

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幼少期に股関節の手術をしていた母は、ずっと術後の痛みを負って生活していた。しかし、姉が2歳になった頃、その痛みがひどくなった。母は再度手術を受けるため、姉を3か月半にわたって親戚の家に預け、入院することになった。

入院中、母は考えた。「Mの発達の遅れをただ心配しているだけではだめだ、ちゃんと向き合おう」。

退院後、週に1度、地域で開催されている親子で遊ぶ会に参加するようになった。姉の発達の遅れに気付いた会の友人から、「発達障害に詳しい先生が運営する就学前通園施設があるから、相談してみたら?」と勧められた。

早速電話をして訪問してみると、とても良い先生だった。アドバイスをするわけでもなく、話を聞いてくれ、すべてを受け止めてくれた。母はそこで救われ、たくさん泣いた。そして、「今いっぱい泣いたから、これからは泣かないで頑張ろう」と思えた。そして、週に2回その施設に通い始める。そこで、それぞれ悩みを抱えた母親たちと知り合った。

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姉が3歳ぐらいだったころ、てんかんの有無を診断するために大学病院で脳波検査をした。検査の時は睡眠状態でなくてはいけないが、姉はなかなか眠ることができず、何度も病院ヘ行くはめになった。

何度目かでようやく検査ができ、脳波には異常はなかったが、そこで知的障害と診断された。病院で、障害児教育専門の先生を紹介してもらった。

ただし、それは都内の大学の先生だった。母は、生まれたばかりのわたしを抱いて、姉の手を引いて、当時住んでいた茨城から東京へ、特急電車に乗って隔週で通うこととなった。

紹介された先生は、2名で障害児教育の研究チームを組んでいて、1名が子どもと関わって様子を観察する間、もう1名が別室で親と会話をするという形をとっていた。母が姉の変わった行動や遅い成長に関しての悩みについて話すと、先生は姉の立場に立って肯定的に、かつ客観的に意見をしてくれた。

2名の先生方とは、その後姉が高校を卒業するまで、14年間の付き合いになった。2人のおかげで、母は穏やかに安心して姉を育てることができ、わたしのためにもなったという。

◇◇◇

就学前通園施設に通い始めて半年が経ち、姉は他の子どもと一緒に過ごすことに徐々に慣れてきた。母は、もっと大きな集団に入れてもよいのではと考え始め、先生に勧められた保育園を選択した。

その保育園の園長先生は非常に厳しい人だった。姉は偏食が激しく、肉や野菜はふりかけのように細かくしないと食べない状態だった。その偏食を直すために、母は園長先生から、毎日朝晩の自宅でのメニューを記録するよう指示され、3年半続けた。また、姉は昼寝の時間に眠ることができなかったので、母は毎日昼食後すぐに迎えに行かされた。

そこの保育園で、姉に友達ができた。Nちゃんという子だった。姉は保育園のロッカーに貼られている他の子どもたちの名前シールを全部はがしてしまう癖があった。卒園前、Nちゃんはどこかそわそわしており、何か気になるのかと母が訪ねると、「Mちゃん、小学校でもみんなの名前シールはがしちゃったらどうしよう」。違う小学校へ進む姉のことを心配していたのだ。

◇◇◇

姉はついに小学校ヘ進学することとなる。当初は特別支援学級に進みたいと考えていたが、市の教育委員会のルール上それが難しかったため、普通学級か特別支援学校かの二択であった。母は「低学年のうちだけでも、地域の子どもたちと同じ学校ヘ行かせたい」と考え、普通学級を選ぼうとした。

しかし、当時の地域の普通学級では、発達の遅れのある子を簡単には受け入れてくれなかった。小学校の会議室で、教育委員会・校長先生・教頭先生・教務主任・保健の先生が会する場に家族全員で呼ばれ、話し合いの場が持たれた。学校側は、姉が授業中に急に外へ飛び出して事故に遭うことなどもリスクとして捉えていたが、何より、姉がいじめに遭うことを心配していた。そこで母は、「それなら私が1日中付き添います」と宣言し、何とか通学を許可してもらえた。

入学直後は、すべての授業中、母が姉の隣に付き添った。他のクラスメイトが足し算引き算や漠字の書き取りに取り組む傍らで、なぞり書きのドリルなどを姉にやらせていた。担任の先生は徐々に姉のことを理解し、暴れたり急に外へ飛び出したりする心配がないと判断し、母は別教室で待機するようになった。すると、姉が教室でやれることがなくなってしまった。また、小学校1年生というのは、お世話したがりな年頃である。姉はそんな子どもたちの格好のお世話対象だった。何もできずにイライラしていた姉は、特にしっこくお世話したがる男の子を、ひっかいてしまったこともあった。

それでも、クラスメイトは良い子ばかりだった。クラスメイトたちは、普段笑わない姉がブランコに乗っているときだけはよく笑うことに気付き始めた。小学校の校庭にはブランコは数台しかなく、休み時間になるとすぐに埋まってしまう。そこで、クラスの女の子たちは、休み時間のチャイムが鳴るやいなやブランコまでダッシュして、姉のために1台確保してくれた。そして、ブランコで楽しそうに遊ぶ姉の笑顔を見て喜んでくれた。

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ある日、掃除中に男の子が棚から落ちてケガをしてしまった。担任含めた複数の先生が見ている前で起きた事故だった。

しかしその後の保護者会で、ある保護者が「担任の注意が足りなかったからだ」と先生を責めた。けがをした男の子ではない、別の生徒の父親だった。母はそのとき、「この人は『教室に姉のような子がいるせいで、先生の注意が偏ってしまう』ということが言いたいのだ」と察した。

先生は「Mちゃんがいることが、今回の事故の原因ではありません!Mちゃんに他の生徒以上に手をかけているということはありません」と断言してくれた。しかし、先生は他の保護者にも責められ、ついには会の最中に泣き出してしまった。

母は、先生がきっぱりと言ってくれたからこそ、これ以上迷惑をかけることはできないし、姉のためにならないと考えた。世間からの障害児の見られ方を知った。

「はじめは、Mちゃんが『お客さん』でもいいから、みんなの中にいれてあげたいと思ったのね。でも、『お客さん』は、本人にしてみればいちばん辛いことだったの。これからは、誰かのお荷物じゃなく、Mちゃんが主役になれる環境を与えたいと思った。Mちゃんのペースでゆっくりと伸びていけぱいいよね」。母は考えた。

2年生へ進級するとき、学校側に週1回でも特別支援学校ヘ通うことを勧められた。母は「週1ではなく毎日行きます。特別支援学校ヘ転校します」と言った。追い出されたのではなく、姉のための主体的な選択だった。

転校先の特別支援学校は、生徒数に対して先生の数が多く、とても丁寧に指導してもらえる環境だった。姉のぺースに合わせて成長を追っていけるので、母の心にもゆとりができた。

そして小学校2年生から高校3年生まで特別支援学校に通い、現在20歳の姉は、地域の福祉作業所で働いている。

◇◇◇

就学前通園施設も、保育園も、都内の障害児教育の先生も、すべて良い出会いだったと母は話した。普通学級に通った1年間も、世の中の厳しさを知り、負担も大きかったが、姉に優しい友達がたくさんできて、悪いことばかりではなかったという。

障害のある子どもの行き場は限られすぎていると思う。限られた場所でしか過ごせないので、世間の目に触れられづらく、「特別」な存在と捉えられてしまう。障害のある子やその親が、人一倍気を遣ったり苦労しない世の中になってほしい。

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