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渡部建さんの不倫に関して仏教的に考えてみた

渡部建さんの報道がありました。佐々木希と結婚しているのに!(リンク)
Twitterでも

佐々木希と結婚しているのに!

AV女優とトイレでって、そもそもそれって不倫なの?お店の延長では?

などと言われていますね。
不倫の問題はあくまでも夫婦間の問題なのに、番組の降板や芸能活動の自粛などその影響は広範囲に飛び火し、ツイッターのトレンドワード入もするなど、多くの人から注目され、声高に騒がれています。

さて、これが世間的に、もしくは法的にどうであるかはいったん置いておいて、仏教ではどう捉えるのかを考えてみました。

仏教には「邪淫(じゃいん)」という言葉があります。すごい字面ですね。
仏教語大辞典(中村元著・東京書籍)よれば「夫または妻でないものに対して、よこしまな行為をすること。」や「道に外れた姦淫。」とあります。
また、お経の中にはもっとはっきりと「他人の婦を犯すこと」と書かれているものもあります。

邪淫。邪で淫ら。なんとも生々しい響きです。渡部さんの行いは、不倫だとか浮気だとかの定義は置いておいても、邪淫を犯していることは間違いないですね。

さて、中阿含経というお経の中にはこう書かれています。
「邪淫は必ず現世及び後世に悪報を受く」
これは、不倫をした者はこの世だけではなく来世でも悪い報いを受けますよ、という意味です。
最近日本でも多くの方に読まれている『スッタニパータ』というお経には
「自分の妻に満足することなく、遊女とつき合い、他人の妻と交わる。これは破滅への門である(「スッタニパータ」106)」
と書かれています。
いずれにしろ、仏教において邪淫は非常に忌み嫌われているもの、犯してはならないことであるということが読み取れます。
さて、犯してはならないものを一般に「罪」と言いますが、仏教での罪というのは「律」に規定されているものが守るべきルールとなっています。これを破るのがおそらく一般の人の言う「罪」に当たるのではないかとおもいます。

前提として、律とはVinaya(ヴィナーヤ)というサンスクリット語で、意味を「指導する・導く」というものであるということがあります。
それが転じて、修行僧が集団生活をするための規則・規律となっていきました。

これは仏教というお釈迦様の教えそのものではなく、お釈迦様の教えに寄り集まった人々が集団生活を営むにあたって必要とされて、かたちづくられたものです。

その中では、邪淫どころか性行為自体が真っ先に禁じられています。
こう書くと、おそらく多くの方は日本の僧侶の妻帯に関して疑問を持たれることと思います。
先にそれについて、教学者の佐々木閑(ささきしずか)氏の「『律』に学ぶ生き方の智慧」の一節をご紹介しながらお答えしたいと思います。

なぜ性行為が禁じられてるのかというと、インドでは(中略)修行して精神を鍛え上げようとしている人が性行為に関わると、せっかくの精神のパワーを一挙に失ってしまうというのである。インド社会全般がそう考えていた中で仏教もその路線を採用し、
(中略)
仏教で僧侶の性行為が禁止されたのはインド社会の特殊な文化のせいだとするならば、それは古代インドだけで通用するものであって、現代社会では意味がないという見方も可能になる

実際に律のなかには以下のように書かれている部分もあります

僧侶はどのような形であっても性行為を行ってはならない。(中略)ただし、やむを得ぬ状況になり、それを避けることができないと自覚した場合、緊急避難措置として「私は規則が守れない」と第三者に告げてから行ったなら無罪である。

やむを得ぬ事情が何を指すのかが気になりますね。これに関しては、

例えば真面目な僧侶が女性信者に一方的に惚れられ、計略にハマり、いよいよ追い詰められてしまい、生理的欲求に逆らえなくなることなど・・・と個別には書ききれないほどたくさんのケースが設けられています。


もう一つお話を加えます。浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、こんな言葉を残しています。

「さるべき業縁のもよほさば、いかなるふるまひもすべし(歎異抄)」

頭ではダメだと思っていても、つい誘惑にのってしまう。悪縁も縁なりと言いますが、めぐり合わせの妙によっては悪いことも行ってしまうという意味です。
頭では悪いとわかっている。悪いことなのだから、してはいけないとわかっている。それでもどうしてもやりたくなってしまう、やめられないという心の動きをどうすればいいのでしょう。
どうにもできない。
それが答えです。
悪いことだとわかっていてもしてしまう、やめることができないのは、人間ですから仕方のないことです。
けれど、行いには必ず結果があることを、わたしたちはしかと心得ていなければなりません。

赤信号では渡ってはいけない
お酒を飲んだら車の運転をしてはいけない
売っているものをお金を払わずに持ってきてはいけない

誰でもわかっていることです。それでもそれをするというのは、それなりのリスクを受け入れるということです。

死ぬ気で赤信号を渡る
人を殺す覚悟で酒気帯び運転をする
刑務所に入るつもりで犯罪を犯す

そういうことです。不倫も同じです。人を好きになることに罪はありませんし、誰から裁かれる言われもありません(まぁ、民事で裁かれる場合もありますが、刑事事件にはならないということでの表現です)。しかし、心で思うだけでなく実際に不倫を犯すのなら、その結果から目をそらしてはいけません。
地獄へ落ち、来世でまでも苦しみ、そこにあるのは破滅のみ。邪淫を犯す結末を心得た上で、あとは自分の心とよくよく向き合って答えを出すしかありません。

先程紹介した佐々木閑氏の著にはにはこのように書いてもあります。

しかし俗世間の人々が『僧侶は性的に潔癖でなければならない』と考えている以上、その通念に反抗することは難しい。(中略)これは宗教以外の様々な出家世界にも共通する構図である。例えば政治家が性的なスキャンダルを起こした場合など、その深刻さの度合は社会がそれをどう受け取るかにかかってくる。性的にだらしないことと政治家としての能力には直接の関係はないから、政治家が政治以外の私生活でどんなスキャンダルを起こそうが構わないという言い訳は理が通っている。しかし問題は理詰めの納得ではなく、イメージとしての政治家の格好良さにある。

今回の渡部建さんの不倫騒動は、まさに「芸能界」というある種独特な世界(氏の言葉を借りれば「宗教以外の様々な出家世界のひとつ」)にいる人間に世間が求めるある種の潔癖さ、しかも佐々木希さんという奥さんを持っていながら! という嫉妬も手伝い、ここまでの騒ぎになったのだと思われます。
そう、不倫は不倫でしかないのに、それが騒動にまで発展する背景には、邪淫は罪であるという本筋とは違う要素が多分に影響しているのです。

さて、これを対岸の火事と考えるにはほどお気楽ではいられません。「様々な出家世界のひとつ」と世間から見られている人は意外と多くいるのではないでしょうか?
様々な出家世界のひとつどころか、僕自身も妻帯している僧侶です。我が事と思わずにはいられません。世間からどう見られているか、何を求められ、何を疎まれるのか。そこをものすごく丁寧に考えないといけない。その上で何をどう発信するか。そしてイメージとしてのお坊さんらしい格好良さを損なわないように努力をする必要があるということです。

お布施、お気持ちで護寺運営をさせていただきます。どうぞよろしくお願いいたします。