僕の「原体験ディグダグ」 その④

1:はじめに

こんにちわ。「原体験ディグダグ」も四回目です。
主に仕事にまつわる「今」(意識)から徐々に「過去」(無意識)まで遡っています。
今回は、正直一番気分的には乗らない・イヤな掘り起こしになるかもしれません。

「父親と僕」

についての掘り起こしです。
結構ズバズバ書いてしまうと思うので、
「なんかやだ・・・」
と思った方は、どうぞ引き返してください(-_-;)

2:「父親と僕」

 父親と僕の今の関係は、仕事上では

「院長とその下で働く勤務医」

という関係です。まあ、うちの診療所の院長は父なので、当然です。

で、親子としてですが、困ったことに僕の中では

「嫌いと苦手の中間みたいな人」

です。
ただし、勘違いしてほしくないのは、

「生んで(生んだのは母ですが)ここまで育ててくれたことや何不自由なく育ててくれたことへの感謝の気持ち」

というのは、もちろん持っています。当たり前です。そこは誤解しないでください。


ただ、同じ「医師」をいう仕事をしてますから
「憧れる医師・尊敬する医師が父親か?」
と問われると「違う」と答えます。

「一個人として人間として、尊敬しているか?」
と問われても「いいえ」と答えます。


相当ひねくれた大人に育ってしまいました(-_-;)

では、なぜ、ひねくれてしまったのでしょう?

3:なぜか、ひねくれた僕。

こうなった「なぜ?」はですね、ぶっちゃけ一緒に働くようになってから鮮明になりました。
以前もnoteに書いたように、一緒に働き始めたのはだいたい4年前。
そのあたりが一番の引き金になりました。

「なにがそんなに気に食わないのさ?」
と言われると、いろいろと挙げられるんですけど、

・診療所以外の施設(特別養護老人ホームとか)の職員を電話でどなりつける。
・紹介元の先生や仲がそれほど良くない先生方の悪口を言う。
・やってみてもいないことを最初からできないと突っぱねる(やる気0)。
・他に自分が合わせるということをしない。自分中心。

などなど(-_-;)。ぶっちゃけ、父の襟首つかんで殴りそうになったこともあります。(あらやだ、物騒なかくちゃん)

あ~、書いてるのも嫌になるのですが、しょうがないですねえ(笑)

で、僕もただ見てるだけではありません。父親でもある院長に説教かましたこともありました。でも、ほぼ聞く耳もたない・・・。疲れちゃいました。

要は、実際に働いてみて、

想像していた「医師としての父」と実像があまりにもかけ離れていた。

というのが一番なんです。
まあ、遅れてきた反抗期みたいなものもあるかもしれませんね。

4:遅れてきた反抗期?

「40過ぎて反抗期かよ」

という声がこだましてきますが、しょうがないのです。
なぜなら、

僕が反抗期真っ盛りだった時に、僕は父と一緒に暮らしてないんです。

 別に両親が離婚したとかそんな物騒な話ではないんですが、これには理由があります。
 僕らが高校生になるくらいに、徐々に「お受験戦争」の時期に差し掛かってきてました。そのため、父は実家の診療所に留まることとし、母+姉+僕の三人で鹿児島市内へ引っ越したのです。
 僕はよく「受験のための逆単身赴任」と言ったりしてますが、僕が小学校4年の時に転居しましたから、ちょうど10歳から現在に至るまで父と暮らしたことがない計算になるのです(書いててびっくりしました(-_-;))

 もちろんその間に何も接触がなかった訳ではもちろんなく、月1回とか鹿児島市内に用事があると引っ越し先に寄るということや毎晩欠かさず電話で話してはいました。また、夏休みなどにも実家に帰省するのですが、まあその時も父は仕事に明け暮れています。

こうしてみると、結構特殊な環境だなあと思います。思春期時代に、もちろん母には反抗期真っ盛りの対応をしてました。ただ、父にはそういった対応をしていないのです。だから、様々な要因が重なって、今反抗期みたいになってるんだろうなと思います。

このことが、現在の状態にどう影響しているかはよくわかりませんが、深層心理には影響していると思います。多分、無意識に。

それ以前の父との記憶ですが、「医師としての父の記憶」はないに等しいです。小学校の校医をしていたので、集団予防接種を受ける時に泣けないなあと思ったりしてた程度ですかね(笑)
でも、「ひとりの父親」としては、寝る前に本を読んでくれたり、一緒にトランプしたり、「ブロック崩し」のテレビゲームをしたりといった記憶もあります。あとは、夏休みとかでもないのに突然学校を休んで、「つくば万博+TDL旅行」や「福岡の恐竜展見学」に連れていってもらった記憶もあります
父は父なりに気を遣って、家族サービスしてくれていたんだなとも思います

ただ、何故か物心ついてからの経験(一緒にするようになってからの記憶)が強烈すぎて、もしくは物心つく前の記憶が希薄すぎて、

「現在の「いやだ」「苦手だ」という感情が上書きされた」

と言えると思います。

反抗期と違うなあと思うのは、

思春期の反抗期は「なんとなく気に食わない」からの反抗だと思うのですが、今の反抗は「ある程度根拠のある反抗」という点でしょうか。

だからこそ、やっかいだとも思います。

あとは、医師として働く時代・環境の違いもあるでしょうね。以前は、「医師になって開業する」というだけで基本は食っていける時代ですし、おそらくは「医療職や患者さんのうえに医師が立つ」という時代だったと思います。そんな時代に医師として働いていたら、ある程度現在の「医師としての父」のような医師像になるかもしれない。
でも僕らの世代・時代は違います。少なくとも僕は

「医師も診察などを行うという役割をもったチームの一員」

と考えますし、患者さん含めた医療チーム全員が平等だと思ってやってきました。よっぽど?(ほぼないですけど)のことがない限り、自分のチームの研修医や看護師を怒鳴ったりしたことはありません。いいことなんでないですから。
そして、そこにはどうやっても前時代の先生方とは埋められないギャップが存在すると思います。

あとは、父も僕も親子なんですが、お互いを知らなさすぎたというのもあるでしょう。なんせ、30年以上一緒に暮らしてませんから。でも、それもしょうがないですし、父が考えた末の選択だったと思いますから。

ただ、お互いがすり寄ればいいんでしょうけど、どちらも頑固者ですし、経営・医療に対する考え方の相違は埋まらないです。これは解釈の問題でもあります。
少なくとも今の自分の状況には不満がありますので、僕自身の考えで、袂を分かつ判断=自分で独自に開業する道を選びました。

独自開業しようと思った要因はもちろん他にもありますが、こんな背景があるのも事実です。あんまり胸張っていえることではないんですけどね。

5:最後に

僕には6歳になる娘がいます。とてもとても大切な存在です。別に医師にならなくてもいいし、やりたいことをやらせてあげたい。だからこそ、勉強も頑張ってほしいと思います。そして、当たり前なのですが、父親としての僕と暮らしているのを実感してほしいと思います。

そんな考えから、僕は家族が離れ離れになるような選択はしたくありませんし、しません。これは父がどうこういう訳ではなく、人生観・子育て観の違いです。

多分しばらくはこんな感じの親子関係ですが、僕が院長・経営者という立場になると変わる関係かもしれません。そうなればいいのですが・・・(-_-;)

あとは、今働いている実家の診療所の行く末は気になります。父の代で閉院することになると思います。父も80歳なので、そう遠くない将来に閉院することになりますが、そこへの準備もしていない・・・。頭を抱えたくなる状況です(ここでも襟首つかんで説教しましたが、「なるようになる」の一点張りでした。えーーーん( ;∀;))。
どうにかするのは確実に「僕の役割」になるんですが、「いやいや僕の仕事もあるやん」と思うことしきりです。
まあ、なんだかんだ言っても親子の縁は切れないので、子供がどうにかするしかないんですけどね。頼むよ、とうちゃん。

そんなこんなな今回の「原体験ディグダグ」でした。

また、適当に暇なときに連載継続していきます。


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