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ブライアン・メイの勇気ある「キャンセル・カルチャー」批判

クイーンのブライアン・メイが、「キャンセル・カルチャー」を批判している。(BARKS 11/ 27記事)

「僕はキャンセル・カルチャーというものを懸念している。いいこともある。でも、悪いことや不当なことももたらしている」

「例えば、フレディ(・マーキュリー)はザンジバル出身だった。ブリティッシュじゃなかったし、白人でもなかった。そんなこと、誰も気にしていなかった。(中略)“僕らは彼と活動すべきなのか? 彼の肌の色は正しいのか? 性的指向は正しいのか?”なんて考える必要はなかった。いまは、そこまで計算しなくてはいけないのを僕は怖いと思う」

「いまはどこにおいても、自分が本当に考えていることを口にするのが怖いという雰囲気がある」

ブライアン・メイの発言は、英国最大の音楽イベント「ブリット・アワーズ」で、男女別カテゴリーが廃止されたことがきっかけかもしれない。

日本の紅白歌合戦も、「LGBTへの配慮がない」から、いずれ取りやめにならないとも限らない。

ブライアン・メイはこの男女別カテゴリー廃止について、

「十分な考えなしの決断だ」

「上手く行っていて、そのままでいいってものはたくさんある。長期にわたる影響を考慮せず、物ごとを変えようとする人々にはウンザリしている。改善したものもあれば、そうじゃないものもある」

と言っている。

ブライアン・メイの知性と勇気に敬意を表し、賛同したい。

付け加えるならーー

キャンセル・カルチャーは、ポリコレを過去と将来の時間軸で引き延ばした概念だと言えるだろう。

「吊るし上げ文化」とでも意訳できるだろうか。法的問題になることもあるが、基本的には「私刑」である。

過去にポリコレに抵触した者は、公の場から追放する、というのがキャンセル・カルチャーの本意だろうが、今回のブリット・アワードの措置は、将来問題になるといけないから、という予防措置だろう。

今はポリコレと略称されるポリティカリー・コレクトネスという概念が広がったのはもう30年前、1990年初めだった。当時はPC(ピー・シー)と略称されていた。

1990年代という時代で分かるように、東西冷戦の終了とともに、「政治左翼」が「文化左翼」に転じることで生まれた概念と言える。

当時の説明では、その語源は毛沢東で、文化大革命時の標語の一つだったとされた(今はどう説明されているか分からない)。

当時は『政治的に正しいおとぎ話』がアメリカでベストセラーになるなど、そうしたカルチャーを笑う余裕があった。

日本でも同時期に、北朝鮮を「笑う」サブカルチャーがあった。北朝鮮はいわばポリコレ国家だ。(当時の日本のマスコミはなんと北朝鮮のポリコレに協力し、北朝鮮を「朝鮮民主主義人民共和国」とフルネームで呼ばないといけなかった。この問題でマスコミが全く頼りにならない実例の一つだ。その恥ずかしい習慣がなくなったのは北朝鮮の拉致が発覚してからである)

しかし、今はそれが「笑いごと」でなくなっている。

「差別」「いじめ」「セクハラ」「パワハラ」「ダイバーシティ」「LGBT」「SDGS」等々。

我々が「抵触してはならない」文化コードが増殖して、ブライアン・メイのいう「自分が本当に考えていることを口にするのが怖いという雰囲気」が蔓延している。

そして、それに対して、これを批判したり笑ったりする社会的潜在力が、確実に衰退している。

最近の傾向としては、企業がこのカルチャーに加担することが増えている。いわゆるコンプラ重視の表れでもあるが、活動家の働きかけもあるだろう。

ポリコレのルーツが文化大革命だとすれば、私は物心ついて以来、その概念とともに生きてきたと言える。

中国で文化大革命が進行していた時、日本では部落解放同盟の糾弾戦術が盛んで、子供が何か差別語をひとこと言っただけで、学校の教師や校長が吊るし上げられていた。いま振り返れば、そこには共通の「カルチャー」があった。

当時、中学生だった私は、糾弾集会で頭がおかしくなった先生の授業を受けていた。全人格を否定された、辛かった、と、先生は中学生の我々に向かって訴えた。「だから、君たちは差別をしてはいけません」

今は「いじめ」問題があった学校が、同じ目に遭っているかもしれない。

解同だけでなく、当時は、「弱者は、劣勢を跳ね返すために、少々やり過ぎても構わない」というような考え方を、日教組の先生もしていた。

ポリコレ、キャンセル・カルチャーと名前を変えても、根本にあるのは、やはりこの考え方だと思う。

つまり、「目的が手段を正当化する」という考えだ。

私は当時から、この考え方はおかしいと思っていた。

「差別をなくす」「いじめをなくす」という目的がいかに正しくても、それは手段の誤りをいささかも正当化しない。

左翼がダメになったのは、結局、「目的が手段を正当化する」という考えが間違っていたからだと思う。

もちろん、同じ過ちは、「愛国無罪」などと言う右翼も、他のどんな人もおかしうる。

右であれ左であれ、我々が極端を嫌うのは、目的が間違っているというより、手段が間違っているからだ。我々が常識で、「そのやり方はおかしい」と思うことは、たいがいおかしいのである。

「目的の正しさ」に騙されないように、ブライアン・メイに励まされて、健全な常識と自由を守りたい。


<参考>






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