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出版文化はすでに死んでいる 〜読書の秋に向けて

編集の少し専門的な話になりますが。

つい最近、後輩の編集者たちが、

「原稿をまずゲラにして、ゲラで2回校正します」

と言っているのを聞いて、

「ああ、編集が死んだな」

と感じたわけです。


「校正」の意味が、違ってきているんですね。

校正(proofreading)とは、本来、ゲラが原稿と同じになっているか、照らし合わせて確認することです。

後輩が言う「ゲラで校正する」の「校正」は、誤りを正したり読みやすくしたりする「校閲(copyediting)」のことで、本来は原稿段階で行うべきことです。

原稿「で」校閲する。

ゲラ「を」校正する。

それが本来の正しい編集の手順です。

原稿で校閲せずに、ゲラ「で」「校正」する、というのは、いろいろ間違っているわけですね。


ただ、私が業界に入った30年ほど前にも、「すぐゲラにする」慣習が始まっていました。

原稿で徹底的に校閲すべき、と我々が先輩が言われた理由の1つは、ゲラで直すとコストがかかるからです。

人が活字を拾っていた時代はもちろん、写真植字の時代になっても、ゲラでの訂正は1字何銭、とおカネがかかりました。だから、直すなら原稿段階で、と言われたのです。

しかし、この事情を「逆用」する作家がいました。

自分の原稿を直されたくない作家ほど「まずゲラにして」と言います。

売れっ子作家は、単に時間がないから、ということもあります。そう言われると、編集者はたいがい抵抗できず、すぐゲラにして、最小限の直しで済ませることになりました。そういう作家は、私の経験では、すぐ売れなくなります。


「まずゲラに」の慣習が強まった第二の理由は、DTPの普及で簡単にゲラにできるようになったからです。この段階の「直し」のコストが劇的に下がりました。

それ自体はイノベーションで結構なことですが、そのためにますます原稿校閲がいい加減になっていきました。


原稿校閲の必要は、コストだけの問題ではありません。編集の本質にかかわります。

一般に、刊行本の中身が、例えばネットのブログの中身よりも質が高いとするならば、それは「原稿校閲」の過程があるからです。

原稿の段階で、著者と、それを徹底的にチェックする編集者のバチバチのバトルがあって、その中身の質が上がります。

その過程がなく、ゲラになってしまえば、大きな直しがしにくくなり、すぐに出版スケジュールに乗って、そのまま数カ月後に刊行されてしまう、ということになりがちです。

原稿の段階で、(理想的には)双方の納得いくまで、いつまでもバトルして中身を向上させていく。場合によっては、出ないこともありうる。ゲラになる前の、この緊張感に満ちた原稿校閲こそが、出版物の質を担保する編集の本質部分です。


この原稿校閲は、文字どおり「バトル」なので、犠牲もある。

最近、漫画家の楳図かずお氏が、編集者の言葉に傷ついて筆を折った、という記事が出ていました。

編集者が作家を潰すのは最悪の事態で、もちろん避けるべきです。

しかし、「バトル」では犠牲が出る。おもてに出ないだけで、楳図かずお氏のような例は他にもあるだろうし、たぶんその倍以上、編集者の方に「犠牲」が出ていると思います。

それでも、この「バトル」はどうしても行わなければなりません。

編集者は読者の代表です。ここで行われているのは「著者VS読者」のバトルです。編集者は、エゴを抑えて、読者の利益を守らなければなりません。読者がカネを払うスポンサーだからです。


しかし、今や「原稿校閲」をすっ飛ばすのが当たり前になっている。

そうすると、個人のブログのような、ネットのコンテンツとの質的な違いは、ほぼないのではないかと思います。

ネットの(多くの)コンテンツと、出版のコンテンツの違いは、突き詰めれば、「自分で編集する」と「他人(編集の専門家)が編集する」の違いです。「他人が編集する」方が結果が優れているーーそれが出版文化の価値の根拠ですが、そこが怪しくなっています。

編集の専門家は必要なく、自分の編集で十分だ、と。

そうすると、むしろネットの方が、内容を常にアップデートできるから優れている、ということになる。

そして出版は、中身の質は低いのに、それを「過剰包装」し、多大なコストをかけて製造出荷し、広告し、倉庫代までかけて、たぶんネットのコンテンツに対して5〜10倍の割高感があります。

最近、面白い本を読んだという人は、その内容がネットで配信されていたらーー例えばこのnoteで公表されたらーー5分の1の価格で買えた可能性を考えた方がいい。そして、わざわざ「本」で買う必要があったのか、考えるべきだと思うんですね。

いま、宗教団体の高額なお布施が問題になっていますが、出版界というものも、「出版文化」という幻想を売り、人が過剰に払う「お布施」で成り立っているような業界になっているのです。



出版文化を守れ、と言っている人たちは、いったい何を守れと言っているのか、よく考えた方がいい。

いまも出版物の質の向上に努めている出版者、編集者はいるでしょう。

しかし、それはもう、少数派です。大多数は、むしろ出版物の質の低さを競い合っているのが現状なのです。


(畑違いでよく知りませんが、漫画の世界は、その辺がまだちゃんとしているのかも。いまも作家と編集者がバチバチやる世界が、漫画界にだけは残っているのかもしれない。だから質を維持できて、売れているのかも)


例えば、もしひろゆき(西村博之)氏が本を出すなら、その本には、ひろゆき氏がネットで言っていることより、格段に質の高い言論がなければならないでしょう。

もし、ひろゆき氏の主張が出版の基準に達していなければ、彼の本は永久に出ないでしょう。

しかし、ひろゆき氏は、あるいは別のYouTuberでも、人気があるからという理由で簡単に本が出せ、そして、結局はネットでの人気の足下にも及ばないほどの部数しか読まれない。それが出版文化の現状です。「質」でネットに負けているのです。


本という形であれば価値があるわけではない。本屋に置いてある本の7割はYouTubeなどネットのコンテンツに負けている、と私は思っています。いや、私が思おうが思うまいが、最終的に商品の質を判断し、自分のサイフからお金を払う人の現実の数の差が、それを証明しています。

そして、本の「中身」(質)の低下に気づかない人ほど、「本という形」を物神崇拝している。いま「出版文化を守れ」と言っている、そういう人たちが、質の低下を許容するからこそ、さらに質の低下を招いているのです。


繰り返しになりますが、出版文化を守れという人は、何を守ろうとしているのでしょうか。出版文化の本質部分は、すでに死んでいる。そのことを知らなすぎます。





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