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柿生が狩猟場だった頃

私の住む柿生(川崎市麻生区)は狩猟場だった。

それも大昔ではない。戦後の話だ。

ここに長く住む人なら知っているのだろうが、新参の私は、河上徹太郎のエッセー集「都築ヶ岡から」で知った。

戦後、柿生に住んだ河上は、昭和29年のエッセーでこう書いている。

「柿生は以前は有名な小綬鶏の猟場だったそうだが、今は余りいない。でも私が遊ぶには十分である。私の猟は汽車に乗って弁当を持って出かけるのではない。・・・うちを出てから帰るまでが猟場の連続だ。私は猟期の間、雨の日と、野暮用で東京へ出る日をのけて、必ず出猟する」(都築ヶ岡の風物)

「猟期」は、10月半ばから3月半ばまでだった。この時期、柿生には老若男女の猟師たちが集まったようだ(河上のエッセイに、若いカップルが猟を楽しむ描写がある)。

上の写真(猟銃を持つ河上と猟犬)は、講談社文芸文庫版「都築ヶ岡から」の巻末に載る写真で、「昭和31年 川崎市柿生付近にて」のキャプションがある。

自宅の周囲が猟場である、という河上邸はどこにあったか。

「柿生駅から徒歩30分」「氏神は白鳥神社」などの記述から、今の小田急多摩線沿線、五月台駅付近であったろうと思われる。

狩猟場であった頃の雰囲気を味わいたくて、五月台駅から栗平駅あたりを歩くことがある。

片平川の東側、いま多摩線が走る小高い土地全体が、うっそうたる森で、大型の野鳥が飛び交う狩猟場だったのだろう。

この地での狩猟がいつまで行われたか、はっきりしない。河上のエッセーからは、1974年の小田急多摩線開通の直前までは続いていたようだ。およそ50年前である。

いまの五月台周辺は、一戸建ての多い閑静な住宅地である。いまでも緑は豊かだが、かつての柿生村の面影を残す古い民家は少数しか見られない。少し住宅展示場のような人工的雰囲気がある。

昔の雰囲気をいちばん残していると思うのが、新百合ヶ丘から五月台に向かう高架に隣接する「葉積緑地」だ。昨日も秋晴れのよい天気だったので、そのあたりを散策してきた。

公園のように整備されてはいるが、立ち入るには躊躇する深い森を擁する。「マムシ注意」の看板などもある。昨日も、少しいただけなのに、この季節にもかかわらず、たちまち数か所、蚊に刺されていた。

ここなら、狩猟が行われていてもおかしくない、と思われるのである。

狩猟場としての葉積台は、さらに古い歴史があるらしく、源頼朝が狩りをしたという伝承もあるそうだ。

「都築ヶ岡から」という書名にもあるように、河上は、「武蔵国都築郡柿生村」という旧地名に愛着があった。

そして、佐藤春夫が「田園の憂鬱」を書いた、今の横浜市青葉区鉄(くろがね)あたりまでを含めた「都築」という地に住んでいる、と認識していた。

かつての都築郡は、今の川崎市麻生区、横浜市青葉区、同都築区を包含した地名だ。この3地区は鶴見川水系で、実際に地形や風土が似ている(いずれも長寿の地として知られる)。

都築とは、西に柿生村、東に鉄があり、その中間に王禅寺がある、というのが、河上の地理感覚だった。

鉄には佐藤春夫「田園の憂鬱」の記念碑があるが、柿生には河上徹太郎の痕跡がない。

かつての河上邸のあたりに、歴史ある狩猟場であった証も兼ねて、文学碑を建てればどうだろう。



<参考>




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