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【追悼】瀬戸内寂聴の「激しい声」

瀬戸内寂聴(晴美)の小説を読んだことがない若い人も多いだろう。

微笑を浮かべた老尼僧、という姿だけから、彼女の作品を想像する人がいるかもしれない。しかし彼女は、そんなイメージから想像できないほど「過激」な作品で知られた人だった。追悼として、彼女の小説の中で、私がいちばん「激しい」と思った部分を引用しておきます。

大逆事件で死刑になった菅野須賀子を描いた「遠い声」の一節です。


<引用始め>

以前はキリストを信じた時もあったけれど、今は唯物論者になりきっている私は、死ねば、水と炭酸ガスになるだけだと思ってきたが、今になって、何だか、霊魂が恨みに凝り、王朝時代の生霊や死霊のようにこの世にさまよい残って、私の宿敵や怨敵の誰彼の上に、呪いをふきかけながら、永劫に成仏なんかしないのではないかと思われてくる。

死霊ともなれば、神出鬼没、どんな厳重な囲みの中も、十重二十重の防御の中も自由自在にしのびこめるのだから、先ずは、どこよりも先に、千代田のお城の九重の奥深くをお見舞申し、果さなかった計画を全うしてやろう。私ひとりで、計画を完遂してやろう。どうして私は最初から今度の計画をひとりでたて、ひとりで実行することを思いつかなかったのだろうか。どうせ、はじめから、確実に実行出来るなど思っていなかったのに。

元首といえども斬れば血の出るわれわれと同じ人間であり、刺されれば、斃れ、撃たれれば絶命し、爆弾が当れば、微塵に霧散してしまうはかない生物にすぎず、現人神などといわれるような特殊なものでないことを示し、彼が神聖だという迷信を盲目的に信じこまされている国民の目から鱗をとりのぞくことが目的で、それに乗じて小革命を起こそうというのは第二義だったのだ。斃されないまでも、危害を加えようと実行する人間もいることで、神聖性を地にひきずりおろし、神話に対する疑惑を国民におこさせることだけでも、一応私たちの目的は達せられる筈だった。

それくらいのことなら、私だけでもやれたかもしれないのに、同志を語らったばかりに、これほどあっけなく事前に発覚し、こうも惨憺たる結果を招いてしまったことは、何といっても口惜しい。

<引用終わり>

「遠い声」『瀬戸内寂聴全集6』


ちなみに、井上光晴を原一男が撮った「全身小説家」というドキュメンタリー映画があるが、その中で、入院中の井上を、瀬戸内寂聴が見舞うシーンがある。

その場面で、瀬戸内寂聴が、井上の履いている靴下に触って、「まあ、こんな靴下を履いて」とかなんとか言う。

そのシーンを見て、ある人が、こう言った。

「女が男の靴下に触る。どういうことか分かるだろう。二人はできているということだ」

井上光晴と瀬戸内の不倫は、井上の娘の井上荒野が小説に書いて話題になったが(映画化もされるという)、ずっと前から周知のことだった。

井上光晴は共産党員だった。瀬戸内もそうだと思ったが、正式な履歴にはないようだ。しかし、中国びいき、共産党びいき、朝日新聞びいきで知られていた。井上とは思想的同志でもあったのだろう。


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