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「幸福の科学」が新しかったころ

大川隆法氏が66歳で亡くなった。若いねえ。

「幸福の科学」がスタートしたころ、当然ながら彼はもっと若かった。

同時期のオウム真理教の麻原彰晃も若かった。ともに30代前半だ。

1956年生まれの大川隆法が「幸福の科学」を立ち上げたのは1986年、30歳のとき。

1955年生まれの麻原彰晃が「オウム真理教」を立ち上げたのは1987年、32歳のときだった。


1980年代後半から90年代にかけて、2つの団体と、2人の人物は、よくマスコミに登場して比較された。

どちらも若者の人気を集めた。

彼らは若者の集団だった、ということが、いまの時点では忘れられがちかもしれない。

それはちょうど、東西冷戦が終わり、日本はバブル期で、「オタク」という言葉が生まれたころだった。


私も当時、30前後で、そのころのことは小説「1989年のアウトポスト」に書いた。

私は、どちらの団体とも全く関係なかったが、同世代的な関心は強く、どちらの本も読んだ。まだネットはなかったが、どちらも盛んに出版活動を通じて布教していた。

今も昔も、私はオカルト否定派で、その意味でどちらの教義もナンセンスとは思ったが、両団体には同時代的な「共感」を覚えたことは言っておかなければならない。

その「共感」を表現しようとして、「1989年のアウトポスト」を書いたのである。


「幸福」という言葉が、1980年代に持っていた「新しさ」が、今ではわからないかもしれない。

「幸福の科学」という言葉を聞いた時、「うまい!」と思ったものだ。時代の欲しているものを、的確に表現した「名コピー」だった。90年代初めには、「人間を幸福にしない日本というシステム」という本もベストセラーになる。「幸福」という言葉に新鮮味があり、アピールする時代だった。

1970年代のオイルショックで、戦後の高度成長が終わったという社会心理が生まれる。それが、「ムー」創刊に象徴されるオカルトの流行と、「心の豊かさ」ブームを起こす。

1980年代に入ると、バブル期で経済格差意識が強まるとともに、モノやカネで得られない「幸福」を求める気分を強めた。

当時の若者たちは、70年代、80年代と通じて、「オウム真理教」と「幸福の科学」に吸収される心の準備をしていたとも言える。

それに冷戦の終了が重なり、戦後日本を牽引してきた「大人」たちの倫理は混乱し、権威失墜していた。そこに、若い宗教が入り込む。


幸福の科学とオウム真理教は、どちらも同世代の教祖による、物質主義批判であり、既成仏教批判でもあった。だから、根本的には似ているところがあり、80年代当時は確かに似ていると見えた。

だが、互いに意識し合ううちに、両者は結果的にそうとう違ったものになり、その相似性もいまの時代では見えにくくなった。


幸福の科学の場合、「疑惑の銃弾」三浦和義のモノマネ「フルハム三浦」で直木賞をとった景山民夫 (違ったかな)や、小川知子のような、少し上の世代の信者も獲得できたことが、オウム真理教と多少違ったかもしれない(どちらも1940年代後半生まれの団塊世代)。


「大川隆法主宰先生は、僕が勝手に方便を使ってもっとも一般的に判り易い言い方をすれば、お釈迦様の生まれ変わりの方である。二千六百年前にインドに釈尊として生まれられた方のエネルギー体の本体が、大川先生なのである。」
(景山民夫『私は如何にして幸福の科学の正会員となったか』p191)


だが、いずれも「若い人の宗教」というイメージが私には抜き難く、その意味で、どちらの教祖も若くして亡くなったのは、納得できる。

オウム真理教は消滅したが、幸福の科学は、これからどうなるのだろう。あの時代に若者たちに持ったような魅力を、今も持っているのだろうか。


(あと、大川隆法氏は、ベストセラー作家であり、ヒット映画のプロデューサーでもあったので、出版界と映画興行界は、それなりに大変世話になった。それなりに追悼すべきだと思う。)





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