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LGBTに差別された話

LGBTは一方的に被害者か?


もう私くらいの年寄りになると、差別主義者と言われようがミソジニーと言われようが、痛くもかゆくもないですよ。

というか、私はミソジニー(女嫌い)と呼ばれたい。独身なのはミソジニーだから、という方が、カッコいいじゃないか。単にモテなかっただけなんだけど。

そういえば、自分は同性愛者だったらよかったな、と思うこともあった。

年とって独身だと、同性愛者と思われる方がいいでしょう。単に非モテで独身というのが実態だけど。

異性愛者でも、全然モテなかったら、同性愛者より悲惨ですよ。あ、モテない同性愛者も悲惨か。それでも、同性愛者だから独身、という方が、カッコよくない?


もちろん私にはLGBT含めて差別する意図はないけれど、この頃は、こっちに意図がなくても差別だハラスメントだと言われるから、それなら勝手にしろと言うしかない。


(理解増進法については、G7までに、というのが気に入らん。日本以外のG7の国は全部キリスト教国じゃないか。なぜキリスト教国の価値観に合わせなきゃいかんのか。日本は仏教国だ。仏教も儒教も、キリスト教のような男女の本質的違いを説いていない。神は、男と女の2つの性だけを作った、みたいなことは仏典には書いていない。そして日本の仏教は、自然をありのままに認める日本の民族宗教と習合している。アマテレスも女神と言われるが本当は性別はわからない。神代の昔から性別にこだわっていないのだ。同性愛には寛容で、タイのような仏教国と同じだ。キリスト教国とは違う、となぜ言えない。プンプン)


ここで言いたいのは、以下のようなことです。


LGBTを差別するな、と言われると、モヤっとする。

LGBTの方だって差別してたじゃないか、という気持ちが、ちょっとあるから。

それを書いておきたい。


「イケメン」という言葉を作ったLGBT


見かけだけで人を判断するのは、差別でしょ?

最近ではルッキズムとか言う。フェミがずっと反対しているでしょ?

でも、ルッキズムが広がった責任の一端は、LGBTにある。

「イケメン」という言葉は、私の子供の頃にはなかった。

1980年代、この言葉を広めたのはLGBTです。それはWikipediaなんかにも書いてあると思う。


イケてる、とか、イケてない、という言葉を同性愛者たちが流行らせたとき、私はリアルタイムに「嫌な言葉が流行ったな」と思ったものです。

なぜなら、私は全然イケていない、ブサ面だから。

イケてる、とか、イケてない、とかの言葉を聞くのがつらかった。

はあ生きがたい、生きがたい、と思っていた。

イケメンという言葉を作ったLGBTのせいで、私は生きがたい。

その意味で、私はLGBTに差別されてきたのである。

どうしてくれる。

LGBT理解増進法を作るなら、HDBT(ハゲ・デブ・ブサ・チビ)理解増進法も一緒に作れ、というのは、わりに冗談ではないんですよ。


マイノリティならではの鋭さ


私も若い頃は、おかまバーみたいなところによく飲みにいった。

(老い先短いのに、今さらトランスジェンダーだのしゃらくさい言葉は使わないぞ。カタカナ語ばかりになるじゃないか)

おかまのマスターが面白いのは、評価が率直なことですね。

「あんなブス」とか「ありゃバカだから」とか、美醜含めて、ものごとの基準が明快で、妥協がない。その「口の悪さ」を我々は楽しんでいた。

そういえば、ゲイバーというものの存在を日本人に広めたのは、三島由紀夫の1953年の小説「禁色」だった。

「ゲイバーというアメリカではあたりまえの言葉は、この小説によって知られるようになった。」(猪瀬直樹「ペルソナ」文春文庫版p290)。

銀座のゲイバー、ブランズウィックで、三島は三輪明宏と出会い、当時新進のスター作家の三島が、背が低いことを言われてちょっと傷ついた、みたいな話もあったと思ったけど、記憶が曖昧だ。

ともかく、人々はそんな風に、率直で愉快なゲイやおかまの文化に触れて、楽しんでいた。私はテレビを見ないからよく知らないけど、マツコ・デラックスとかがもてはやされるのも、そういうところでしょう。

そういう文化風俗の中から、「イケメン」という言葉も生まれたのだと思う。


これは、よくわかるんですよ。

伊集院光さんが昔ラジオで言っていたけど、「ブサイクなほど美醜に厳しくなる」ということがある。

伊集院さんは、元アイドルの奥さんがいるけど、自分はブサ面だという自認がある。

自分はモテない、という前提があると、逆に、異性への評価に妥協がなくなる。容姿について感覚が研ぎ澄まされていく、ということがあるんですね。

それこそ、自分の理想より1ミリずれても許せない、みたいになる。

どうせ恋愛は空想の世界で、韓流ドラマのようなことが自分の人生で起こらないのはわかっているから、逆にシチュエーションが理想化されていく。

私自身がブサだから、そういう感覚がわかる。

モテるやつほど、性的対象の美醜にそれほどこだわらない(だから、さらにモテる。悔しい)。

モテない同志には、この感覚、わかってもらえると思うんですけどね。


で、同じ感覚は、少数者としてのLGBTにもあったと思うんです。

その感覚の延長上に、おかまのマスターの感覚も理解でき、その毒舌を楽しめた。

差別されてる同志の共感というか。

マイノリティならでは感性ですね。


マイノリティの喜び


言い古されていることだけど、同性愛者を意味する「ゲイ」には、「変わり者」という意味と、「陽気で楽しい者」という意味が重なっている。

少数者の特権というものがあり、マイノリティだから許される生き方がある。

そこから、独自の文化も生まれる。

前にも書いたけど、スーザン・ソンタグが広めた「キャンピー」という概念は、同時代にはよくわからなかったけど、振り返れば非常に重要なLGBT文化でした。

campyは、ウェブスター英語辞書によると、

「馬鹿馬鹿しいほど大げさで、わざとらしく、冗談めかした(absurdly exaggerated, artificial, or affected in a usually humorous)」

という意味だけど、日本語でいえば、「オカマっぽい」がいちばんハマる。ドラッグクイーンみたいなのが象徴ですね。

キャンピー文化によって、LGBTだけが、たとえばABBAを評価した。

ABBAの音楽が同時代にバカにされていたのはビヨルンも言っていたけど、LGBTはABBAが大好きだった。今振り返れば、LGBTの評価が正当だった。

ABBAの音楽を評価したように、楽しいものを楽しいと率直に評価できるのが「ゲイ」文化のいいところですね。

カッコいいものをカッコいいと率直に評価するから「イケメン」の言葉が生まれる。

そしてそれは、LGBTだけの感覚ではなく、本当はすべての人に共通だけど、多数派が抑圧しているような感覚なんですね。LGBTは、その感覚を解放してくれる。

だから、私も、イケメンという言葉に傷つきつつも、その感覚の正直さにはカブトを脱ぐしかない。


これからもマイノリティのノリで


んー。何が言いたいのか、わからなくなったな。

差別される少数派は、悪いことばかりのように言われるけど、いいことだってある。

ってことかな?

LGBTだって、差別される一方で、自分たちが多数派を差別したり、相対化したりする自由があったわけで、それは一つの文化として許容されていた。

ということかな。

だから差別は正当化できる、と言いたいのかと言われれば、そんなこと言っていない。

まあ、私の LGBT体験は貧しく、ステレオタイプでしか考えていないと言われれば、そうかもしれない。

でも、LGBTの人と広く深く付き合おうとして、危険を感じたこともあったのでね。LGBTの人に、もっとパーソナルな部分で傷つけられた、ということもあった。それはここでは書かないけれど。

要するに、HDBTとしては、LGBTとは、差別したり、差別されたり、という相互的で、ある意味平等な関係がある。


いちばん言いたいことは、

LGBTが被差別者として、法的に「理解増進」される対象になっちゃうと、逆に、LGBTの側の差別、毒舌、campy文化が、萎縮しないかな。

という心配ですね。

おかまバーがLGBTバーになって、楽しめるのか、とか。

LGBTならではの部分が、出しにくくならないか。

いくら理解が増進しても、LGBTが性の多数派になることはないでしょう。我々HDBT(ハゲ・デブ・ブサ・チビ)の非モテが美の多数派になれないのと同様に。

だから、私のようなHDBTとしては、LGBTと、いつまでもマイノリティとしての共感で結ばれていたい、と思うんですね。









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