「新聞記者」のモラルに期待するな 東京・望月記者問題
東京新聞・望月記者と、森友問題で自殺した財務局職員の遺族との間で、トラブルが続いている。
それで、「望月記者に失望した」「東京新聞こそ説明責任を果たせ」といった声がSNSに殺到していた。
しかし、これは望月記者が気の毒だ。新聞記者のモラルから言えば、連絡を取らなくなるだの、資料を返さないだのは、よくあることで、大したことではない。
悪いといえば、新聞記者全体が悪いのであり、望月氏だけが悪いのではない。
望月記者自身が「新聞記者は清く正しい」というイメージを広げすぎた。その報いとは言えるだろう。
私はこの件で、鳥越俊太郎氏を思い出した。
鳥越氏は、宇野宗佑首相の愛人スキャンダルを暴き、有名になった。およそ30年前のことだ。
しかしその後、ネタ元の愛人から、「その後、連絡もしてこない。私は利用された」と告発されていた。今回のケースと似ている。
功名心に駆られた記者が狙うのは「大物のクビ」である。それは、戦国時代の武士と同じだ。それで、一気に出世できるのだ。社会正義とか、そういうのは、言い訳にすぎない。
その功名心は、結果として悲劇も起こす。鳥越氏の功名は、後輩の野心を刺激し、やがてオウム真理教事件の「藪をつつく」ことにつながるーーというのは、小説「1989年のアウトポスト」で書いた。
そもそも、新聞記者の仕事は「きれい」なものではない。
スクープがどのように生まれるか。
役所に忍び込み、会話を盗み聞く。書類を盗む。職員に守秘義務違反をそそのかす。飲ませて吐かせる、などなど。
そういう「汚い」手でしか、通常スクープは手に入らない。
「汚い」手の象徴は、毎日新聞の西山事件だが、新聞業界は実は、あれをよくないことと思っていない。それは最近ブログに書いた。
だから、新聞記者自身は、記者の仕事に幻想を持っていない。
手段は汚いが、それで、通常は手を出せないような強大な権力を「監視」している、という共同幻想により、自らに存在理由を与えている。
しかし、新聞記者は世の中をよくしているか?
宇野愛人スキャンダルや森友で、世の中がよくなったのか?
世の中はよくならない。
新聞記者が有名になっただけである。はっきりしているではないか。
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