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「売れない本」は正当化できない

書評家・豊崎由美氏が、

「売れる本がエライのか」

的な発言をして炎上し、出版のプロも加わって論争になっている。

豊崎氏に批判的な人は、

「売れる本があるから、売れない本も出せる」

と反論した。

また豊崎氏に同意する人の中に、

「売れない本でも『いい本』を出すのが出版文化だ」

と言う人がいた。

私は、どちらの側の言い分にも、驚いている。

豊崎氏を批判する側にも、弁護する側にも、

「売れない本を出してもいい」

と、当然のごとく考えている出版人がいまだに多いらしい。そのことに対してだ。

私は出版人として、この

「売れない本を出してもいい」

という考えと、大げさにいえば、現役の全期間かけて戦ってきた。

豊崎論争の本筋とはズレるが、私の意見を書いておきたい。

この「売れない本も出していい」は、粗雑な言い方で、本当に出版人が言いたいことは、

「売れるか売れないかわからないが、出してみたい本がある」

ということだと思う。

ほとんどの新人の本がそうだし、世論に逆らうような挑戦的な本がそうだ。

そうした本を出すことに出版文化の意味があり、誇りもあるーー。

それは同意するし、実際、昔から多くの出版人がそう考えてこの生業を続けてきた。

しかし、それと「売れない本も出していい」は、同じではないのだ。

まず第一に、この

「売れるかどうかわからないが、出したい」

という考えも、事実において、20世紀の半ばには、もうすんなりとは通らなくなっていた。

これは1970年代のいわゆる「ブロックバスター時代(大ベストセラー時代)」にアメリカで議論になったことだが、市場での競争の激化や、マーケティング技術の向上によってビジネス慣行が変わり、「売れるか売れないかわからない」では、社内で企画が通らなくなった。

昔は、1冊ベストセラーを出せば、1冊売れない本を出せる、みたいなバランス感覚があったが、出版業が大きくなるにつれて、ビジネス的に許されなくなったのだ。

「売れない本を出す」意思決定は、家内工業なら許されても、株主がもの言う企業では許さない。みすみす利益を減らす行為だからだ。

それに、売れ行きが不安な本にも、「売れる」工夫がいろいろとできるようになった。それらを可能な限りほどこすことも求められるようになった。

そのこととは別に、「売れない本が出版文化を支えている」という考えは、事実に反している。

現に今、売れない本が多いから、書店がバタバタと倒れ、出版社も減っている。

「本」は文化遺産となって残る、という考えが、この時代にまだあるのも驚きだ。

われわれは昔の本をそんなに大事にしているだろうか。みんなは昔の本をそんなに読んでいますか?

日本の江戸時代は出版文化が盛んで、非常に多くの版元があり、無数の「本」が出版されたが、それらを今の人々は読んでいるだろうか?

実際には、そうした活版印刷以前の本は今読まれることもなく、保存もされていない。和綴じ本など見たことない人がほとんどではないか。私も時々民俗博物館などで見る程度だ。

江戸時代どころか、昭和期でも戦前の本は原則、図書館でも読まれていないはずだ。

私個人としては、1970年代以前の本は、もう読むのが厳しい。

本は「文化遺産」として長く残る、などは嘘なのだ。

「いやしかし、そうした長い出版の伝統があったからこそ、『源氏物語』も『東海道中膝栗毛』も繰り返し出版され、筆写されることで、いまの時代に伝わったのではないか」

「戦前の古い作品だって、一度出版されたからこそ、いま文庫などの形で読めるのではないか」

そう反論されるだろう。

それはその通りだ。そして、それが私の次の論点でもある。

なぜそれらの作品が残ったかというと、それらが「売れた」からなのだ。

「売れた」から繰り返し出版される。つまり、文化遺産として残るのは、出版物一般ではなく、「売れた」出版物なのである。

いや、その時は売れなくても、のちの世に評価される作品もある、と言うかもしれない。

原稿の持ち込みで、

「私の作品は今は理解されないかもしれないが、本に残せば、のちの世の人が評価してくれるかもしれません」

と言う人がいる。

「そうかもしれませんが、いまの世の人に理解されるものしか、私どもは出せません」

と言って断るが、内心は「いま評価されず、のちの世の人が評価してくれる本なんてないよ」と思っている。

同時代に理解されない天才がいる、という話は好まれるが、ほとんどは「神話」であることを知っている人は多いだろう。

いま名前が残っている人は、当時のベストセラー作家たちばかりである。

もし、「私の考えは進みすぎていて、いまの人には受け入れられない」という人がいれば、どうすれば受け入れられるようになるか、考えるのはその人の責任だ。イエス・キリストだって、デカルトだって、そういうことを考えたと思う。だから同時代に広まって、のちの世に残ったのだ。

では、売れれば名作なのか、「売れればエライ」のか、と言えば、それも違う。

売れたものの中から、長い年月をかけて、さらに厳選される。文学でも、音楽でも、そうであろう。一時は売れたが、すぐに忘れられる作品は無数にある。のちに明確に価値が否定されるものもある。しかし、まず同時代に売れなければ、選択の候補にも入れない。

同時代人の鑑識眼を過小評価してはいけない。人は、「名作」を見抜くものだ。平安時代の日本人は「源氏物語」の価値を見抜いたし、17世紀のヨーロッパ人はスピノザの価値を見抜いた。権力がそれを読めと強制したわけではない。「売れる」ことをバカにしてはいけないのだ。

権力者や、権威ある批評家より、民衆の趣味の方がよほど正しかったことは、歴史で繰り返し証明されている。「天才は同時代に認められない」とは、実は当時の権威者に認められなかっただけで、社会的には認められていたことが多い。

(例えば、シューベルトの音楽は同時代で認められなかったと言われるが、最近になって明らかになりつつあるように、中央の楽壇では認められなかったが、注文があったからこそたくさんの作品を残したのであり、つまり一般には売れていたのである)

(書評家の仕事は、のちの世に残したい本をいま売れるようにするために行われるものだと思っていたので、「売れたらエライのか」的な発言は、私は違うと思う)

何が言いたいかというとーー

だから、「売れる」ことを目的に本を出すことは、文化を守るという意味でも、正しいということだ。

もっと根本的な意味で、つまり「出版」の哲学からして、「売れる」ことは正しいと私は思っている。

もともとpublishとは、ある個人なりグループなりの考えを、「公共」のものにする、という意味だ。

公共のものにする必要のない、特殊なもの、趣味的なものは、本来の意味の出版にはそぐわない。

著者も、「私の考えをできるだけ世に広めたい」と思って、原稿を出版社に持ち込む(版権を預ける)はずだ。

いくら出版がビジネスとして洗練されても、例えば「少部数でも、利益が大きければ、それでいい」という考え方には、私は反対だ。

「出版」という行為の、その本来的意味として、「なるべく大部数で広める」という目的があると思う。

「あなたの本は売れないかもしれなけど、価値があるから出します」

というのは、著者や本に対する裏切りであり、出版の本義に反していると思う。

「あなたの本は価値があるから、死ぬほど努力して売ります」

が正しい。

しかし、「本の価値」とは、どこで生まれるのか?

市場での「価値」があらかじめわからないところに、出版というビジネスの特殊性がある。

それは、人々の生活にどうしても必要かと言えばそうではない。電気やガス料金、不動産や食品のようではない。マーケティング調査であらかじめ需要がわかるものでもない。

出版物の価値は、出してみないとわからない。

結局そこに、このビジネスの難しさがある。

しかし、だから「売れない本も出していい」とはならない。

結果として「売れない本」が生まれるだけだ。


だから私は、出版界で管理職の時、

「売れなくてもいい」

という姿勢はもちろん認めなかったし、

「売れるか売れないかわからない」

という文言を部下に許さなかった。売れる根拠と、売る手段があることをあくまで求めた。

しかし、結果において売れなかったとしても、それで部下を責めたことはない。

あの見城さんだって売れない本をたくさん出しているよ、と言って慰めた。

本は売れないかもしれないが、「売れなくてもいい」わけではない、とは、そういうことだ。

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