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近代日本「左翼」史 3

カール・マルクスは明治の初めまで生きていた。

彼が亡くなるのは1883(明治16)年だが、そのこととは直接関係なく、日本で社会主義が紹介され始めたのは、その頃である。

1882(明治15)年に「朝野新聞」に載った城多虎雄「論欧社会党」が最初の例とされる。

一般には、1887(明治20)年に徳富蘇峰が創刊した雑誌「国民之友」での紹介で広まった、とされる。

しかし、もちろんその前に、一連の士族の乱や、自由民権運動の盛り上がりなどの反政府、反権力運動があった。

復古主義的であった不平士族の乱はともかく、中江兆民らによるルソーや「フランス革命」の紹介を背景にした自由民権運動は、反君主制や共和主義思想をもはらんだ近代的政治活動だった。

その自由民権運動は、1889(明治22)年の大日本帝国憲法発布までに衰え、それと入れ替わるように「社会主義」思想が広まっていく。

それを分かりやすく示すのが、中江兆民と幸徳秋水の「主役交代」だ。

自由民権運動の理論的指導者であった中江兆民は、自由党の結成にかかわったあと、1887(明治20)年に発布された保安条例で追放処分となる。

ちょうどその年(兆民が追放される直前)、高知から上京してきた幸徳秋水は、同郷の兆民の家に転がり込んで門弟となる。

兆民は日本帝国憲法下で初の選挙に出馬して衆議院議員になるが、2年で辞職し、小樽に渡って実業家に転身する。

兆民のその後はぱっとせず、1901(明治34)年に亡くなる。その年、秋水は社会民主党を創設、代表作「廿世紀之怪物帝国主義」を刊行し、社会主義者として歴史の表舞台に躍り出る。

今日、「自由民権運動理論家」とされる兆民と、「社会主義理論家」とされる秋水は、このように歴史の「主役交代」を分かりやすく演じている。

だが、その「表舞台」の変化の底に、どのような時代や民心の変化があったのか。

この、自由民権運動から社会主義運動への流れが、歴史の教科書などでうまく書かれておらず、わかりにくい部分だと思う。

しかし、そこがわからないと、日本近代の「左翼」史を始められない。

兆民や秋水などの「出世した」歴史上の人物ではわからない、自由民権から社会主義への変遷の消息を、ある程度示してくれる存在として、奥宮健之(おくのみや・けんし、1867ー1911)がいる。

彼は、兆民に刺激されて自由民権運動家として活躍した後、大逆事件に連座して秋水らと共に死刑になった人である。

彼は、自由民権家なのか、それとも社会主義者なのか。

(続く)



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