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書くことは、植物を育てるようなものだ

書くということは、植物を育てることに似ている気がする。

何もないまっさらな紙に、何かを書くとしよう。内容はなんでもいい。

最近の出来事、感情、考え、やりたいこと、メモ、いろいろ。

書き始めてみるとわかると思うが、書きながら全然違うトピックが頭に浮かんできたりする。現に、僕はこの記事を書きながら昨日観た映画『オッペンハイマー』のシーンを回想していたりする。人間の脳とはすごいものだ。自然に思考という作業のかたわら、違う思考という作業を始めてしまうのである。なんとマルチであろうか。

メモやなんでもない一文が種まきだとしたら、そこから派生させて書いて生まれたものは、植物の芽である。読み返すと、不思議とまたいろんな思考が巡り始め、のびていく。トピックに関係することもあるし、そうでないこともある。そう、植物の芽がのびて四方八方に葉っぱや枝をのばすように、書くことによってまた違う思考が生まれ、結果的にまたそれが書くことにつながる。

そういう意味で、書くことは「植物を育てること」と似ている。

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その植物の成長を支えるのは、水や肥料や日光であろう。これらは書くことでいうところの「インプット」に置き換えてもいいかもしれない。

毎日の読書は、水やりに似ている。
人の話を聞くことは、肥料に似ている。
時々雲隠れする日光は、経験に似ている。

これらがあるから、植物は育つ。インプットというお世話を通じて、書くことが増えていく。内容はきっと多岐にわたっていくのであろう。真面目なこともあれば、殴り書きのようなものまで、どれも書いた人の一部である。

だから、とりあえず書いてみることで種をまいて、「思考の芽」を出してみたらいいと思う。そうすると、どんどん書いてみたいことが出てくるものだ。なかなか伸びない時は、きっと水や肥料や日光のバランスが崩れているのだろう。

いろんな育て方をしてみていいと思う。

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それでは、植物を育てた先にある花や果物は、一体なんであろうか。

これらは僕が考えるに「新たな発見」や「新たな価値観」であると思う。

テーブルにリンゴがあったとしよう。あなたは正面からそのリンゴを眺めている。いつも見るリンゴだが、例えばこれを上からみたとしよう。そうすると、全く違う形に見えるはずである。

世界や社会にはさまざまな側面から考えなくてはわからなかったり見えなかったりすることが、たくさんある。むしろ、そのような多様な視点を持たなくては、これからの会社や社会の問題を解決できないのではないだろうか。近年、教育業界では「生きる力」という言葉が使われているが、その「多様な視点を持って考える」ということも、れっきとした「生きる力」の一つである。

書いて育てた思考の先には、そんな花や果実が待っていると思う。

その発見や価値観を他の人に落とすことによって、今度は別の人たちの芽がひょっこりと頭を出すだろう。

書き、学び、共有する。

このサイクルが、僕はより良い世界を作るためには欠かせないと考える。
そして、そのサイクルの起点になるものが「書く」ということなのではないだろうか。

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ゆっくりでいいから、その「思考」という植物を育てていけばいいと思う。一気に育つときもあれば、なんだかぐったりとして元気がないときもある。人間なのだからそんなものだし、そのアップダウンサイクルで回っている。だから焦らずじっくり、書いて自分の思考を育てるのがいいと僕は考える。

別に書かなくてもいいのだ。書かなくても、豊かな人生は送ることができる。でも、書くことによって加わる豊かさもあることを、僕は知っている。新たな発見や、新たな価値観、そこから生まれる新たな人間関係や、その他もろもろ。

だから僕は今日もこうして、僕の植物に水をやる。

2024.04.19
書きかけの手帖

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