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パレスチナの孫パワー:Tarek Bakriさん

もし、生まれ故郷を追い出されて死ぬまでに帰ることが許されなかったら――?
今日ご紹介するのは8年前からあるプロジェクトを続けているパレスチナのTarek Bakriさん(カバー写真右)です。そのプロジェクトの名前は"We Were and Still Are"。邦訳すると「私たちはここに存在していた。そして今もここにいる」。1948年のイスラエル建国前後に様々な理由で住んでいた場所を追い出された/逃げざるを得なかったパレスチナの人たちと、その存在を無かったことにしたい(難民問題を帳消しにしたい)イスラエルの思惑。そもそも19世紀末に欧州やロシアからパレスチナにユダヤ人が入植してきた段階から、すでに「民なき土地に、土地なき民を」がスローガンだったこと。そうした状況に対して、一度も故郷の土を踏んだことが無い若者や、追い出された村を一目見たい老齢の人たちをガイドし、出身の場所に案内しているのがこのTarekさんなのです(1948年の出来事を巡ってはこちらの記事を参照)。

Tarekさんはエンジニアで研究者ですが、隣国ヨルダンの大学に在学中、周りのパレスチナ人が一度もパレスチナに行ったことがないことを知り、こうした活動を始めました。理由として彼らはパレスチナに行く許可をイスラエルから得ることができず、幸運にも特別な居住許可を持っているTarekさんは自由に往来が出来たからです。まず彼は1948年より昔の写真を集め、現在の同じ場所・同じアングルの写真を撮って比較するプロジェクトに着手し、写真を撮って来ては直接訪れることが叶わない彼らに様子を伝えました。その後プロジェクトは大きくなり、映像記録やドキュメンタリーの製作にも精力的に取り組んでいきます(昨年に出た映画の予告編はこちら。でもアラビア語!(泣))。

彼の取り組みは彼自身がウェブサイトやYou-Tubeで字幕付きで挙げているので、そのうち印象的なひとつをご紹介します。

この女性(イブラヒムの母という呼び方で登場します。女性を名指しするときに一般的なやり方です)は、ヤッファという、今ではイスラエルの最もたる観光地の郊外の村出身です。1948年5月15日、彼女の村ファッジャはイスラエルの過激部隊によって襲われ、家族と彼女はクウェートに逃げました。当時人口は1392人、324の家が建っていましたが、襲撃の後はイスラエル人のコミュニティが形成されて住宅地となり、現在かつての面影を残すのは3つの墓と古い家がひとつだけです。5分ほどの短い動画ですが、彼女がオレンジを持って帰るシーンは象徴的です。なぜならヤッファは、1948年以前オレンジの産地として有名だったから。そのオレンジすらも、果樹園もろともイスラエルの文化・イスラエルの産業として奪われ、パレスチナの人にとってより強い感情を抱かせるものになっています(ヤッファオレンジを切り口にしたドキュメンタリー映画の記事はこちら)。

ちなみにカバー写真で女性が身に着けているのはソーブと呼ばれる伝統衣装。今では占領の影響と現代化であまり着られなくなりました。手作りとなるともっと貴重です(伝統衣装についてはこちらを参照)。

Tarekさんのこうした活動がどれほどこの世代のパレスチナ人を勇気づけているか、動画ひとつ見るだけでも想像することが出来ました。血の繋がりは関係なく、世界各地に住むパレスチナのおばあさん、おじいさんにとっての期待のお孫さんなのではないでしょうか。

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架け箸はこれからも継続的にパレスチナを訪れ、日本に出回らない生の情報を発信したいと思っています。いただいたサポートは渡航費用や現地経費に当てさせていただきます。