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詩の形式と違和感 ~創作の苦悩~

 詩作している人間にとって、ついて回る感覚があると思います。

 それは作品に対する「これで良いのかという疑問」でしょう。

 かく言う僕も、詩作する度に悩み、創作の苦しみを味わっています。もちろん、書き上げた後の喜びが勝っているので書き続ける訳ですが、それにしても、その感覚を探るために苦慮しています。詩を書くこと自体は誰にでも出来ますが、詩の世界に深く踏み込みたいと思った時に、その違和感が立ち込めてきました。

詩の形式

 詩の形式には「定型詩」「自由詩」「散文詩」があります。これは詩を書く人であれば知っていると思います。

定型詩:一定のリズムで文を区切り、韻律を持たせた詩。
自由詩:作者独自のリズムで文を区切った詩。
散文詩:連続する文章として書き上げた詩。

 「定型詩」は主に俳句や短歌といった、五七五あるいは五七五七七の決まりがある詩が該当します。一方で、より自由に表現する手法として用いられるのが「自由詩」「散文詩」で、現代詩はこれに該当します。
 noteのなかでも「散文詩が得意なんだな」と思うひとがいれば、「自由詩が得意なんだな」と思うひとも見かけます。僕はもっぱら「自由詩」を書きます。

自由詩の音楽性

 なぜ僕は「自由詩」を書くのかと言えば、それはリズムを持たせることができるからです。僕は詩の魅力は「リズム」だと思っています。俳句や短歌に馴染んだ七五調や、それに"近い"あるいは"延長線上"にあるリズムで文章が区切られると、僕は心地良さを感じます。例えば『汚れっちまった悲しみに』はその典型でしょう。作者は言わずもがなです。
 先に書いたように「作者独自のリズムで文を区切る」ということは、少なくとも作者が心地良いと思えるリズムを作り出して、それを誰かに共有することができます。ヘッセは「詩は音楽にならなかった言葉であり、音楽は言葉にならなかった詩である。」と言ったそうですが、詩と音楽は近い所にあるので、歌詞ではない「詩」にこそリズムが必要だと思っています。なので、僕は詩の「リズム」を模索するように詩作を続けていきたいのです。

散文詩の文学性

 一方で、散文詩の魅力は「文学性」だと思います。小説よりも少し難解な比喩表現や言い回しが使われたりして、芸術として磨かれた文学という印象です。僕はあまり散文詩の心得はないので、多くを語ることは出来ないのですが、散文のなかにもリズムを持たせることは出来るので、今後は散文詩も書いてみたいと思っています。それには多くの散文詩を読む必要がありますね。せっかくなので、noteのなかでも探してみたいところです。

詩作の違和感とは

 これが本題ですが、詩作する人間が感じる違和感とは何なのか、ということです。それは、詩には形式が有るようで無いということだと感じています。例えば、俳句や短歌には五七五あるいは五七五七七、季語のような、伝統的なルールがあるので、最低限それを満たしていれば句や歌と言えます。しかし、詩に関しては「自由詩」「散文詩」といった形式があるものの、「非定型」である以上は、実質形式は無いということが言えます。つまり「自由に書いて良いよ」言われて書いたものの、形式が無いので作品の価値が分からなくなってしまう、ということだと思います。詩人としての実績がある人であれば、そう悩みはしないのでしょうが、僕のように駆け出しの書き手は悩んで然るべきなのかもしれません。むしろ、自由に書けるということの代償として甘受する他ないのかもしれません。
 詩人の萩原朔太郎はこう言っています。
「無から有を出さうといふことが無理なんだよ。だが、それが詩人の使命だ。絶望ぢゃない。絶望しちゃ困る。」
 確かに、形式すらない状態で書き続けるということは、不安しかありませんが「日本近代詩の父」でさえ、創作の難解さを感じていたと思うと、勇気付けられるような思いがします。
 詩作に行き詰っても、絶望しちゃいけませんね。

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