見解9『おもひでぽろぽろ』は鶴の恩返しだった!(最終回)
前回は
まるでよくあるジブリ映画の都市伝説の様なタイトルですがご安心をw
今回で9回に渡り1991年作品。高畑勲監督のジブリ映画『おもひでぽろぽろ』を紐解いてきましたが今回で最終回。今までのいくつかの疑問が解決するはずです。
まず、本題に入る前にどうしてもお伝えしなくてはいけないこの映画の表現方法があります。
それはいくつかのシーンはことわざにちなんだ表現をしているという事です。
例えば以前お話しした、学校で読書感想文を褒められた事をお母さんに伝えるシーン。話の途中で給食のおなますをパンに挟んでいる事が見つかりお母さんに怒られます。
これは
『人口に膾炙する(じんこうにかいしゃする)』に例えています。
意味は、多くの人々に知れ渡って、もてはやされること。「膾」はなます、「炙」はあぶった肉の事で、この二つは多くの人の口に喜ばれる事からこのことわざが生まれました。
つまり読書感想文で褒められた事を指しています。
次は分数の割り算の答案に対し、吹き絵をやって頭がぼうっとしたと言い訳をするシーン。なぜ、高畑監督は吹き絵を言い訳に選んだかと言いますと、耳を傾けると分かります。
この時、外から豆腐屋さんがラッパを吹く音が聞こえるのです。
『豆腐に鎹(とうふにかすがい)』。
少しも手ごたえや効果がないことのたとえ。「鎹」は、材木をつなぎ止めるためのコの字型の釘のことで、豆腐に鎹を打っても何の効き目もない事を意味します。
つまりタエ子の全く効果のない言い訳の事を指しています。
最後は蔵王の帰り、田園風景を前にしてトシオは手に持っていた車のキーを持ちかえます。
これはご存知の通り
『鍵を握る』です。
ものごとの最も重要な手掛かりをもっていることのたとえです。
この見解の第1話でも話したこの映画のタイトル画面の意味にも繋がるタエ子が持つ疑問、『田舎とは何か?』の答えが『人間と自然の共同作業』という答えをトシオから教えてもらいます。トシオが鍵を握っていた訳です。
そしてこれから説明する最後のことわざが、この『おもひでぽろぽろ 』最大の秘密を説く鍵になるのです。
では紐解いていきましょう!
ラストのタエ子が引き返すシーン。
実は元々は引き返さずに日常に戻って終わると言う描写だったのが、
鈴木敏夫氏のもう少し視聴者にサービスが欲しいという意見を考慮してラストシーンを変更したそうです。
実際交際しましたとも、結婚しましたとも言ってませんし、より前向きになったエンディングにはなりましたが基本的には同じ終わり方に見えます。
この話をベースにこの『おもひでぽろぽろ』に隠された秘密を暴いていきたいと思います。
1966年の映画、音楽、テレビ番組、ギャグなどリアリティーを貫いている今作品ですが1つだけ1966年らしくないリアリティーに欠いた物が登場します。
高畑作品は最初に大事な事をよく言いますがこの作品でも同様でした。序盤に出てくるこのシーンです。
『ねぇねぇどっか連れてって』
『映画に連れてってあげるわよ、「つるのおんがえし」やってるんでしょ?』
この映画『つるのおんがえし』だけは実際にやった形跡がありません。
『つるのおんがえし』とは
「翁が罠にかかった鶴を助け、その鶴が人間の女性に姿を変えて翁とその妻に恩を返す」という山形県の民話です。
見てはいけない禁止が課せられていたにも拘わらず、それを破ってしまった為に悲劇的な結果が訪れる。
古今東西に広く見られる「見るなのタブー」をモチーフにした物語です。
つまり高畑監督は映画の最初に
「今回、これやります!つるのおんがえしやります!」と言っているのです。
この映画を観た人は始めに
『映画に連れてってあげるわよ、「つるのおんがえし」やってるんでしょ?』
と言われるわけです。
これらを決定付けるシーンがあります。
『村の子1』のエピソードで
『大人の芝居に出るの?あんなへたっぴいな みんなとじゃなく大人と一緒に出られる!』とタエ子が言っています。
この時流れている曲はひょっこりひょうたん島の
『コケコケコケコケコケコッコー』。
「コケッコソング」です。
コケッコソング ひょうたん島
こんなことわざがあります。
『鶏群の一鶴(けいぐんのいっかく)』
ニワトリの群れの中に一羽の鶴がいる。
意味は
多くの凡人の中に、一人だけ抜きん出てすぐれた人がまじっている事のたとえです。
みんなをさげすんで見てしまってニワトリだといい、自分はその鶴だと言っています。
シチュエーションバッチリです。
ちなみにもう一度写真を見るとツネコ達(ニワトリ達)が指差す先には鶴の群れの様なノレンがあります。
つまりこういう事です。
昔々、それはそれは田舎に憧れた小学5年生のおなごがいたそうな。
来る日も来る日も田舎が欲しいと願っていたが、
そのおなごはなかなか田舎を手にする事はできませんでした。
しかし、そのおなごは姉の結婚によって欲しくて欲しくてたまらなかった田舎を、やっと手にすることができました。
しばらくすると都会から田舎に一人の大人の女がやって来て、
農作業を手伝うようになりました。
田舎の人達はそれを大変喜びましたが、
決して開けてはいけないその女の心の襖(ふすま)を開けてしまい、
別れを惜しまれながら大人の女は都会へと帰って行きましたとさ 。
というお話。
実際、本家はそんなに喜んでないかもですが(笑)
というのも引き返してタエ子が本家に電話をした時の女性陣はそれはそれは喜んでいましたが、
男性陣はトシオとカズオ2人で機械をいじっています。
明らかにトシオとタエ子、本家の男性陣と女性陣に温度差を作っています。
映画の冒頭で
『山形の田舎へ行くんだって? 岡島君』『 失恋でもしたの? 』と上司が言いますが、今も昔もこれは立派なセクハラです。
これをさらりと交わすタエ子が印象的でした。
また行きのあけぼの号の車中では
『仕事でも遊びでも私たちは男の子たちより明るく元気がよかった』とタエ子は言っています。
蔵王では『タエ子さん なして結婚しないんですか』『えっ あ… 結婚しないとおかしい?』
『あ いやあ そんなこどないけど…』『今は仕事をする女性が増えてるでしょ。私の友だちでも結婚してない人の方が多いくらいよ』『ああ そっか』
『うん そうよ』
『んだべな』『うん そうよ』
『そうか』
『そうよ それがあたりまえ』
『ふーん…』
これらでも分かる様にタエ子の『女の子はこうあるべき』といった様な、ジェンダー的視点を高畑監督が強く意識している事が分かります。
生理の話もそうですが女の子の方が先に心体ともに早く大人になっていく、つまり女子の方が大人なのだと言う事です。
生理のエピソードは正にそうで、男子生徒をとても幼稚に描いています。
思い出の顔にはほうれい線が無く現在の描写にはある。
皮膚の下には筋肉がある。
つまり何度か話した表面的な思考と内面的な思考の話です。
タエ子の場合このジェンダー的な視点が表面的な思考となります。
トシオとの最後の夜、車中で
『私、子供の頃からそんなだったの。ただ 良い子ぶってただけ、今もそう』
と言っていますがこの『良い子ぶる』もタエ子の表面でナナ子姉さんが言う『ルンルン気分』がタエ子の内側なのです。そしてそれが今も変わっていないですし本人も言っています。
そこをおばあちゃんに見事に突っつかれてしまい、居た堪れなくなってしまった訳です。
このトシオとタエ子がどうなるかは見た目は上手く行きそうに見えますが、
こういった内側の要素を集めるとやはり茨の道であることは間違いありません。
話を戻しますが実はおばあちゃんがタエ子の心の襖を開けるシーンでも、
ひょっこりひょうたん島の『コッケッコソング』ではなく、ニワトリの鳴き声が小さな音で聞こえます。
やはりここでも
『鶏群の一鶴(けいぐんのいっかく)』の鶴だと言っています。
つまり、
「おもいでぽろぽろ」とは、
現代版、山形民話
「鶴の恩返し」だったのです。
鈴木氏の意見を考慮した事により、タエ子が引き返してしまう形にはなりましたが、
結果、より複雑で素敵なエンディングになったところが鈴木氏と高畑監督の本当に凄いところですね。
この映画の舞台が山形県である理由もわかりましたし、
タエ子ヅルの気持ちを野鳥達が代弁していた理由もこれでわかりました!
タエ子の洋服も鶴カラーでしたね。(鶴カラーのスカート、ジャンバー、ストッキング&パイナップル風マフラーのコーデ)
夏休みの大野屋に着くシーンで近江俊郎の「湯の町エレジー」が流れますが
歌詞が「ああ 初恋の 君を尋ねて今宵また ギター弾く旅の鳥」
自分を「旅の鳥」と表現しているのもここにかかっています。
湯の町エレジー 近江俊郎
こんな映画を、91年にやっていた高畑監督。
まさに鬼才です。
最後になりますがこういうひとつひとつがパズルの様に組み重なって行く。高畑監督は至る所でパズルのヒントを与えてくれています。
ここに書いた事は高畑監督が用意したピースの半分くらいかもしれません。まだ見つからないピースは必ずあると思っています。
実際、いまだに解らない事がいくつかあるのも事実です。
高畑勲は無駄なものを描かない監督だと思うのでを必ず何か意味があると思います。
そういった隠されたピースを探してみてはいかがでしょうか。
最後まで読んでいただき本当にありがとうございました!
Kakan
この見解のマガジン(全9話)はこちらで!
よろしければサポートよろしくお願いいたします! いただいたサポートはクリエイターとしての活動費として使わさせていただきます!