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「醤油ペロペロ」を咎める大人が居なくなったから「バカッター」が増えたのか?:承認と資本主義の疎外

こんな議論をツイッターで見つけた

この人が一連のツイートを通して言いたいことはこういうことだ。つまり、昭和の「怖い大人」たちが敗戦、高度経済成長からのバブル崩壊という流れの中で居なくなり、その跡を継いだ「歪んだ」価値観を持つバブル世代や団塊ジュニア世代による間違った教育と崩壊したモラルによって今回のよう「醤油ペロペロ」迷惑行為などこ行い、TwitterなどのSNSに投稿する通称「バカッター」という若者たちが生まれたという。

自分に言わせれば、この見方は端的に言えば、家父長的パターナリズムを道徳と勘違いしてしまっている。昭和時代に対するノスタルジーを含んだ詭弁以外の何にでもない。

昭和的な「怖いおじちゃん」に叱られることが「マナー=道徳」であるというのは間違った捉え方である。道徳とは何であるかという非常に難解な問題は置いといて、仮に一部の「大人」による個別行為の判断に基づいてマナーが決まるのだとしたら、それはあまりにもディストピアな世界になるだろう。なぜなら、そのような社会では、当の本人たちの行為が道徳的かを問う人がいない割には、その人たちの主観的価値判断が社会全体の共有価値になる。なので家父長的。「王」や「主人」というような上位の人間に、下位の人間である「平民」「妻」「子」などが従う世界線。主従関係とそこに必然的に内包される支配関係による道徳の姿がまさにこの人がいう過去のモラルな社会である。

もちろん、上の世代の人間にはしっかりとした道徳観念を持つ人間が多かれ少なかれいただろう。でも同じことは私たちの世代にも言えたことである。そういう意味では、性別(この人が指す「昭和的な怖い大人」は男性的に見える)や年齢に基づく上下関係(より踏み込めば主従関係的)のヒエラルキーが維持するモラルの崩壊が「バカッター」誕生理論だとするなら、あまりにも陳腐である。

「醤油ペロペロ」と「バカッター」という現象の背後にはより複雑な背景がある。

先ず着目するべきは、SNS時代における「承認」である。ここ数十年、私たちの社会は過去にないほどに「つながり」溢れる時代を迎えた。人々をテクノロジーで繋ぐSNSは人々の生活の中心に既になっている。朝起きればインスタやTwitterを開き、自分の投稿についたライク数を見て一喜一憂。

自分が撮った写真にライクやコメントがついてなかったら、なんだか世界に取り残されたようなモヤモヤ感、他方自分の投稿がバズったら一気にスポットライトを浴びたような高揚感。SNSで多くの注目を浴びればクラスの人気者。小学生が夢見る職業の上位がユーチューバー。

そんなのが今の若者たちの日々の人生の一環である。そう、SNSを中心に自分価値が判断される人生。

承認というのは人々に不可欠なものであり、承認の欠如は時には死すら超える苦しみを人々に与える。誰かに承認されることは。裏を返せっば自分に自信を持つことであり、自分の人生に「意味」を見出すプロセスである。ある。

「バカッター」は「承認」を歪んだ形で得ようとした人たちそのものである。そして、その歪みを生み出したのがSNSだと自分は思う。「バカッター」たちの行動原理は例えば、いたずらの部類に入る「電車の落書き」や「ピンポンダッシュ」など人の目につかないところで密かにやる行為とは異なる。「バカッター」たちは、堂々と人前でその行為を行う。しかも往々にしてカメラなど、自分の存在と行為の証拠が明確に映像という形で残ることを確信しているところでそれは行われる。

考えてみよう。「ピンポンダッシュ」をする人の動機は何なのか。多くの場合、その行為を行う人は、見えないところから相手が狼狽えているところを見るのを楽しむ。すなわち、ピンポンを押して、逃げる。そこで家主が出てきて、「誰だ!」と叫ぶが誰もいなく、困惑している様子を見て楽しむ。誰かを操っているような快楽感や単純に人の「馬鹿げた」有り様を見ることがその根底にある動機だと自分は思う。

他方、「バカッター」(例えば醤油ペロペロ)行為の動機はなんだろう。自分が思うに、その動機は、自分の行為に注目が行くことによって、自分がなんらかの形で「認められている」と感じる点にある。往々にして、「バカッター」たちは、友達がカメラを構えてゲラゲラと笑う中、さらに行為をエスカレートさせて行く。自分の行為(仮にそれがただの馬鹿げた行為であろうと)に対して目の前の人たちやネット上の不特定多数が驚きや笑いという形で反応を返してくれる。その反応を受け取ることが「バカッター」にとっては行為の動機であるり、快感なのだ。あたかも自分が世界の中心になったような気持ちよさ、承認欲求の充足。

そして、その承認のハードルをどんどん上げているのがまさにSNSである。一方で、多くの「おもしろおかしい」動画がネット上に上がっている為に、より過激な行為を追求しようとする心理が働く。より独創的で、過激な、誰もやりそうにない行為をすることで、自分だけの価値を作り出す。それと同時に、ネットへと日々シフトする社会において、ネットでの評価自体が自分の実生活の承認へとつながる。それ故、ただクラスの男子ノリで友達の前でバカするだけでは飽き足らず、より多くの人に見てもらい「バズる」ことでさらにワンランク上の高揚感を味わおうとする。その行為がどのような社会的・法的な結果を招くかも考えずに。

もう一つの視点として、資本主義に注目してみよう。マルクスは資本主義がもたらす疎外の効果を指摘する。言い換えれば、資本主義における人間疎外は人間を資本家と賃金労働者、労働力という商品という人間とそれを所有する「主人」としての資本家と人間をその本質から遠ざける。人間を人間たらしめるものから追いやる。

そのような人間疎外といういっても良い現象が「バカッター」となんの関係があるのだろう。

資本主義と「バカッター」は大いに関係している。疎外が直接関係しているというよりは、人間疎外がもたらした結果が人と人との間の共感性や他者に対する思いやりなどを不可能なものへと変えてしまった。

私たち人間は他の人間に対して共感したりする。例えば、道端で誰かが怪我していたとしよう、あなたは仮にその人とはなんの関係がなくとも、「痛そう」と思う。その「痛そう」からあなたは助けてあげようと思うだろう。それが親戚という間柄だったらよりいそう強い感情と共感で結ばれている。見知らぬ誰かが亡くなっても「可哀想」程度の感情かもしれないが、親戚のおじさんが亡くなったら悲しいだろう。説明が下手だが言いたいことは大体わかってくれるとありがたい。

しかし、そのような繋がりは「スシロー」という空間消えてしまう。人間と人間同士て感じるはずの共感などが、その間に入る機械などによって見えないモノと化する。スシローではほぼその店にいる人とはつながらない。例えば、スシローで食べる寿司がどのように作られているかなどあなたは見ることもできず、当然ながら誰が作ったのかも知らずに、ベルトコンベアーに乗って運ばれてくる寿司選び食べる。もちろん隣席の人とも話したりしないし、他人を気にすることもないだろう。

寿司をたらふく食べたら、店員呼びお会計をする。ここで初めて人が現れる。しかしここでは店員は人間でありながら、「スシロー」という大きなシステムにおける「店員」という巨大なカラクリ機構の一部品として存在している。そういう意味では、店員との会話は人との会話でありながら、そうではない。それから機械を相手に会計をして、店を去る。

この「スシロー」での食事全てが、ある種の疎外された経験として体験される。ここにおいて、私たちは共感する相手を失う。前にその席に座ってた客も知らなければ、その後に座る客も知らない。口にするお寿司を作った料理人が誰かも知らなければ、そのテーブルを片付ける人も知らない。客は、お金と引き換えに食事をして、出て行くだけ。それが問題なのかもしれない。

マナーを守るとはどういうことか。マナーやモラルというのは多くの場合、他人が存在して初めて成立する。自分の行為が他者の行為を妨げない為、または他人の行為と自分の行為がもたらす結果の調和を保つため。「人にされちゃ嫌なことをしない」と子供の頃によく言われた。

「スシロー」という空間には、目にみえる「他人」がなかなかいない。

「醤油ペロペロ」した人は、例えば、近所にある老夫婦が開いている定食屋さんで、同じことをするのだろうか。

と思ってみたり。



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