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小説・青春恋愛|ナカノ

 1

 俺が中野の妹である中野 怜から、中野から荷物を預かっていると言って呼び出されたのが、ここ中野である。ちなみに俺の名前は中埜。中埜 昌磨(なかの しょうま)という。その俺、中埜が中野で中野の話を聞きながら中野の妹の中野 怜とスズキの洗いを摘んでいる。ここは中野の居酒屋だ。
「そんなわけで、来てもらったんですけど。なんでウチが姉ちゃんのお使いなんか」と口を尖らせる向かいの席に座った中野 怜を見ながら俺、中埜は――と、もうこの辺でナカノナカノ言うのもしつこいのでここまでに登場したナカノを整理しておこう。
 先程、紹介したように俺の名前は中埜 昌磨、28歳独身である。そして目の前にいるのが、中野 怜(なかの れい)、年はたしか俺と同い年の中野より7つ下だったと記憶しているから、多分21歳。この中野 怜に呼び出されやって来たここはJR中央線が走る中野駅のごく近く、個人経営の居酒屋だ。その名も「NAKANO」。あ、またしてもナカノが増えてしまった。
 そこで俺は中野 怜が語る怜の姉、中野 有(なかの ゆう)の話に耳を傾けていた。
 ちなみに余談ではあるがこの姉妹、名前を早く生まれた方から順に並べると、有・怜(ゆうれい)となり、幽霊となる。母親が二人の名を呼ぶ場面などを想像すると「ゆうーれいー、ご飯よー」となり、ひゅうどろどろ、なる怪奇音が聞こえてきそうなものだ。可愛い娘達にそんなカッ飛んだ名前を付けるなんてどんなイカれた親なのだろう、と俺は密かに眉を顰めていた訳なんだけど、先日会った中野姉妹の両親は父母ともに公務員として働く真っ当な大人であり、どちらかと言えば最近、会社を辞めて平日の昼間から家で酒を呑んでは観もしないくせにつけっぱなしのテレビの前でぐずぐずしている無職の俺の方が社会的にはよほどクレイジーと言わざるを得ないのであった。
 まともな社会人であるはずの中野夫婦は、子供の命名に関しては無頓着な方だったのか。それとも姉妹の名前を続けて呼んだり書類などに平仮名で併記する、といった場面も想像できぬイメージ力に欠けるタイプだったのか、それともまさか上質のユーモアのつもりで名付けのか。大いに首を傾げるところである。
 その幽霊姉妹の怜の方が俺の目の前に座っている。半個室のテーブル席は狭く、手を真っ直ぐ伸ばすと中野 怜の顔に掌が届くほどだった。もちろん、触るような無礼な真似はしない。俺は無職だが紳士なので。
 テーブルの中央には、店に到着するや否や、
「なに頼みます」
 と中野 怜からぶっきらぼうに手渡されたメニュー表から俺が選んだスズキの洗いの乗った丸皿がある。
「洗い」の文字が気になり、「洗いとはどんな調理法だったか」と気になったので頼んではみたものの、なんてことはない、冷たい刺身であった。一切れ喰ってみたが、ほのかに磯臭さが感じられるだけで味もあまりしない。最近、どうにも食欲がわかないせいか、その一切れを飲み込むにも魚の死肉が喉にねっとり纏わり付き大変に苦労し、俺は疲れて箸を置いた。テーブルの上にはそのスズキの丸皿の他、通しとして出された切り干し大根の小鉢とビールジョッキが一つずつ、互いの手元に置かれている。
 テーブルを挟んで間近にある中野 怜の顔は、雰囲気こそ異なるが姉・中野 有によく似ていた。そういえば俺が中野 有に出会ったのは今の怜と同じ年頃だったな、と思い出す。先程までは白いマスクで下半分が隠れていたが、マスクが外され現れたその唇が一番、中野 有に似ていると思った。だから俺はしばらくの間、中野 怜の口元に釘付けになった。
 その視線に気付いた中野 怜は嫌そうに顔を背けたが、俺はそれでも中野 怜の薄いピンクに塗られた唇から目を離すことができなかった。見ながら、赤いことの多かった中野 有の唇の形を頭に思い描く。
 中野 怜の唇は引き結ばれたまま動かないが、中野 有が笑った時はどうだったろう。怒った時は、泣いた時は? などと考えずにはいられなかったのだ。
「姉ちゃんがこれ、中埜さんに渡しておいてくれって」
 と言って、視線を落とした中埜 怜のこれまたピンクの爪の先、テーブルに置かれたのは白猫キャラのフィギュアであった。
「井上トロですね」
 俺がそう言うと、中野 怜はその名にピンと来なかったようで、小さく首を傾げた。

 中野 怜と同様、もうその存在を知らない若者も多かろうこの白猫キャラの井上トロとは、ソニー・コンピュータエンタテインメントが発売したゲームソフトのキャラクターである。世に出てきたのは俺と中野が6歳の年のことだ。現在、皆が使っているスマートフォンよりも処理能力が低そうな初代プレステゲームのキャラクターとして登場した井上トロは、頂点数の少ないシンプルなポリゴンで制作されたあざとくも可愛らしいビジュアルと、「トロとの会話が楽しめる」という当時としては画期的だったゲーム性が受け、一躍人気者となった。しかし会話ができると言ったところで、簡単なしりとり遊びや「今日もナカノは元気だったかにゃ?」といった予めプログラムに記録されている定型文が繰り返される、その程度のものだったと級友から聞いたことがある。
 今、「聞いたことがある」と言ったのは、俺はこのゲームで遊んだことがないせいだ。何故なら俺の10歳年上の兄がガチのセガ派だったせいで、一般家庭にスーパーファミコンが普及した頃にスーファミは家に無く、代わりにメガドライブのある家で育った。要は「負け犬ハード追っかけ隊」側の人間なのだ。とは言え、その境遇は俺が選んだものではなく、兄の趣味によるものなので、本当なら俺だって任天堂やソニー・コンピュータエンタテインメントの、ポップなゲームで遊びたかった。
 そんな訳で世の人間が「パラッパラッパー」や「ファイナルファンタジーVII」といった、勝ち組のソニーらしいメジャーなプレステ専用タイトルに夢中だった頃、我が家にあったゲーム機はもちろんセガサターンで、当時6歳だった俺は自分でソフトを買えなかったもんだから兄が買ってきたゲームを借りてやる他なかった。
 のだが、その兄が買ってくるのがよりにもよって「真説・夢見館 扉の奥に誰かが…」「Dの食卓」、終いには「月花霧幻譚 TORICO」などというどうにも暗いアドベンチャーばかり。俺はそんなもので遊んでいたから、井上トロが登場するゲーム「どこでもいっしょ(以下、どこいつ)」の話できゃっきゃっと盛り上がるクラスメイトを横目で見ては、心の中で舌打ちをするような、そういう少年に成長していた。セガのせいである。
 ちなみにその俺が、「どこいつ」と同じようなコンセプトで作られた会話を楽しむコミュニケーションゲームを初体験したのは、「どこいつ」と同年同月に発売された「シーマン 禁断のペット」においてのことだ。ゲーム機はもちろん、セガのドリームキャストことドリキャス。我が根暗の兄は、この「シーマン」で遊ぶために、わざわざドリキャス本体をソフトと同時購入したのだ。
 当時のドリキャスにはそれでもまだ「ソニックアドベンチャー」や「セガラリー2」、「ダイナマイト刑事2」なんて人気タイトルもあったはずなのに、それらをスルーして兄の心を捕えたのは、不細工な人面魚とマイクを使って会話する「シーマン」だった。この「シーマン」、もはやゲームと呼ぶのも憚られるほど尖った内容で、人語を解する人面魚と会話しながら卵から成体に育て上げるというのが一応の目標だったものの、その本質はおっさん(シーマン)とのコミュニケーションにあった。
 しかもこのシーマンが、井上トロのように可愛くもなく、おっさん顔の魚類なのか両生類なのかもよくわからぬ水生クリーチャーであったもんだから、俺は数度プレイしただけで、シーマンがまだ小さいうちにすっかり嫌になってしまった。だってあの幼魚、「うんこうんこー」などと甲高い声を上げながらはしゃいでばかり。ガキはガキの面倒なんか見てらんないのである。
 さらにこのシーマンというゲームは、ドリキャスに内蔵されている時計と連動しており、ゲーム内でも現実と同じように時間が進んでいた。故に、二三日餌をやり忘れるとシーマンは死んでしまうのだ。ゲームなのに。
 そういや井上トロも餌をやらないでいると死んだのだろうか。否、ソニーは決してそんなことしないはずだ。
 それはともかく、購入から三ヶ月ほどの間、兄はこのシーマンに夢中だった。夜な夜な、薄暗い水槽をふわふわ泳ぐ不細工な人面魚が映るテレビに向かい、ボソボソと小さな声で、
「シーマン、こんばんは。シーマン、今日も楽しい?」
 などと呟く兄の姿を見た俺は、本気で「セガのせいで兄ちゃんの頭がおかしくなった!」と絶望したものである。
 そうして俺の中に蓄積されていった日陰者ゆえの怒りや嘆きは、やがて当のセガにではなくソニーへと向かうことになる。日陰者は、己の暗さを傍にいる人気者のせいにしがちなのだ。
 という訳で俺は井上トロを憎んでいた。いや、眩しすぎてまともに見られなかったという方が正確か。
 その、井上トロのフィギュアを、「中野 有(姉)から」と言って差し出されたところで俺は、ぽかん、なのである。なにせ思い入れが全く無い。どころか、かつて中野と井上トロの話をしたことが一度でもあっただろうか? 少し考えたくらいでは思い出せなかった。なので、
「これ、本当に僕にですか?」と疑問の声が出た。
「え、見覚えないんですか?」と中野 怜(妹)。
「はい、まったく。どころか、中野がこんなフィギュア持っていたことも知りませんでした」とは俺、中埜。
「姉ちゃん、これは中埜さんにって言ってたはずなんだけどな。あれ、もしかして間違ったかも」
 言いながら、脇に置いてあった白地に紺のラインの入った帆布のトートバッグを漁り始めた中野 怜は「おっかしぃなぁ」を繰り返しながら、長々とその中身をかき混ぜ始めた。
 なので俺はその間、思い出したくもない中野 有との思い出を振り返えらざるを得なかった。

 2

 この後しばらくの間、中野 怜は登場しないので、ここからは姉・中野 有のことを単に「中野」と呼ぶことにする。というのも俺は長い間、中野 有のことを「中野」と呼んできたので、今更「中野 有」や、ましてや「有」などと呼ぶと、どうにも尻がムズムズするような違和感を覚えるからだ。
 さて、その中野と俺が出会ったのは、俺が大学四年生、中野も大学四年生。俺の心を今も捉えて離さないあの名匠ギレルモ・デル・トロによる超名作怪獣映画『パシフィック・リム』が公開された年のことである。ちなみに同じ年の末には世界中の女子供のハートを打ち抜き一大ブームとなった『アナと雪の女王』が米国で公開され、翌年の初春には日本の映画館でも上映開始されたのだが俺は未だにこの作品は観たことがない。何故か、観たら負けな気がしているせいだ。
 それはともかく、俺と中野の出会いは、単位調整のためにとった、やる気のない講師による毒にも薬にもならなそうなクラスでのことである。当時、わずかばかりいた俺の学友の中にはこのクラスをとっている者がいなかった。なので毎週水曜日13時という、一週間のうちで最も目を開けているのが辛いこの時刻から始まるその講義を乗り切るのに大変苦労していた。退屈で、なにしろ眠い。
 しかし寝てしまうと知り合いがいないもんだから、ノートを借りることもできず、寝た時間分だけ内容が分からなくなる。すると単位落とす、留年する、となりかねない。だから、なんとしても寝るものか、と目を血走らせ鬼の形相で歯を食いしばりながら、それでも時に船を漕ぎつつ、階段状に横長の机がずらっと並んだ最上段の席で講義に臨んでいた。
 眠ってはならぬはずなのに、なぜ講師から目に付きにくい位置にあえて腰を据えていたのか、と訊かれても理由はよく分からない。振り返って考えると、人目に付きたくないという日陰者の卑屈さのせいだったのかもしれない。とすると、これまたセガのせいである。
 こんな場所に座っているのは俺くらいなものだ、最後尾は俺のリザーブ席だぜ、わっはっは。と、よく分からぬ優越感に浸っていたこともあったのだが、それも僅かの間で、ある時から視界の端に、チラチラと揺れる影が目につくようになった。それは時に白、時に黒、時に赤。俺とは逆側、つまり教壇に向かって右端の最後部の席で身体を前後に揺らす中野の姿であった。
 寝ている。というか、彼女もまた俺と同様に眠気と戦っていた。
 突然、俺のテリトリーに現れたその女のことが気になり、目が開いている時はその姿を盗み見ることがよくあった。
 中野は肌の色がとても白かった。真っ黒のショートヘアの不揃いの毛先がかかる頬も、短く切り揃えた襟足から続く細く長い首も、とにかく白かった。
 そう言うと、こんな頼りない俺でさえ、つい、
「お前を守ってやる」
 などと言ってしまいたくなるような、ふわふわとした可憐なタイプの女――とその姿を思い描かれるかもしれない。しかし中野に関しては、違う違う、全くそうじゃない。なにせいつも、首に凶悪な鋲の付いた革製の首輪を巻いていたのだから。
 そういうファッションが世にあるということは知っていた。その首輪が猛犬を飼いならすためのものではなく、チョーカーと呼ばれるれっきとした人間用のアイテムだという事も後から知った。しかしそんなものを身に付けて授業を受けている人間は珍しかったものだから、俺は講師の話もそっちのけで睡魔と戦う中野の姿に見入った。
 あの金属製の棘の付いた首輪は威嚇のつもりなのだろうか。
 爪も真っ黒に塗られていて、まるで悪魔の遣いだ。
 唇はずいぶん赤いぞ。よもや主食は生肉か?
 おぉ怖い。君子は危うきに近寄らず。
 と、俺は中野を見るたびに身震いしながら眉を顰めていた次第なのだが、ある日、いつものようにその寝顔を眺めていると、ぱちっと目を覚ました中野がぐるりと首を捻じ曲げ、俺の方に顔を向けた。
 あまりの驚きに俺は思わず、口を大きく開いてはっと息を呑み込んだ。肩がわずかに上がった。俺を見る中野の眉間には深い皺が刻まれ、その顔には、まるで愛犬を殺された幼女が犯人に向けるような強い憎悪の念が浮かんでいた。……というのは俺の勝手な印象であり、この時、中野は別段俺を憎んでいたわけではない。
 歪んだ眉の下、かっと見開かれた目で俺を見据えたまま、腰を少し浮かせ長机と椅子の間で中腰になり、蟹のように横移動しながら中野が近づいて来る。途中、教室の中央に縦に伸びる通路で、長机と長机の間が一旦途切れているのだが、そこでも中野は同じ姿勢を保ったままだった。顔は俺に向けたまま、尻を頂点に身体をくの字に曲げ、上半身は微動だにせず、両足を素早く開いたり閉じたりしながらこちらに向かって来る。
 怖い。
 俺はその中野の異様な動きに恐怖を覚え、上半身をわずかに仰け反らせた。悪魔というよりは何らかの妖怪、都市伝説の類かもしれないと恐れ慄く。
 さささと移動し、ついに中野が俺の目の前までやって来た。
 薄い眉の下、長く濃い黒の睫毛に縁取られた大きな目。その中央にあってこちらを見る瞳に、俺はさらにぎょっとした。あと少しのところで叫び出すところだった。
 向かって左、右の黒目がズレている。いや、黒目とも言えない。なぜなら黒目の部分に色はなく、虹彩は灰色だった。茶色の虹彩の上に、地球が月に影を落とすように灰色の虹彩が乗っている。さらにその右の目尻からは涙がほろほろと溢れ出している。左は乾いている。実に不気味である。
「ごん――ど」
 と、中野の口から小さく声が漏れた。その意味が理解できず、恐る恐る「ごんぶと?」と首を傾げ訊き返す。
 すると中野は俺の鼻先にぐっと顔を寄せ、重なる奇妙な右の瞳を指差し、
「ごんだくと、ぢゃんど入ってる!?」
 今にも泣き出しそうな声を上げた。というか泣いていた、右目だけ。
「あ、入ってます」と、俺。
「どごにっ!?」と、中野。
「右目の、斜め下の方」
 灰色の虹彩のある辺りを指差しながら教えてやった。すると中野はぐるりと白目を剥いて、右の人差し指でアカンベーのように下瞼を下げ、もう一方の指を右の目に突っ込んだ。
 凶悪な首輪をした真っ赤な唇の女が白目を剥き、黒い爪先を自らの眼球に押し当てている。
 怖い。
 やがて、
「あ、あった」
 灰色の虹彩が中央に戻った。月と地球がぴたっと重なると、すぐに右から流れていた涙も止まった。
 中野は左手をひょいっと上げ何やら挨拶じみた行動をとった後、今度は溢れ出る鼻水を右手の甲で隠しながら元いた席に戻っていった。
 俺は呆然としながら、その中野――と言ってもこの時はまだ名前を知らなかったが――を見ていた。
 おかげでその日の授業内容は、すっかり聞き逃してしまった。
 これが俺と中野の、まさに初コンタクトである。

 講義が終わり、自販機で飲み物を買おうとやって来た休憩室で、俺は再び中野に遭遇した。
 白い丸テーブルが8卓、ぽん、ぽんと間隔を保ちながら置かれたカフェテラスのような空間である。全面ガラスの外側には、ちょっとしたテラスに木製のベンチが並び、その向こうに植えられた銀杏の樹々がまだ青々と葉を茂らせていた。
 ほとんどのテーブル席が数人のグループで埋まる中、一番端、自動販売機がずらりと並ぶ壁のすぐ傍の席で、中野は一人食事をとっていた。天板の上に置かれているのはワンタン醤油味の「ごつ盛り」。ごつ盛りは俺の主食でもある。もっとも、俺はコーン味噌派だが。
 そのごつ盛りをずるずると啜る中野を横目に、俺はペプシネックスを買うため自動販売機に向かった。すると突然、
「ねぇ」
 と声を掛けられた。見ると、もぐもぐと口を動かしながらごつ盛りを咀嚼中の中野。目尻のやや下がった灰色の大きな目が俺を見上げている。醤油スープの香りが鼻をかすめた。
 今、この女に呼び掛けられたような気がしたが現実のことだろうか。それとも俺の気のせいだろうか。不可思議に思いながらカップの中にまだ八割ほど残る醤油拉麺に視線を落としていると、
「ねぇ」
 もう一度、声を掛けられた。
 俺はなんとも返答に困ってしまい、黙ったまま中野を見返す。すると、
「さっきは、どうもサンキュー」と、中野。
 ……どうもサンキュー。
 それは日本語なのか、英語なのか。
 俺は「サンキュー」という言葉をさらりと言ってのけたその女の言動になんだか気圧され、黙ったまま小さく頭を下げた。
「名前は?」訊かれて、
「中埜です。の、の漢字は土へんの方ですが」
「え、マジ? 私も中野。の、は普通。野原の野」
 と、目を丸くする。この時はじめて俺は中野が中野であることを知った。しかしこの運命的な邂逅は少女漫画のように、
「へぇ、あんたもナカノって言うんだ。あたしもナカノってゆーんだ」
 とはならず、ごつ盛り片手の中野は顔を歪め、
「……なんか嫌だなぁ」と続けた。
 まったく、無礼な話である。
 俺は少々むっとして、
「中野さんのせいで今日の授業はノートがとれませんでした」
 と返した。
 すると中野はすかさず手にしていた箸をカップに置いた。隣の椅子に置いてあった小さな南京錠の付いた赤いエナメルのショルダーバッグを開き、中をごそごそと探り始める。やがて黒いキャンパスノートを取り出し、
「貸してあげる」
 と、俺に向かって突き出す。
「でも、」と戸惑う俺に、
「いいから、持ってって」と中野。
 仕方なく手を伸ばし受け取る。ぺらりとめくって中を見ると、手書きの図や表とともに、小さく整った字がびっしりと並んでいた。
「来週返してくれればいいから」
 そう言われても、この悪魔の都市伝説女に借りを作るのがなんとなく嫌に思えた。かと言ってここでノートを突き返す勇気も無く、顰めっ面で見るともなしにノートをぱらぱらと捲り続ける。
「中埜くん。いつも一人で授業受けてるよね」
 と中野。
 ちなみに中野が俺のことを「中埜くん」と、くん付けで呼んだのはこの時、一度きりである。
「はぁ、クラスに知り合いがいないもんで」
 教えてやると、俺の頭の上から足元まで、ゆっくりと視線を動かした後、
「あぁ、友達少なそうだもんね」
 図星とは言えその無礼千万な物言いに、俺はますますむっとした。
 なもんで、「……そう言う中野さんこそ、ご友人が少なそうにお見受けしますが」と嘲笑ってやった。クックックッ、である。
 普段ならそのまま黙り込んでしまう場面だったにも関わらず、あまりにも腹が立ったもんだから、思わずそんな皮肉めいた台詞が口から出た。俺の心の中の野口笑子が顔を覗かせたのだ。

 野口笑子――『ちびまる子ちゃん』に登場する主人公の友人である。
 俺は、俺と中野が生まれる少し前からテレビ放送の始まったこの国民的アニメ『ちびまる子ちゃん』が好きだった。中でも、主人公の友人である野口笑子というキャラクターが大好きであった。根暗なお笑い好きで、皮肉めいた微笑を浮かべながら時に芯の食ったことを言いクラスメイトを驚かせる。幼少期の俺は子供ながらに「こんなクールなキッズになりたいぜ」などと憧憬していたのだ。
 話が逸れた、中野に戻ろう。

 ところが中野ときたら、そんな俺の渾身の野口イズムに対して次のように返したのである。
「なにその喋り方。武士?」
 おまけに鼻で笑う。
 何をもって「そう言う中野さんこそ、ご友人が少なそうにお見受けしますが」という台詞に対して「武士?」なる感想を抱いたのか。「お見受けしますが」という言葉に対するものだとすれば、これは現代のビジネスの場でも頻繁に使用される謙譲語であり、彼女の見解はまったくもって見当違いだ。それとも「無礼者は女であっても斬り捨てる」といった俺の毅然たる態度が、彼女に武士的印象を与えたのか。全くもって謎ではあるが、とにかく嘲笑されたことに対して俺は憤慨した。
 なのでノートをごつ盛りの隣に投げ捨ててやった。くるりと背を向けた。
 そのまま立ち去ろうとする俺に、
「ごめんって、怒んないでよ」
 中野の声が追ってきた。笑っているようで「そんな、怒ん、ないでよ」と声が弾んでいる。
 またまた、むむむっとした俺が向き直る。中野はますます目尻を下げていた。
 そして植物油脂に濡れた艷やかな赤い唇を弓形に曲げ、
「中埜の言う通り、私も友達少なくて。ねぇ、今度からノートを見せ合わない?」
 と意外な提案を持ちかけてきた。
「あの授業眠くって。交代でノートとろうよ。奇数週は私がノートとって偶数集は中埜がノートとるの、どうかな。そうすりゃ二週に一回は寝れるじゃん」
 俺は意外な程に建設的な中野のアイディアに感心した。なのでそれまでの怒りもすっかり忘れ、大きく頷きながら「あうあう」と答えた。あうあう、とは何も膃肭臍の真似をしたわけではなく「合う合う」という意味であり、もっと言えば「あなたの提案通りノートを見せ合いましょう、ぜひとも見せ合いましょう!」という快諾の返事の略である。
 俺の膃肭臍を中野は察してくれた。こうしてその翌週から、究極的に退屈な講義で単位取得に挑む俺達の共闘体勢が始まった。
 だけど席は相変わらず最上段の端と端。しばらくの間は、離れた位置に座ったままだった。

 3

 秋になった。
 大学の正門からずらりと並ぶ銀杏の雌株から落ちた実の皮が腐り、とにかく臭かった。おまけに足元を真っ黄色の落ち葉がびっしりと埋め尽くし、これがまたぬるぬると滑る。俺の三年物の黒いハイカット・コンバースは銀杏汁に侵され、鼻腔には親父の頭皮のような匂いが充満し、中央棟までまっすぐに伸びる道は、異様なほど鮮やかな黄色で染まっていた。
「おーーい」
 背後から知った声が聞こえてきたので振り返ると、中野が手を振りながら小走りでやって来る。いつもの赤いエナメルバッグを斜めがけし、今日は黒のロンTに黒のデニム。腰からはシルバーのウォレットチェーンをぶら下げている。首にはもちろん例の首輪が巻かれていた。
 足元には中野がよく履いている白い革靴があり、3cm程も厚みのあるゴム底と、黒の革紐を編み混んだ格子状の模様が目を引く。それはジョージコックスという俺のよく知らぬイギリス生まれのブランドの靴で、中野曰く「パンクスの証」なのだとか。そう言われても、やっぱり俺にはよく分からない。
 この短い付き合いで分かってきたことだが、中野という女はサタンを崇拝する悪魔教の信奉者というわけではなく、ロックンロール、とりわけパンクロックと呼ばれる、弦楽器やら打楽器をガチャガチャと打ち鳴らす騒がしい音楽の愛好家らしい。中でも、とあるパンクロッカーにご執心なのだ。
 その話を聞いた俺は、
「あぁ、バンギャね」
 と言った。

 バンギャとは熱心なバンドファンである女子(ギャル)の呼称である。推しのバンドの追っかけなどを生きがいにしているらしい。
 たしか90年代あたりから流行したと聞いているが、今でもその情熱を失わずに生息しているバンギャも少なくないという。歳を重ねた彼女達のことは、バンギャならぬオバンギャルと揶揄するらしい。死語に死語を重ねた、ひどい呼び名である。
 どうしてこの俺がそのバンギャという古(いにしえ)の敬称を知っていたかと言えば、その昔、兄が大学に通い始めた頃、このバンギャとして活動していた同級生と付き合い始めたからである。そのバンギャはヴィジュアル系と呼ばれるミュージシャンの大ファンであった。そんな彼女の気を惹くため我が兄は、ある日、突然、中古のベースギターを抱えて帰ってきた。おまけに短い髪を「ギャッツビー スタイリングワックス ウルトラハード」で逆立て、あろうことかファンデーションにアイシャドウ、化粧までし始めたのである。バンドを組んでいる訳でもないのに。
 分厚く塗られたファンデーションを突き抜け、存在を主張する濃い髭。その薄青い顔の兄を見ながら俺は、
「おい兄ちゃん、あんたのセガ魂はどこに行ったんだっ!?」
 と憤ったものだ。
 またしても話が逸れたが、これは中野の話である。

 中野からパンクロックの話を聞き、
「あぁ、バンギャね」
 と知ったか振りして頷く俺を睨みつけ、中野はこう言った。
「バンギャじゃない、パンクスよ」
 俺にはよく分からぬが、バンギャにはバンギャの、パンクスにはパンクスの矜持というものがあるらしい。俺はその中野の決然とした物言いに少々感心した。彼女のためにセガへの愛を捨てた兄にも、この中野の姿を見せてやりたいものである。
 そのパンクス中野が、パンクスの証であるジョージコックスを履き、「おーーい」と呑気な声を上げながら銀杏で染まる真っ黄色のくさい道を俺目掛けて走って来る。
「転ぶなよ、滑るから」
 声を掛けると中野は足を止め、
「うわ、本当だ。ずるずる」
 ようやく足元の銀杏に気づき、同時に匂いにも気づいたようで鼻を摘んで顔を歪めた。
「くっさ。なにこれ」
「銀杏」
「銀杏? おっさんの頭の匂いみたい」
 同意である。しかし中野は何処でどんなおっさんの頭の匂いを嗅いだのだろう、少し気になった。
「ねぇ来週の授業終わった後、時間ある? ちょっと付き合って欲しい場所が――」と言い、俺の方にもう一歩進めた右足が、ずるりと前に滑り仰け反った。中野の身体が大きく後ろに倒れる。瞬間、ほれ見たことか、そんな底のつるつるした滑りやすそうな靴履いて走るからだぞ、などと思いつつ、支えてやるべく中野の背中に右手を伸ばす。ところが中野はその俺の首根っこをぐいと掴んだかと思うと、手に思いっきり体重を乗せ、その反作用を利用し体勢をどうにか立て直した。一方の俺は突然、頸骨を強い力で押さえつけられた形となり前のめり。踏ん張った後ろ足、ご自慢のコンバースがずるりと滑り、銀杏絨毯が光り輝く路面へと膝をついたのである。
「あ」
 と俺。
「あぁっ」
 と中野。
 ユニクロで買った四年物の青いデニムの右膝から足首が、銀杏汁に染まった。
「ごめん、中埜、ごめん」
 さすがの中野も慌てて謝罪の言葉を繰り返す。
 差し出された手を取り、ゆっくり立ち上がった俺は、千切れた数枚の黄色い葉のくっついた膝下を見ながら呆然としていた。今日はもう授業が無いからこのまま帰ったって良いのだが、この、おっさんの頭皮臭を放つ右脚を抱えた状態で電車に乗る勇気がない。
「うわ、くっさ。ヤバいよこれ」
 身体を折り曲げ、黄金の右脚に顔を近づけた中野の一言が追い打ちをかける。
 俺の部屋は大学二年まで通っていた別のキャンパスの近所にある。三年に進級してから、この校舎で授業を受けることになったのだが、ここから家までは距離がある。電車を使って早くとも20分以上かかる。乗り換えもある。歩いて帰ろうとすると、半日近くかかる。
「マジごめん、奢るから」
 と言って、目の前で両掌を合わせる中野。
「……こんな状態で飯、奢られても」
 俺が口を尖らせると、
「じゃなくて、ズボン。買いに行こう」
 笑う中野が、いま来た道を引き返し正門へと歩き出した。

 ところが、である。
 二人で大学から駅へ向かう道をショッピングモールなどを探しながら歩いて来たわけなのだが、服屋というものがさっぱり見当たらない。楽器屋やスポーツ用品を扱う店、それに飲食店や本屋なんかはごろごろあるくせに、肝心の服を売る店が見つからないのである。
「うーん、g.u.でもありゃいいんだけど」と、きょろきょろ見回しながら中野が言う。その言葉に俺は「なに言ってやがんだ、このデニムはユニクロだぞ。g.u.より高級品だぞ」などと思っていた次第だが、けち臭い男に思われそうだったので口には出さなかった。
「駅に店、入ってなかったっけ」
「あった……かなぁ。そんなとこで服買おうと思ったこと無いから、よく分かんないや」
 たしかに、中野の言う通りである。興味の無いものは、いくら目に入ろうと頭に残らないものだ。
「あ、見て、あそこに服屋!」
 嬉しそうに声を上げ、中野が指差す方向。一階にカレー屋が入った雑居ビルと、喫茶店の入った雑居ビルの間、細い路地の向こうに「小野木洋品店」という古い看板が見えた。
「行ってみよう」と笑い、薄暗いその路地をずんずんと歩き出す背中を見ながら、俺の脳裡には、すでにいやーな未来予想図が描き出されていた。

「あははははははっ、似合う似合うっ!」
 白いパーティションで仕切られた簡易的な試着室。大きな姿見の前に立つ俺を見ながら、中野が文字通り腹を抱えている。
「おい、あんまでかい声で笑うなよ」
 狭い店内には俺達の他に、紫レンズの眼鏡をかけたおばさんがいる。店長だろうか。先程からこちらをチラチラ見ているのに気づき、俺は慌てて窘める。
「ごめんごめん。だってあんまり――アレだから」
 言われた中野も紫の眼光に気づいてか、言葉を濁した。
 鏡に映る俺の下半身には、銀杏汁に濡れたデニムに替わり、白地に小さな赤い薔薇が無数にプリントされたベロア生地のズボンがある。丈は短い。ちょうど脛の辺りで薔薇が終わり、そこから下は脛毛の目立つ茶色い足が伸びている。おまけに生地が柔らかいせいか、股間の膨らみが妙に目立つ。ちなみにウェスト回りはゴム製でよく伸び、蝶結びの紐が臍の下でで揺れていた。
 その店は、年齢のやや高めの女性客を対象とした昔ながらの洋品店のようで、俺が望むようなごく一般的なジーンズは置いておらず、店にある服にはどれも、なぜか小さな花柄模様、もしくは淡い色のストライプがプリントされていた。その中から「比較的マシ」と言って中野が選んだのが、この薔薇柄ハーフ丈のびのびズボンである。
「似合う、なんか中埜っぽい。これ買おう」
 散々笑い尽くして目に涙を浮かべた中野を見て、俺は(こいつ、遊んでやがるな)と苦虫を噛み潰したような表情を浮かべていた。とは言え、他に俺のサイズに合いそうな服は無い。
「あーウケる。ほら、買ってあげるから脱いで」
「……いいよ、自分で金出すから」
「奢るって言ったじゃん。私のせいで前のデニム駄目にしちゃったんだし。バイト代も入ったばっかだから、気にしなくていいよ」
 そこで中野はふと気づいたように視線を上げ、
「そいや、そのズボン、いくら?」
 と尋ねてきた。
 言われて俺は、腰の右で揺れていた値札を確認する。中野も俺の手元を覗き込む。その数字に、二人揃って目を剥く。
「はっせんさんびゃくえん」、同時に声が出た。
 8300円(税別)である。
 俺と中野は思わず顔を見合わせた。8300円(税別)。冗談で出す金額としては高すぎる。
「……いいよ。俺、前の服で帰るから」
「そんな臭いので電車乗ったら通報されるよ」
「じゃあ歩いて帰る」
「中埜はどこ住んでんの」
 最寄り駅を教えてやると、
「無理っしょ」、眉根を寄せる。
「奢るって言ったんだから、やっぱ奢る。そのズボン買おう」
「でも8300円だぞ。もう少し出せば中古のプレステ3が買える」
「プレステならうちにあるから、いらないもん」
「え」
 俺は言葉を失った。
 このゲームと無縁そうなパンクガールの家にまでソニー・コンピュータエンタテインメントは勢力を伸ばしているのか、と驚いたためだ。
 ちなみにその当時、ドリームキャストの惨敗により家庭用ゲーム機の開発・販売から撤退したセガに代わり、我が家にあったのはマイクロソフトのXbox 360であった。このハードがまた日本では今ひとつウケなくて……という負け犬ハード列伝は長くなるので割愛。
「中野もゲームやるのか」
 驚き、俺が訊き返すと、
「たまにやるよ、なんたらーテッドとかいう、映画みたいなやつとか」
「アンチャーテッド」
「それそれ」
 アンチャーテッドシリーズ、俺の憧れ。
 主人公であるトレジャー・ハンターのネイトが、お宝を求め冒険活劇を繰り広げるアクションアドベンチャーゲーム、らしい。しかし発売元がソニーなので、俺がそのゲームをプレイする機会は未来永劫、やって来ないのであろう。
「私はそんなしないけど、お父さんが新しいもの好きで。たいしてやりもしないのに、新しいゲームぽんぽん買ってきちゃうんだよね」
 なんて羨ましい。
 俺はその場で「君のお父さんと俺の兄を交換してくれっ!」と叫び出したい気分だったが、黙って涙を飲んだ。
「ぅおっほん」
 咳払いが一つ。
 見ると、紫眼鏡の店主が俺達をがっつり睨んでいる。「買うなら早く、買わないなら出て行け」とその目が告げている。
 なのでまだ若く愚かだった俺達は、半額ずつ出しあって薔薇柄ズボンを購入した。
 そのズボンはその後、中野の前で数度身に付けたきり、衣装ケースの奥にしまってある。
 もうとっくに必要ないはずなのに、今も捨てられずにいる。

 4

 その翌週、俺は中野に誘われ中野と中野に行くことになった。
 と言うのも、中野ご執心の仲野のフィギュアが中野に売っているはずだと言うので、中野に詳しそうな俺・中埜に中野を案内してほしいというのだ。
 さてここでまた一つナカノが増えたので整理しておく。
 中野のご執心の仲野というのは、中野が愛するパンクバンドのドラマー・仲野タツヤのことである。その仲野タツヤをデフォルメしたフィギュアが数年前に数量限定で発売されたのだが、まだ高校生で小遣い制だった中野には手が届かず買い逃していた。それでも諦めきれなかった中野は、Webでどんどんプレミア化し値段の上がり続ける仲野タツヤ・フィギュアを眺めては指を咥え「なる早で手に入れなければ大変なことになる」と焦っていたのだと言う。
「思い切ってWebで買おうかしら。だけど実物も見ないで買うには値段が高すぎるわ」などと悩んでいたところ、
「あらそうだわ。サブカルの聖地・中野ブロードウェイになら仲野タツヤのフィギュアの実物があるのじゃないかしら」と気づき、いざ行かんと決意。だがしかし、その界隈に馴染みのなかった中野は中野ブロードウェイの場所すらよく分かっておらず「一人で行くと迷いそうだわね」と考えた。そこで、俺のことを思い出したそうだ。曰く、
「そうだ、あの根暗で分厚い眼鏡をかけたクラスメイトの中埜君なら、きっと中野ブロードウェイのことも詳しいに違いない。だって彼ったら友人も少ないようだし、きっとフィギュアがお友達、とかそういうタイプに違いないもの」
 と、思ったそうだ。
 じゃかしいわ。誰が孤独な根暗眼鏡だ。まぁ間違いではないが。
 そんな訳で俺と中野は水曜日の授業後、連れ立って中野ブロードウェイへと行くことになった。
 しかし、である。
 なんだか格好つかない気がして中野には黙っているのだが、実は俺も中野にそれほど詳しくない。数少ない根暗友達とともに、俺の愛する「ワンピース」や「グランド・セフト・オート」、それに「アイアンマン」や「ハルク」のグッズを物色するため、中野ブロードウェイに行ったことはある。しかしそれも一度きりのことだ。結局、俺は中野と違い、欲しいグッズがあってもわざわざ実物を見に行ったりせず、レビューを参照にWebでポチってしまうタイプの人間なのだ。要は怠慢なのである。
 という訳で、前日にGoogleマップを使って所在地をがっつりと予習しておき、俺は中野と中野に赴いた。
 大学の最寄り駅から三駅。中野駅で降り、北口を目指す。出口からまっすぐ、アーケード街をひたすら北上して行けば、目指す中野ブロードウェイに着くはずだ。
 昔、友人と行った時の記憶はさっぱりと蘇らなかったが、俺はGoogleに絶大なる信頼を寄せている。だからGoogleを信じて、勇気を振り絞りながら北を目指した。
 そんな俺の胸中を露知らず、中野はと言えば、横並びで吊り革に掴まって電車に揺られている間も、狭い商店街の道を人混みを避けながら進む間も、ずっと仲野タツヤについて話し続けた。
「タツヤはね、とにかくものすごいのよ」
 という具体性に欠ける称賛から始まり、
「野獣よ、野獣。あれは野生のドラマーなの」
 だの、
「音がね、他のドラマーと全然違うの。頭ひっつかまれて、ガンガン振り回されてるたいな」
 と。果ては、
「とにかくね、可愛いの。笑うと目元が、可愛いのよ」
 もはやドラムには何の関係のない点まで褒めはじめた。
 話しながらどんどんヒートアップしていく中野に対して、俺「はぁ」だの「へぇ」だのと、気の無い返事を繰り返すばかりだった。なぜなら、無事にブロードウェイに辿り着けるかどうか、その点が心配で心配で仕方なかったためだ。かと言って、今更スマホを開いて道順を確認するのも格好悪く思え、頭の中で、昨夜見たGoogleマップの道順を何度もシミュレートするのに忙しかったのである。
「ねぇ、聞いてる?」
 ついに口を尖らせた中野が足を止めたのは、ブロードウェイまであともう一息と目される商店街の真ん中でのことである。
「聞いてる」
「嘘つけ」
「本当。全部聞いてた」
「じゃあさっき教えたタツヤの年齢、言ってみなよ」
 眉間に皺を寄せ俺を見上げる中野の顔。曇りガラスでできたアーチ状の天井越しに和らいだ秋の太陽光が降り注ぐ中、俺達は足を止め顔を見合わせた。その俺達を、道行く人々が邪魔臭そうに避けて行く。
「……28歳?」
 いつまで経っても歩き出しそうになかったので口から出任せに答えると、中野は膨れっ面して見せた。それもがっつりと空気を溜め込み、ぱんぱんに頬を膨らませている。さながら頬袋に餌を貯蔵するブタオザル。それはさすがに可哀想なので、リスかハムスターという事にしておこう。
 そうして、むっつりと黙り込んだハムスター中野が赤いバッグから取り出したスマホの画面、そこに映った男の顔を見て俺は驚いた。タンクトップから伸びる両腕にはびっちりとタトゥー。それはまぁ良いのだが、短く切り揃えられた乏しい頭髪の下、こちらに向けられた顔になにより驚く。
 深く刻み込まれた眉間の皺。唇の上と下顎に残る無精髭。落ち窪んだ目、かさつき血色の悪い肌。
「おっさんじゃん」
 おっさんである。
 俺達の父親と言っても差し支えないほど、仲野タツヤは紛うことなきおっさんであった。驚いて思わず口から出た俺の言葉に、中野はますます頬を膨らませ、
「だから言ってんじゃん。57歳だって」
 言い捨ててから、ぷいと横を向きすたすたと歩き出す。
 俺は慌てて中野の横に並び歩みを合わせ、
「中野は年上が好きなのか?」と尋ねた。
「年上好きじゃなくて、タツヤがたまたま年上だったってだけ」
「ははぁ。ロマンチックなことで」
「ロマンじゃない、パンクよ」
 などと、これまた分かりにくい話を中野から聞かされているうちに、見えて来たのは赤に白字ででかでかと描かれた「NAKANO BROADWAY」の文字だった。見覚えのあるそれは中野ブロードウェイの入り口であり、俺はようやくホッと胸を撫で下ろすことができたのである。

「ちょっと見て。すごいおっぱい、ぷりんぷりんだわ。中埜もこういうの持ってるの?」
「いや。俺はもう少し硬派な方が好みだから」と頭を振る。
 本当はいくつか持っていたが、思わず嘘をついてしまった。
「あ、これは可愛い。レスポール持ってる」
「けいおんの平沢唯」
「バンドもの?」
「そう。高校の軽音楽部の話」
「へぇ……そんなのもあるんだ」
 美少女フィギュアが並ぶ棚を眺めながら、中野が目を丸くしている。スチール製のラックの上、透明のアクリルケースの中で様々な格好の異次元美少女たちが笑顔を浮かべている。ここはレンタルショーケース屋だ。アマチュアの制作した二次創作フィギュアなどを並べて販売代行を行う店である。
 中には極端に布地面積が少なく、初心な俺などは思わず頬を赤らめてしまいそうな過激なポーズのフィギュアもあったが、中野はそれらに対しても「ぷりっぷりだわ」などと呟き、珍しそうにじっと見ていた。その熱心な眼差しに、俺の方が恥ずかしくなってしまうほどだ。
 少し離れて別のショーケースを覗く。そこにいたのは、大股開きで局部丸出し、ブリッジのように腰を仰け反らせながらもこちらを見て陶然たる面持ち、ウサ耳の長門有希だ。その長門を見つめながら(この関節の可動域は現実的なものなのだろうか)と煩悩を散らすことで、動揺を隠すのに精一杯であった。
「ここには無いんじゃないかな」
「え、なにが?」と、当初の目的を忘れてしまったかのような中野の声。
「仲野タツヤ」
「あーー……そだね。別の店、見てみよっか」
 その後に二人で入ったのは、いかにもプレミアの付いていそうな古い同人誌や、有名漫画のグッズの揃った店であった。
 店頭には、俺の肩まである大きくレトロな鉄人28号の模型。それに、あしたのジョーの矢吹丈が真っ白に燃え尽きたシーンを再現した人形がある。こちらは等身大。
「おー、すごい。ここなら私でも知ってるのありそう」
「中野もアニメ観るのか?」
「観る観る。攻殻機動隊とか」
「押井守っ!?」
「そういう人は出てなかったと思うけど、なんか青くて可愛いロボットが出てた」
「タチコマか、だとすると神山版か。意外にマニアックなの観てるな」
「お父さんが好きなんだよ。DVDが家にあって」
 娘をパンクスに育て上げ、プレステ3を所持し、攻殻機動隊を愛する男・中野父。実に興味深い人物である。
「あ、これ」
 と、息を呑んだ中野の視線の先には、かの有名な猫型ロボットとその相棒がいた。
「ドラえもんの、」
 名場面である。
 真っ暗な夜道。ジャイアンに殴られボロボロになったのび太の身体を支えているのは、両眼から涙を流し穏やかな笑みを浮かべるドラえもん。その二人を、街灯の明かりがスポットライトのように照らしている。
「このシーン覚えてる。子供のころ何回も読んだんだけど、その度に泣いてた」
 それは伝説の最終回「さようなら、ドラえもん」の1コマを再現したものだった。てんとう虫コミックス6巻に収録されている。
 藤子・F・不二雄の急死により未完作品となった「ドラえもん」だが、一度、連載終了となった経緯があり、その際に描かれたのがこの「さようなら、ドラえもん」というエピソードだ。作中、のび太は初めて自力でジャイアンに勝って見せる。未来に帰ってしまうドラえもんを安心させるために。連載漫画という永遠に繰り返される日常を脱却し、のび太が初めて成長を見せたところでドラえもんは姿を消す。
 非常に感動的なストーリーで、俺も中野同様、何度泣かされたか知れない。
「あぁ、これいいな。いくら?」
「1300円。この出来なら高くないんじゃないかな」
「1300円かぁ」呟きながら、右に左に頭を動かし、角度を変えながらじっくりと名コンビを眺める。
「……そういや、中埜ってさ」
 突然、ふふふと笑い声を上げたので見ると、肩をすくめ、今にも噴き出しそうな顔がこちらを見上げていた。
「なんだよ」
「のび太みたいだよね」
 言って、あははと明るい声で笑い出す。
「眼鏡がか」
「いやー眼鏡だけじゃなく。なんつーか、雰囲気が」
 さらに押し殺しながら、くくく、と笑い続ける。
 なんとなく馬鹿にされているようで釈然としない。
「よし、これ買って帰ろう」
「いいのか、俺似だぞ?」
「いいよ、今日の記念だし。それにこれ見てたら、中埜が頑張ってるみたいで笑える」
 まだ笑みを溢したまま、中野は店員を呼んでショーケースの中のそのフィギュアを購入した。

 その後、ロリータ少女のアンティークドールが並ぶ店で小脇に抱えた人形と同じフリルのスカートを履いた中年男性に仰天したり、300円入れてスパイダーマンのガチャを回したはずなのに何故か出てきたのはウルトラ怪獣ノーバだったりと、様々なアクシデントに見舞われながら俺と中野はもう三時間ほど仲野タツヤを探し回っていた。しかし、さっぱり見つからない。
「……無いのかなぁ」
 いよいよ顔を曇らせ始めた中野の横で、俺も困り果てていた。この広く入り組んだ建物の中を隈なく探すには、何日も通う必要がありそうだ。
「諦める?」
 尋ねると、肩を落とした中野が「うーん」と唸る。まだ諦めきれないでいるようだ。
 その時である。
 時計屋が並ぶ薄暗い廊下の向こうから、ゆらりと揺れる人影が現れた。影は太く、どでかい。
 髪は白に近い金髪、背中まで伸び細かなウェーブがかかっており、毛量がとにかく多い。着ている服がこれまた奇妙だ。脛ほどまで丈の長いざっくりとしたワンピースは立て襟で、生地は光沢のある紫のサテン。ウェストには幅の広い鮮やかな黄金色の布が巻かれている。
「デール」
 隣で俺と同様、怪人物に目を剥いていた中野が低い声で呟いた。
「デール?」
「モンゴルの民族衣装のこと、あの紫の。あれ、デール」
 言われて見ると、たしかにそれっぽい。その昔「世界ふしぎ発見!」で見たような服だ。しかし服の出どころが分かったところで、それを身に纏う人物の怪しさには代わりがない。ゆらゆらと近づいて来るその人物は、目算で身長2メートル。横幅は俺と中野の腰回りを足した分よりまだ太い。細い目と低い鼻、異様に分厚い唇にはオレンジ色の口紅が塗られている。肌がつっぱっているせいか皺一つ見当たらないが、かと言ってそのザラついた表皮からは若さも感じられない。もっと言えば、男か女かもよく分からない。
「……なにかお探しのようね」
 その怪人物が声をかけてきた。口調は女性のものだが、声は男並みに低くよく響く。びっくりして中野の顔を見ると、その横顔も驚きに歪んでいた。
「ついてらっしゃい。探し物、見つけてあげる」
 そう言うと謎の人物はくるりと分厚い背を向け、俺達の方をちらと振り返ってから人差し指をちょいちょいっと動かし「一緒に来い」と合図を送った後、廊下の奥へとゆらゆら戻って行った。
 その背中を見守りながら、俺と中野は大きな音を立て、ごくりと唾を呑み込む。
「どうする」と俺。
「行ってみよう」と中野。
「まじかっ、怪しすぎるぞ」
「あれ、きっとブロードウェイの案内人よ。よくいるじゃない渋谷とかにも。希望のキャバクラに連れてってくれる人。そんな感じのアレよ」
「そうかなぁ?」
「行きましょう。きっとあの人ならタツヤのこと知ってる」意気込む中野と共に、俺は廊下の先、デールの消えた小部屋へと足を踏み入れた。

 そこは六畳ほどの倉庫のような小部屋で、両壁一面に設置されたスチール棚にはロール状に巻かれた色とりどりの生地が山積みになっていた。部屋の正面には艷やかな鳶色の木製机がある。その向こう側、机の天板に両肘をつき、紫のデールを身にまとった男(?)がこちらを睨んでいる。
「お座りなさい」と指差す先、机の前に二つの折りたたみ椅子がある。
 促されるまま黙って二人で腰掛ける。俺はひどく緊張し、身体が硬直していた。中野も膝の上でぎゅっと拳を握りしめていたから、同じようなものだったと思う。
「探し物があるようね」という言葉に、
「そうなんです、タツヤの――」とつなげた中野の言葉を遮り、
「待って、当てて見せる」と、デール。
 そのまま目を閉じ眉間に皺を寄せ、鼻からゆっくりと長く息を吐き出した。狭い室内がデールの鼻息の音で満たされ、俺はなんとも嫌な気持ちになる。左隣に座る中野はそんなこと意に介さないようで、固唾を飲んでデールの様子を見守っていた。
「……それ(・・)を積極的に探しているのは、貴女の方ね」デールが中野を指差す。
「はい、そうですっ」期待に満ちた中野の声。
「それは、大きいように見えて、とても小さい」
「はいっ、元は大きいです。でも探しているものは小さいです」
「時に貴女の胸をときめかせ、」
「はいっ」
「時に切なくさせる」
「はいっ、まさにっ!」
 デールの言葉に中野が大きく頷く。
「分かりました。あなた達が探しているもの、それは――」
 デールが言葉を切って俺達の顔をゆっくりと見直す。そのミステリアスな目を前に、俺と中野はまたしても同時に、ごくりと唾を飲み込んだ。
「愛ね」
 と言い切ったデールに、
「あい?」
 とは、俺と中野。
 二人ともメガテン、ならぬ目が点である。
「安心なさい。愛はね、」
 デールは左右の人差し指を上に向け、ちょいちょいっと動かし、俺と中野に手を出すよう合図した。
 おずおずと差し出された俺達の手首を、グローブのように厚みのある掌でむんずと掴む。驚く俺の左手を、驚く中野の右手の甲の上に重ね、
「愛は、ここにある」
 と囁いた。
 その後、二人の相性やら結婚のタイミングなどを一方的に託宣しまくったデールは、最終的に3000円を俺達に請求してきた。
 仕方なく、二人で割り勘して支払った。

 デールから解放され、ようやくブロードウェイを脱出できたのは、もう日が落ちてからのことだ。結局タツヤは見つからなかったが、デールの小部屋を出た後、なんだか頭がふらふらしてしまい、そのまま建物の外に出た。
「占いの押し売りって、あるのね」
 ビルとアーケードに挟まれた細い空を見上げながら、中野がぽつりと呟く。
「知らなかった。中野の目的は、愛を探すことだったんだな」
「そう、私の愛。それはタツヤ」
「ここにあるってよ、愛」
「無かったっつーの」中野がとうとう噴き出した。俺も釣られて笑い出す。
「あー、ウケる。なにあのおばさん。詐欺師?」
「え、おじさんだろ」
「まじっ? 私、ずっとおばさんだと思ってた」
 二人で顔を見合わせてヒーヒー笑う。そんな俺達を通行人は眉を顰めて避けて行く。それでも笑いが止まらず、俺達は道の真ん中で肩を揺らして笑い合った。
「中野で中埜が詐欺にあった」
「詐欺にあったのは中野も一緒だろ?」
 そんなことを言いながら互いの背中を叩きあい、俺達は大いに笑った。

 中野駅に着いた。
「あ、いた」
 北口のエスカレーター前に立つ人物を見て、中野が声を上げる。
「じゃあ私、ここで。また来週ね」
 笑顔で小さく手を振ってから、素早く背を向け、小走りでその人物の方に走って行く。待っていたのは、中野の彼氏だ。
 バイト先のライブハウスで働く年上のバンドマンだと聞いたことがある。俺よりも随分背が高く体つきもごつい男だった。その彼氏と一緒にいるのを見ると、なんだか中野が急に別世界の住人のように遠く感じた。
 彼氏を見上げながら二三、言葉を交わし、もう一度、俺の方を振り返った中野が手を振る。俺はうん、と頷き見送った。
 やっぱりあのデールは詐欺師だな、と思う。
 だってここには愛なんて無いから。

 5

 樹々の葉は落ち空は鈍色、冬になった。
 年の瀬の迫る水曜日である。その日の中野は黒のトレンチコートに黒のスキニーパンツと真っ黒な姿で、首には赤いタータンチェックのマフラーを巻いていた。教室に入って来るなり顔を上げ、最上段の俺を見つける。ひょいっと手を上げ挨拶し、階段を上り、椅子の背凭れを跨ぎ、俺の隣の隣の席に腰を下ろした。外はよほど冷えていたようで、頬も鼻の頭も、ピンクに染まっている。
「今日、寒いね」
 言いながらマフラーを外すと、いつもの首輪がそこに無いことに俺は少々驚いた。
「ノート当番、どっちだっけ」
「俺」
「あー……変わってあげよか」
「なんで。来週寝たい?」
「来週ってもう冬休みじゃん。そうじゃなくて、今日は寝そうにないから」
 中野の声に、いつもの張りがないことに気づいた。鞄からノートやペンケースを取り出す横顔を観察する。目が腫れぼったく、隈が濃い。
「なに」こちらを見ずに薄く笑う中野。
「いや」とだけ答え、目を逸らす。
「なら頼む。俺は寝る」
「りょ」
 顔を伏せてもなんだか眠ることができず、授業中ずっと、シャーペンがノートを擦る微かな音を聞いていた。

「この後、時間ある?」
 講義が終わった後、首にマフラーを巻き付けながら中野が尋ねてきた。とくに用事もなかったので素直に「ある」と返事すると、「じゃあナカノ、付き合ってよ」と言う。
 意味深な物言いに「付き合うって、どういう意味」、多少動揺しながら俺が訊き返す。
 不思議顔の中野が「この間行ったじゃん、中野。また遊び行きたいなと思って」
 なるほど。ナカノとは中野駅周辺のことであった。
「またタツヤ探し?」
「それも良いね。そんでデールのおじさんとこ行って、もう一回占ってもらおう」
「もう金払うの嫌なんだけど」
「なら、今度は私が奢ります」、にやっと赤い唇を歪めて見せる。
 俺達は再び中野駅を目指した。

 ぶらりと入った中野のドンキで、派手な手描きポップ付きでオススメされているドイツ製の黒いグミを眺めながら「うーわ、不味そう」と中野が顔を顰めている。ドンキを出た後は100円ショップで鶏卵の尻に小さな穴を空ける装置を買ったり、ブロードウェイを当てなくぶらつくなどして二人で時間を潰した。
 デールのおっさんおばさんも探してみたのだが、どうしてか、あの小部屋自体が見つからず不思議であった。部屋の場所を間違えて覚えていたのか、もしくは二人してブロードウェイの怪人に化かされていた可能性もある。
 そうして三時間ほど中野の街をぶらついた後、中野の希望で焼き鳥の食える安い居酒屋に入った。「美味い、美味い」と中野は一人で焼き鳥盛り合わせを二皿平らげ、俺も追加で頼んだ盛り合わせを喰った。中野はタレ味、俺は塩味だった。
 平日なので店内はそこまで混んでなかったが、二時間もいると次第に客が増え始めた。居づらくなった俺達は、最後に6杯目の生ビールを頼み、飲み干してから店を出た。
 外は夜。寒かった。
 中野がマフラーに顔を埋めて「うわー、冬だぁ」と呟く。スマホを確認するともう21時を過ぎている。こんなに長い時間、中野と一緒にいたのは初めてのことだな、と思う。
「そろそろ帰ろうか」
 北口へと足を向ける。二三歩移動してから気配の無いのに気づき振り返ると、中野は立ち止まったままだった。視線は足元、白いジョージコックスに注がれている。
「どした」
「もう一件、どっか寄ってかない?」
「俺はいいけど、中野は実家だろ。あんま遅くなると怒られるんじゃ」
「うちなら平気。友達んとこ泊まるって言って、外泊する事よくあるし」
「嘘ついて?」
 尋ねると、少し悲しそうな顔で笑う。
「今度は南口の方に行ってみようよ」
「そっちは行ったことがない」
「私はある」
「何がある?」
「ホテル」

 中野と俺は南口にあるラブホテルに入った。
「空室・満室」という電光看板が光っていた。外観は古臭く、俺は少々気が滅入ったのだが、中に入ると部屋は意外なほど綺麗だった。
 俺が思い浮かべていた「THE ラブホテル」とは異なり、飾りっ気のない室内はビジネスホテルのようだった。ただし、カラオケがあったり、卑猥な形状のグッズを売る自動販売機が備わっていたり、テレビを点けると大音量でAVが流れたりと、ビジネスホテルとは決定的に異なる点も多い。
 中野に続き、ここまで黙ってついてきたのだが、正直、俺は激しく動揺していた。なにせこちらは、ぼりんぼりんの童貞である。
 しかし中野にそれを知られるわけにはいかない。これは男のプライドの問題なのだ。てなことを考えながら、懸命に平静を装っていたのだが、
「な、中野は」
 どもった。声も裏返った。
 その俺の心中を見透かしたように中野が笑う。部屋の中央に置かれたベッドに腰掛け、コートを脱ぎ、黒いパンツに上半身は黒のワンピース姿。
「中埜は、初めてか?」
 とっくにお見通しだった。
 観念した俺は黙ってこくりと頷く。
「そっか。なら止めておこうか」
 そう言われても、返事をすることができなかった。
 ここ数週間、元気の無かった中野がどうやら彼氏と上手くいっていない、というのは何となく察せられた。そして今日の様子から見るに、なにか決定的な事柄が中野と彼氏の間にあったのだろう。というのは、あくまで俺の推測。しかし、当たらずとも遠からずに違いない。
 だからホテルに誘われた時、中野にも、そういったズルい面があったのか、と俺は驚いた。そしてこの俺も、そのズルさを利用するズルい男だった。
 どんなセコいやり方だっていい。俺はどうしても、中野に触れたかったのだ。
「中野が良いなら、俺はしたい」
 本当はもっと格好いい台詞で誘いたかった。なのにそんな言葉しか出てこず、我ながらがっかり、さすがは童貞である。
 しかしその俺の言葉に中野は、はにかんで、
「そっか」、呟いた。
 中野はすっくと立ち上がり、俺の目の前までやって来ると、ぽんと両肩に手を置いた。
「よし、任せとけ。気持ち良くしてやる」と、男前に言い切る。
 俺は二度ほど、素早く頷く。
 肩に乗せられた左手になんとなく目を遣る。指輪は無かった。しかし思い返せば、中野はいつも指輪をしていなかったように思う。どころか、好きそうなのにピアスやイヤリングといったアクセサリーの類は一切身に付けていない。
「な、中野は」
 またしても、どもる。
 中野が、ふふ、と笑う。
「アクセサリー、付けないんだな」
 突然、何を言い出したのかと目を丸くしてから、「私、すごい金属アレルギー。肌に直接触るのは全然駄目で」と続けた。
「もしかして中埜って、鋼鉄ボディの義体使いだったりする? だったらできないよ。痒くなっちゃう」
 見上げる灰色の目が、いたずらっぽく細められる。
「いや、俺のは99%自前」
「残りの1%は?」
「昔、足首の靭帯切った時、中にチタン入れた」
 俺の答えにぷっと噴き出してから、中野は両手を背に回し身体を寄せた。

 その晩のことは中野と俺のプライバシーなので詳しくは言わない。ただ、驚きと感動の一夜だったとだけお伝えしておく。
 百聞は一見に如かず、論より証拠、聞いて極楽見て地獄――いやそれは逆か。ともかく、その晩の経験から俺は密かに「やはり妄想だけではいけない、実践も伴わねば」などと今後の人生について前向きな誓いを立てるほどだった。
 それでも、やはり少し悲しかったのも事実である。
 いくら身体を重ねようと、中野の心がここには無いことを知っていたからだ。

 そのまま大学は冬休みに突入し、俺はしばらくの間、中野と会う機会を失った。
 クリスマスがなんとなく過ぎ、実家に戻って正月をだらだらとやり過ごす。その間中、頭の片隅にはなんとなく中野のことがあり、あの晩、触れた柔らかな肌を、掌のぬくもりを、髪の香りを、そして笑顔を思い出しては「あーーーーーーーっ」と一人頭を抱え身を捩らせる日々であった。
 そんな俺を、実家の両親は頭が変になったんじゃないかと心配し遠巻きに監視していたようだが、我が根暗の兄だけは「そっとしといてやろう」と放っておいてくれたので、いくらか見直した。
 そうこうしているうちに松七日も終わり冬休み明け。水曜日がやって来た。
 俺はどんな顔をして中野に会えばよいのか分からず、いつもの定位置で顔を伏せ、寝たふりしていた。すると「おーーーい」と声を掛けられた。中野である。
 目覚めたばかりであるかのように、わざとらしくゆっくり顔を上げる。
「今日、中埜がノート当番でしょ」
 中野はいつもと同じように笑っていた。だから俺もこれまでと同じように「うん」と答える。
「あけおめ」
 いつも通り、一席空けた右隣の席に中野が座る。
「おめ」
「正月、何してた?」
「寝てた、かな。中野は」
「妹と温泉。新潟行ってきた」
「へぇ」
「中埜にもお土産あるよ。あとで渡すから授業終わったらどっか行こうよ」
「どこに」
「また中野にする? デートしようよ。あ、でも今日は泊まれない。妹と約束してるから」
 ……ん?
 今、中野が妙なことを口走った事に気がついた。

  デート◎dating
  交際中の男女が日時を決めて会うこと。
  逢引きとも言われる(Wikipediaより抜粋)

 交際中の男女の逢引き。
 おまけに「今日は泊まれない、妹と約束してるから」とも。だとすると、約束が無かったら泊まるつもりでいたのか?
 口をぽかんと開き、唖然とした表情の俺に中野は唇を突き出し、
「私、変なこと言った?」
 不思議顔である。
「……付かぬ事を伺いますが」と、俺。
「なに、突然」と、中野。
「この間のアレは失恋による一時の気の迷いだったのでは」
「はぁっ?」、眉間に皺。
「いやその。俺はてっきり」額に汗かき、しどろもどろの俺。
「中野が彼氏に振られて寂しいから、とかそういう事情で、たまたま傍にいた俺を連れてったのかと。あの、中野の」ホテルに、とは口に出せず飲み込む。
 中野のタレ目が見る見る間に吊り上がっていくのが分かった。頬もこれまでにない程、ぱんっぱんに膨れている。ブタオザル、再見である。
「私は好きでもない奴を誘ったりしないっ!」
 中野の大声が天井の高い講堂に響く。
「そんなのは私のパンク魂に反するっ!!」
 講師待ちで退屈していた生徒達が、一斉に振り向き俺と中野を見上げた。
 一方、ブタオザルならぬ鬼の形相で怒りの声を上げた中野は、背凭れを越え、鞄を肩にかけ、俺の横をすり抜け、早足で階段を下り始める。
 気分はまさしく「ちょ、待てよ」、慌てて中野を追いかける。
 怒りに任せ階段をずんずん下りて行く中野。
 しかしその背中を追いかけながら、俺はこの上ない幸せを感じていた。頭の中で、先程の中野の言葉を反芻する。
 たぶん、中野は俺のことが好きなのだ。
 そして、俺も中野が好きだ。
 ぼんやりと始まった俺の恋が、今ここに実ろうとしている。
 自然とニヤつく口元を引き締めながら、俺は思う。
 これも全て、本を正せば、セガのおかげである。

 6

 こうして俺達二人は始まった。
 数少ない学友の一人に中野と付き合い始めたことを打ち明けると、「後悔先に立たず」だの「蓼食う虫も好き好き」だのとこき下ろされたが、最終的には「割れ鍋に綴じ蓋」と言って祝福してくれた。なぜ諺ばかり用いるのかと言うと、そういう奴だったからである。
 卒業してからも俺達の仲は続いた。俺は小さなシステム会社でSEに、中野は広告代理店の営業として働き始め、一年経った春の日に、俺達は東中野駅の近くにある小さなマンションを借り同棲を始めた。
 中野は寝ている間の歯ぎしりが酷い。一緒に暮らし始めた頃はそんな些細な理由で「やっぱ同棲なんかするんじゃなかった」と後悔する日もあったが、それでも楽しかった。喧嘩もするけど、翌日にはどちらかが謝ってすぐに終わった。謝罪の割合で言うと、俺が六割、中野が四割。なかなか健闘していた方だと思う。
 働いて、食べて呑んで、ゲームして、タツヤのライブ行って、ブロードウェイでフィギュア見て、セックスもして。笑って、怒って、たまーに泣いて、それから一緒に喜んで。そんな感じに二人で暮らしているうちに、あっという間に6年が過ぎ、俺も中野も30手前になった。
「籍入れようか」
 と口火を切ったのは、俺である。土曜日の昼下がり、東中野のマンションで焼きそばをつくっていた時のことだ。夏の盛りだった。
 フライパン片手に肉とピーマンを炒めていた。背後には、冷蔵庫から麦茶を取り出そうと手を伸ばす中野。どうしてそんなタイミングでプロポーズする気になったのかは、今以て謎である。
「え、なんつった」と訊き返す中野。
「籍、入れようよ。俺じゃ嫌?」
 菜箸で肉を転がしながら、チラと中野の顔を盗み見る。緊張のせいか、コンロの火による熱気のせいか、俺の額には玉の汗が浮いていた。
「……嫌かも」
「えっ!?」
 驚き、中野の顔に向き直る。見ると、にやにやと赤い唇が弓形に歪んでいた。
「私、中野って苗字嫌いなんだよね。子供の頃から結婚したら旦那の苗字にしようって思ってた。もっと派手な名前がよくて。だけど中埜と結婚したら、ずっとナカノじゃんっ」
 麦茶の入ったペットボトルを手に、あははと笑う。
「仲野タツヤと結婚したってナカノじゃん」
 俺が不機嫌そうに答えると、
「あ、そっか。じゃあ、いいや」
 くすくす笑いながら、背中に抱きついてきた。汗の流れ落ちる背中に中野が頬を寄せる。
「ありがとう。どうもサンキューね」
 そう言って、中野は俺のプロポーズを受け入れてくれた。
 実は極度に緊張していた俺はようやくホッとして、ニヤニヤと口元を緩ませながら、焦げゆく肉塊と野菜屑を延々と転がし続けたのである。

 中野が事故に遭ったのは、プロポーズの翌月のことだ。
 互いの両親への挨拶や入籍の日取りなど、結婚の準備を進める中、中野が「婚前旅行、行ってきていい?」と尋ねてきた。幼馴染とバスツアーで箱根に一泊したいのだと言う。
「箱根ならロマンスカーで行った方が早いのに」
「バスツアーって何か新鮮じゃん。途中でお土産物屋でソフトクリーム食べたりすんの」
「え、いいなぁ。俺も行きたい」
「だめだめ。女だけの婚前旅行なんだから。あれよあれ、ハングオーバーでやってたバチェラーパーティーみたいな」
「出張ホストでも呼んでハメ外すつもりか」
「うへへ、どうでしょう。それは秘密です」、下品な声で笑う。
 バチェラー(独身男性)パーティーとは、新郎とその友人が集まって独身最後の夜に羽を伸ばすパーティのことである。つい先日、二人で観た映画「ハングオーバー! 消えた花ムコと史上最悪の二日酔い」にこのバチェラーパーティーが登場し、中野の記憶に残っていたようだ。ちなみに女性が同様のパーティを開く場合はバチェロレッテ(独身女性)パーティー。
 まさか本当に出張ホストを呼んで破廉恥行為に及ぶつもりでもないだろうが、俺は少々、この箱根行きには反対だった。単に置いていかれるのが面白くなかったせいだ。
「でもなぁ色々準備もあるし。入籍後じゃ駄目か?」と渋い顔。
 しかし、
「それじゃあ独身パーティになんないじゃんっ」
 楽しそうに笑う中野に押し切られ、俺は不承不承、箱根行きを承諾した。

 そのツアーバスが衝突事故を起こした。
 小田原厚木道路を走行中、バスは弁天山トンネルの中程で壁に突っ込んだ。原因はドライバーの居眠り運転による。猛スピードで壁に激突した車体はひしゃげ、ぶつかった左手側が真ん中を中心にぐっとへこみ、窓ガラスは全て割れた。
 ツアーバスの運転手と乗客含め36人中9人が死んだ。そのうちの一人が窓際の席に座っていた中野だ。
 隣に座っていた幼馴染は無事だった。しかし葬式の朝、中野の両親に「タイヤの近くは揺れて酔いやすいからって、直前に有ちゃんに席を替わってもらったんです」と土下座しながら号泣する姿は痛々しく見ていられなかった。彼女もまた、顔の左半分に大きな傷を負っていた。
 俺が中野の実家を初めて訪れたのは、中野の通夜当日、日中のことである。事故後、遺体の検死が終わり中野が実家に戻ってきたのが事故から二日後のことで、その翌日は友引だったから、通夜はさらにその翌日に行われた。
 事故が起こった後、中野の両親から俺に連絡が届くまでには時間を要した。結婚前ということもあり、第一報が中野の父の働く市役所に入ったためだ。不義理な俺は、それまで中野の両親に挨拶をしたことが無かった。だから俺の連絡先を両親は知らなかった。

 本当は来週行くはずだった、挨拶しに。
 攻殻好きのお父さんと、優しいって言ってたお母さん、それに生意気だけど仲良しな妹に、二人で挨拶しに行くつもりでいた。
 俺の鳩ヶ谷に住む両親の元へは、一足先に中野を連れて行ったばかりだった。いつも真っ赤な口紅にまつ毛だって盛り盛りのくせに、その日は薄化粧で服も地味。まるで中野らしくない姿に俺は笑った。中野は緊張していた。俺の父と母、それに根暗の兄は「お前にはもったいない」と中野を絶賛した。中野は緊張していた。俺は――

 通夜当日の昼間に、納棺式が行われた。遺体を清め、棺に入れる。優しい中野の両親は、俺が立ち会うことを許してくれた。初めて訪れた中野の実家で、リビングから続く和室の上、白い布団に横たわる中野を見た。「奇跡的に、傷は少なかったのよ」と中野のお母さんが教えてくれた。顔には大きく内出血による痣のようなものがあったが、化粧で上手く隠されていた。
 肌はますます白く、閉じた瞼は落ち窪んでいた。唇は艷やかなピンク。だから俺は、その屍が中野のものとはどうしても思えず、一粒も涙が出てこなかった。今もどこか別の場所に中野はいる。遺体を前にしても、そういう気がしてならなかったのだ。
 手や顔にそっと触れてみる。ドライアイスで冷やされ、身体はひんやりと冷たい。掌を押し返すわずかな弾力がある。表皮は妙に滑らか。本当にこれが、あの中野だろうかと疑問に思う。
 だけど左手の薬指には銀色の指輪があり、鈍い光を放っていた。金属アレルギーの中野のために医療用ステンレスで作った結婚指輪だ。俺も同じものをはめている。だとすると、やっぱりこれは中野なのか?
 遺体を棺に納める納棺式は、女性納棺師によって執り行われた。その間中、チーンとおりんを鳴らす大役を任された俺は、式の間中とにかく、おりんの音を絶やさぬよう必死だった。チーーーーンと音が消える前に、再びチーーーーン。音が消える前に、さらにチーーーーン。これを40分近くある納棺式の間、繰り返す。立ち会った中野の両親も妹も祖母も、ひっくひっくと肩を揺らして泣いていた。だけど俺は、このおりんの音をキープするのに必死で、ちっとも泣けなかった。それにおりんを鳴らすのに夢中だったから、何が行われたのかもよく覚えていない。
 チーーーーン、チーーーーン、チーーーーン――

 棺に入った中野の屍は、通夜、葬儀、出棺、火葬を経てあっという間に白い骨になった。
 俺はここでも中野の骨を砕いて骨壷に詰め込むという大役を任された。木の棒を使い、脛骨を粉砕し、大腿骨を粉砕し、骨盤を粉砕し、肋骨を粉砕し、上腕骨を粉砕し、肩甲骨を粉砕し、鎖骨を粉砕し、頸骨を粉砕し、最後に大きな頭蓋骨を粉砕する。しゃく、しゃくしゃく、と手に伝わる感触は意外にも心地よい。中野の好きだったエビ味のふわっとおかき、あれを割っている時の感触に近かった。
 しゃくしゃく、しゃく。しゃく、しゃ――

 7

「おっかしぃなぁ」
 言いながら、中野 怜がまだトートバッグの中身をかき混ぜている。ここでようやく話は戻り現在である。中野の妹の中野 怜から、中野から荷物を預かっていると言って呼び出されたここは、中野の居酒屋「NAKANO」だ。
 なんでも中野は、俺との結婚を前に実家の荷物を整理していたそうだ。自分の部屋にあった私物を捨てたり残したり。その中に、いくつか人にあげるための物があったそうで、「スズキさんへ」などと送り先が書かれた付箋の貼られた品が見つかった。几帳面な中野らしいな、と俺は思う。
 その中で「これはナカノに!」というメモと共に残されていたのが、例の井上トロのフィギュアだったという。しかしやっぱり「なぜ、この俺に井上トロを?」と首を傾げざるを得ない。
 もしかすると「ごめん、実は私、ソニーが忘れられないの。だから貴方とは結婚できないわ」というセガ派の俺への決別の報せのつもりだったのか。謎は深まるばかりである。
「あ、ごめんなさい。付箋ついてたの、こっちだった」
 そう言って、中野 怜がトートバッグから別のフィギュアを取り出した。
 見覚えがある。俺は言葉を失った。
 真っ暗な夜道。
 ジャイアンに殴られボロボロになったのび太の身体を支えているのは、両眼から涙を流し穏やかな笑みを浮かべる――
「ドラえもんの、」
 名場面である。
「のび太みたいだよね」
 不意に、あの日の中野の声が耳に蘇った。
 喉の奥が締まる。唇がぶるぶる震える。目玉が溶け出すみたいに熱い。肩が勝手に動く。胸が苦しい。
 俺は「うぅ」と小さく唸って俯いた。テーブルの上に小さな水溜りが、ぱたぱたと広がっていく。
「お姉ちゃん、これを、中埜さんにって」
 中野 怜も声を詰まらせた。話を続けることができなかった。
 俺はその日、中野が死んでから初めて声を上げて泣いた。

 君はまだ俺に頑張れと言うのか。
 この残酷な世界に、俺を置いて行ったくせに。

 8

 中野 怜と別れた後、中野駅の北口に移動しアーケード街を北上していた。鞄も持たずに家を出たものだから、右手にはドラえもんとのび太がいる。
 中野が死んでから一ヶ月経った頃、俺は仕事を辞めた。周りの人間はひどく同情的で休職を勧めてくれたが、どうしても仕事を続ける気になれなかった。
 無職の俺はデニムに薄手のパーカー姿。ふらふらと商店街を歩いている。もう長いこと髭も剃っていないから、さぞ汚らしい風貌だろう。道行く人も、心なしか俺を避けているように思う。
 中野と何度も往復したその道を、今は一人で歩いて行く。歩きながら、考える。
 俺達はどこで間違った、俺はどこで間違った?
 あの日、君を行かせなければよかったのか。俺も一緒に行けばよかったのか。「ハングオーバー」なんか観なきゃよかったのか。プロポーズなんてしなければよかったのか。一緒に暮らさなければよかったのか。君の誘いに乗らなきゃよかった? 中野に来なければよかったのか。ノート当番の約束なんて交わさなきゃよかったのか。授業中、君の横顔に見惚れなければよかったのか。
 出会わなければ、今も君は生きて笑っていたんだろうか。たとえ俺の傍にいなくても。

 やがて見えて来たのは、赤に白字ででかでかと描かれた「NAKANO BROADWAY」の文字。
 その看板を見上げながら、俺はタイル貼りの路面に膝をついた。涙を流し続けた。通行人が狂った俺を蔑んだ目で見下ろした。大声で吠えた。

 ソニック・ザ・ヘッジホッグはどこだ。
 マリオはどこだ。
 クラウド・ストライフはどこだ。
 仮面ライダーはどこだ。
 ウルトラマンはどこだ。
 アンパンマンはどこだ。
 鉄腕アトムはどこだ。
 サイボーグ009はどこだ。
 パーマンはどこだ。
 モンキー・D・ルフィはどこだ。
 孫悟空はどこだ。
 犬夜叉はどこだ。
 エドワード・エルリックはどこだ。
 ソリッド・スネークはどこだ。
 ネイサン・ドレイクどこだ。
 スパイク・スピーゲルはどこだ。
 草薙素子はどこだ。
 ルーク・スカイウォーカーはどこだ。
 キャプテン・ピカードはどこだ。
 アンガス・マクガイバーはどこだ。
 ハンニバル・ジョン・スミスはどこだ。
 涼宮ハルヒはどこだ。
 うずまきナルトはどこだ。
 坂田銀時はどこだ。
 空条承太郎はどこだ。
 風助はどこだ。
 オプティマスプライムはどこだ。
 アイアン・ジャイアントはどこだ。
 バットマンはどこだ。
 スーパーマンはどこだ。
 アベンジャーズはどこだ。
 ドラえもんはどこだ、ドラえもんはどこだ、ドラえもんはどこだ。

 誰でもいい。なんならドクター・エッグマンでもクッパ大王でもいい。
 誰か中野を助けてくれ。誰か中野を戻してくれ。
 どうか俺の心を救ってくれ。
 狂ったふりを続けながら、それでもどこか狂いきれない頭を持ち上げ、俺は看板をもう一度見上げる。そして君に呼びかける。
 君みたいな人が他にいるはずないんだ。この先どうやって生きればいいのか分からないんだ。もう呼吸すら上手くできないよ。歩くこともできない。中野、中野、お願いだ。どうか俺を――
 返事はない。だって君はもうただの屍だから。

 けれど俺は、この場所に来る度にきっと君を思い出す。
 たとえこの街にミサイルが落ちて破壊し尽くされたって、ここに立てば必ず君を思い出す。冷たい墓なんかじゃなく、この場所に来る度、鮮やかに、君を。
 中野、中野。
 俺の愛した――

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