『会社員』最後の日に、FIREにいたるまでの心情をお話させてください。
僕は、明日2021年11月1日にFIREします。
今日は、11年間の会社員人生の最後の日です。
この節目に「なぜFIREすることになったのか?」を書きとめておきたいと思いました。
僕の経験はちっぽけかもしれないですが、同じ苦しみを味わいながら働いている人、これからFIREを目指す人にとって、少しでも助けになれば良いなと考え、以下の4つの教訓を残すことにしました。
1.『経済的独立(FI)』は重要
2.『サステナブルな働き方』はもっと重要
3.『会社員』であることがリスク
4.それでも『会社員』で良かった
記事の性質上、長時間労働やパワハラを受けた話など少し暗い話題もありますが、なるべく重くならないように書こうと思いますので、どうぞよろしくお願いします!
(かなーり長いので、適当に流し読みしてくださいね)
1.『経済的独立(FI)』は重要
僕は、入社当時から『仕事』が好きでした。
希望の製造メーカーに入社し「大きな仕事ができる!」とどちらかというとモチベーションの高い新入社員で、周りから若干浮いていたように思います。
望んだ部署ではなかったけれど、それでもやりがいのある仕事でした。
いつか望んだ仕事をしたいという気持ちもあり、はやく即戦力になりたかったです。
自慢できる話ではないですが、入社から6年くらいは、朝から晩まで、さらに休日も働いたり自主勉強をしていました。
当時はそれすらも誇らしくありました。
ですが。
僕は、今ではサステナブルな働き方が重要だと考えています。
その理由については後ほど話しますが、まずは僕がFI(経済的独立)を目指すきっかけとなる出来事について書いておきます。
僕は、約11年の会社員人生のうち、約2年間を長期出張で過ごしました。
製造業の設計部門にいたので、長期出張と言えば試運転のことで、現地に行くことになります。
現地では、土曜日の出勤がデフォルトでした。
さらに、お客さまや現場部門からのプレッシャーが強く、本社部門の監視もなくなるため、労働時間は青天井です。
朝6時に集合し、昼休みは20分、夜中の12時をすぎても仕事をしていました。
そのときにサビ残月120時間や残業200時間を3ヶ月連続で記録しました。
自慢するつもりは毛頭ありません。
むしろ、愚かな話として聞いていただきたいです。
僕は、過労のあまり高所で意識が朦朧として、落下しかけたことがあります。
安全帯をしていたので大丈夫でしたが、一歩間違えれば、夜空にきらめく星になっていました。
また、真夏の現場で激しい頭痛と強烈な吐き気が襲ってきたこともあります。
僕は病院に運ばれて、点滴を受ける羽目になります。
このとき一番驚いたのが、次の日に上司が僕のホテルを訪ねてきて、差し入れとしてノートPCを持ってきたことです。
これまで決して許されることがなかった在宅勤務があっさりとスタートしました。
この2年間、働く場所の選択権はなく、自分の時間さえほとんどありませんでした。
自分の人生を自分でコントロールできない。
この経験で、僕は打ちひしがれました。
さらに歯がゆかったのは、周りの反応です。
父親に相談すると「会社はそんなもんだ。どこも同じだから頑張れ」と激励を受けた。先輩からも「サラリーマンだからね」とだけ言われました。
極めつけは出張から帰ってきたとき、やる気のない後輩から言われた一言です。
「ベアさん社畜だからしょうがないっすよね」
心無い言葉だった。
だが、僕に否定する術はなかった。
僕は、まさに自由を奪われて、滅私奉公するただの家畜。
奴隷です。
自分でも思っていただけに、本当に悔しかった。
「会社員だから」
それは、わかってる。
頭ではわかってる。
でも……。
『会社』は個人の痛みを理解しようとはしてくれません。
スローガンやIRには耳障りのいい言葉を並べたてますが、いざというときに少しも守ってはくれません。
少し大袈裟な表現かもしれませんが、このままだといつか『会社』に殺されるのではないと思うようになりました。
もしそうでなくても、このままコントロールが効かない人生が40年間続くと思うと、毎日怖くて眠れなくなりました。(このときから僕はドリエルがお友達になります。)
そして、ある夜。
僕は、自分の人生は自分でどうにかするしかない。
そういう結論に至りました。
それから、たくさんの本を読みました↓
特に『金持ち父さん貧乏父さん』には大きな影響を受けています。
本の詳細はここでは述べませんが、この本にはFI(経済的独立)について書かれてあります。
当時の僕は、彼女(今の妻)はもちろん、自分のことを養っていくだけの資力はなく、会社に通う以外の選択肢を持っていませんでした。
だからこそ場所の選択権も時間の自由もないのです。
それ以来、ある本の言葉をスローガンにしてきました。
「ノー・マネー、ノー・フリーダム」
誰しもお金がなければ、自由などないのです。
僕は、人生の前半の目標のひとつにFI(経済的独立)を目指すことに決めました。
僕にとって、それは奪われた自由を取り返すためのレジスタンスでした。
2.『サステナブルな働き方』はもっと重要
2021年1月。
世界的な株価の上昇も手助けとなり、僕は運良くFI(経済的独立)を達成しました。
社会人10年目。投資をはじめて7年が経ったときでした。
そして、僕はさらにFIREを目指し始めます。
ご存じの方もいるかもしれませんが、FIREには複数の解釈があります。
1つは『Financial Independence Retire Early』で『経済的独立&早期リタイア』という意味です。経済的独立したあとに仕事を辞めるタイプのもの。
もう1つは『Financial Independence Remain Employee』で『経済的独立して働き続ける』という解釈です。
僕は、期日を決めて前者の準備を進めながら、内心では後者のFIREを目指していました。
早期リタイアできる状態で仕事を続けて、社会とのつながりをもっていようと考えたわけです。
しかし、冒頭に述べたとおり、僕は明日、早期リタイアとしてのFIREをすることになりました。
なぜ、僕が会社を辞めたのか?
結論だけ先に言っておくと『仕事』は大好きでしたが『会社』が大嫌いになってしまい、働く気力さえもなくなってしまったからです。
僕は、5年目で希望する部署に異動しました。
就活のときから憧れていた飛行機開発の部署です。
僕は念願叶ったことで、参考書を大量購入し、休日や長期休みも勉強する日々を過ごしました。
しかし、これまで経験のない分野でもあったため、ミスすることもありました。
僕は大学の専攻が土木なので、ミスをするたびに上司が「お前は土木出身だからな(飛行機のようなセンシティブな設計はできないよな)」といびられていました。
『指導』は日に日にエスカレートします。オープンスペースで怒鳴るのは日常茶飯事。
ひとつエクスキューズすると、僕の担当する部品は日本で初めて開発する部品で、社内にも経験者がいませんでした。会社だけでなく日本のどこにもノウハウがなかったわけです。
にもかかわらず、上手くいかないことがあると「ボーナス返上!」と書類で机を叩きながら言われたり、30人以上の若手を集めて僕1人だけ説教を受けて反省の弁を述べさせられたりしました。
金曜日に無理難題を出されて『土日どうすんだ!』と怒鳴り散らして休日出勤を誘導(強要?)したりもありました。
いま思い出してもつらい日々です。
ですが、僕は飛行機開発がやりたいことであったこと、使命感と責任感、そして、自分にも否があると思い込み(毎日「お前はダメだ」と言われたことで半洗脳状態にありました)、感情を殺して仕事を続けてきました。
それから1年が経ち、僕の部品は無事に納入し、日本で初となるパーツを作り上げました。
その頃には上の気に入る仕事ができるようになったのか、パワハラも落ち着ついてきました。
組織を変える方法は、主に2つあると考えています。
1つはボトムアップ。
そして、もう1つはトップダウン。平たく言えば、偉くなってルールを変えることです。
僕は、恥ずかしながらどちらも目指していました。
そして、10年目にマネージャー試験に受かり、駒を前に進めることができました。
ですが、偉くなったから組織を変えられるかというと、それは違うと思うようになりました。
むしろ、中間管理職になればなるほど、余計に自分を殺して、我慢して物事を進めなければならないことを知っていました。
矛盾や不条理に声をあげず、流されて仕事をするほうが評価が高く、個性が強い人は爪弾きに合う。
プライドを捨てて、そうすればいいのだけのことです。
ですが。
我慢をしてまでやりたいことでしょうか?
でも。
僕は。
そもそも。
純粋に。
やっぱり設計が好きでした。
『仕事』が好きでした。
文句ばかり並べたてていますが、大きなモノを作ることは、心から楽しかったです。
何もなかった場所に新しいモノを作り出す。
Googleで検索しても出てこない答えを探す。
こんなに尊くて、素晴らしいことはないのではないだろうか?
いつしか、僕は設計で個性を出せば良いと思うようになっていました。
マネージャーになった人たちがしてきたように会社での不条理に折り合いをつけて、だましだましでも会社を続けながら、チャンスがあれば組織を変えてやろう。
そう思うようになっていました。
そんな矢先。
また、パワハラを受けてしまいました。
僕はエンジニアとして技術的な議論をしたくて自分の意見を言ったのですが、上は生意気だと思ったのか、議論する余地もなく「とにかく従え」と怒鳴りました。
さらに、昔のことを掘り起こして、ねちねちと言ってきたのです。
現在のことであればまだしも、もうすでに終わったことです。タイムマシンがあれば別ですが、今の僕には変えようのないことでした。
彼らの主張は、今までしぶしぶ僕の技術的な提案に合意していたということらしかった。
過去にも同じ表現で何度が罵られたことがありましたが、そのことを「むりやり強姦されて合意した」と表現していました。
(納得していないのに、むりやり責任を押し付けられたという意味あいらしいですが、上に立つものとしては、非常に下品な表現です。)
僕は、真摯に仕事をして結果も出しており、レイプ犯扱いされる所以はありませんでした。
しかも、その場には女性も若手もいました。
ですが、周りの人たちも彼らが怖いのか、咎めることはしませんでした。
会社は聞き分けがよく、口答えせず、自分の意見に近い、優秀な軍隊アリだけを求めていました。
この多様性の時代に時代錯誤な組織。
個性は認めない、クローズドな風土。
正解主義、前例主義、事なかれ主義がまかり通る雰囲気。
僕は『会社員』としてだけでなく『エンジニア』としても自分を偽り、飼い殺されて、不毛な議論に時間を費やさなければならないのか?
そう思うと、もう耐えられなかった。
そのとき、2つのことが僕を助けてくれました。
1つは、嫁が「心にムチを打ってまで、行く価値のある会社ではないんじゃない?」と言ってくれました。
そして、もう1つ。
僕はそのときFI(経済的独立)を果たしていたのでした。
会社でのひとつひとつの出来事は小さいことかもしれないですが、それが11年間続くと、ちくちくと刺された結果、無数の小さな穴が空いてしまっていました。
やる気を注いでも、そのやる気は貯まることなく流出し、僕はもう一歩も進む気がなくなってしまいました。
これまでの11年間、生き急げるだけ生き急ごうと思っていました。
怒られたり、自分の力が足りないことがあるたびに「今回だけは頑張ろう」そう何度となく言い聞かせて、歯を食いしばって、乗り越えてきました。
気が付けば、有休と復活年休は合計90日余っていたし、スキマ時間や土日も仕事や勉強で埋まっていました。
いつからか日曜日になると『会社』がイヤすぎて、嫁に当たることも多くなっていました。
無茶をし続けました。
人生は、楽しむためにあります。
そして、楽しむための手段として『仕事』があるはずです。
それなのにいつしか僕は『仕事』のために人生を生きていました。
とても危険な考えです。
36歳。
リタイアする年齢としては早いかもしれませんが、心身ともに無茶がきかなくなるお年頃でもありました。
ここで、1度立ち止まる必要があると思いました。
そして。
僕は『会社』を辞めることにしました。
『仕事』は大好きでした。
正直なところ未練も後悔もたくさんあります。
まだ設計をしたかったし、子供に仕事をする背中を見せたかったです。
しかし。
どうしても『会社』は好きにはなれなかった。
そして、愛していた『仕事』さえも続けられなくなることがあります。
結局。
『サステナブルな働き方』が重要です。
手を抜けという意味ではありません。
全力を尽くすべきです。
しかし、刹那的な働き方ではなく、休む時は休む、そして、助けてほしいときは助けてほしいと素直に言う、ときには逃げたってかまわないです。
自分のせいだから自分自身でどうにかしてやろうとか、自分が組織を変えてやろうとか、そんなことは考えないほうが良いです。
なぜなら、FIを果たす前に、自分が力尽きてしまったらそこでオシマイだからです。
1章で言ったとおりFI達成は重要です。
ですが、FIを勝ち取る闘いは運も必要です。
FI達成前に力尽きては元も子もありません。
サステナブルな働き方はFI達成のためにも最重要なことだと考えています。
3.『会社員』であるリスク
さて。
僕は、FIREして会社を辞めるわけですが、この立場になってみると思うことがいくつかあります。
特に思うことは『会社員』のままでいることも大きなリスクとなる可能性があるということです。
実際に、投資を批判してリスクを犯していないと口にする同僚が『1つの会社に身を捧げ、ローンでレバレッジをかけてマイホームを買い、円建てのみの貯金をして、老後は年金のみで生活しようとしている』のです。
ほとんどの人が『会社』と『国』に頼る選択しか持っていません。
これは、非常にハイリスクです。
また、昨今はコロナにより新たなリスクがあぶり出されました。
総じていうなら『会社』は変化に弱いということです。変化できずに、このままゆるやかな死を待つ会社もたくさんあるでしょう。
今の時代は『会社』が変わるのを待つのではなく『個人』が積極的に変わるしかありません。
会社にとって僕らがただの駒であるように、僕らにとっても『会社』は所詮ツールなのです。
会社も上手に使えば、人生を効率的に生きることができます。
たとえば、福利厚生や給与、残業代、教育、そして、人との交流、やりがい。
僕はツールに過度な期待をしていましたが、これが悪かったように思います。
そして、ツールなのだから使いにくければ、変えたってかまいません。
会社を飛び出してみて思うことは「これまで、なんてくだらないことでくよくよと悩んでいたんだろう」ということです。
さっさと辞めてしまってれば良かったとさえ思います。
また、少し蛇足になりますが、僕は『会社』だけではなく『国』もいつしかツールと思うようになりました。
「給付金をよこせ」といくら叫んでも『国』に僕らの痛みなど1ミリも通じません。
それならば『国』などには期待せず、いっそ僕らから距離を置かなければなりません。
今では、国籍を変えるのだって難しくない時代です。
僕は『会社』からも『国』からも独立して生きることを生涯の目標に据えています。
FIREというと、南の島で遊び尽くすイメージがありますが、そうではありません。
FIREは『会社』から離れることで、リスクを減らすためのひとつの手段です。
FIREは『会社』から『個人』を分離した生き方を模索するライフスタイルです。
僕は『会社』からは独立しましたが、子供の教育や健康保険、言語、貨幣など『国』に多くを頼っています。
これからは『国』からの独立が課題だと思っています。
(FIREの次の目標としてはPT(永遠の旅行者、Perpetual Traveler)と考えています!)
4.それでも『会社員』で良かった
最後になりますが、それでも僕は『会社員』であれて本当に良かったです。
なぜなら、学生時代のちゃらんぽらんな僕ではFIREなど到底達成できなかったからです。
仕事は、絡まった無数の糸を緻密に1つ1つしぶとく解いていくような作業です。
そのために、今のリソースを把握し、限られた時間で最適な解を見つけて、リソースの投入場所やタイミングを決める。
すべて1から学びました。
会社に育て上げてもらいました。
本当に感謝しています。
また、かけがえのない人たちに会いました。
人を貶めるのは人です。
ですが、人を救うのも人でした。
落ち込んでいるときやパワハラされているときに、手を差し伸べてくれた人が何人かいました。
辞めるときにも、真剣に止めてくれた人たちがたくさんいました。
僕は、彼らを今でも愛しています。
大きな仕事を完遂したとき、誰かと喜びを分かち合えるというのはほんとに幸せなことです。
一人ではなく、共に喜びあえる人がいるからこそ、幸せなのだと心から思いました。
とてもかけがえのない日々でした。
人は『お金』ではなく『人』からしか幸せは得られないのだと迂闊な僕は『会社員』になってようやく知りました。
まとめ
僕はFIREすることで『会社員』という生き方を否定したいわけではありません。
『会社員』も時代の変化と共に変わっていくべきだと考えており、僕の場合はたまたまそれが早期リタイアだったということです。
現代の時代の変化に『会社』はついてこれないことが多いです。
そうなると『個人』が変わるしかありません。
そのために『会社』をツールとして使用するというスタンスが重要です。
そして、この『会社』は『国』と置き換えることもできます。
まずはFIを目指すべきです。
そして、次にFIREやPTも視野にいれましょう。
また、僕が言うことではないかもしれないですが、仕事はできる限り続けられるようにサステナブルな働き方をしましょう。
僕は、FIを運よく果たしましたが、もしそうでなかったら、ただ路頭に迷うだけでした。
では、どのようにFIやFIREをしたら良いのか?
それについては、これまでのnoteにも書いてきました。
ですが、ここで1度記事を体系的にまとめておこうと思います。
そして、FIREの初日である明日に公開します。
ぜひ見てください↓
また、これから僕はできるだけ多くの人にFIやFIREしてもらえるように、初心者から上級者までに役立つ情報を発信し続けます。
長い記事を読んでいただき、ありがとうございました。
これからもよろしくお願いします!
最後に簡単なプロフィール
最後になりましたが、簡単なプロフィールを載せておきます。(FIRE達成時点)
■ 投資開始年齢 : 27歳
■ FIRE達成年齢 : 36歳
■ 家族構成 : 妻&子供0歳
■ FIRE達成時の資産額 : 約8,000万円
■ 資金作りの方法 : ①日米個別株 ②REIT ③インデックス投資(オルカン) ④仮想通貨
■ 現在の収入 : 投資
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初版:2021年10月31日
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