言葉は有限、だけど解釈は無限
両親から口酸っぱく言われてきた数多ある”お小言”の中でも、唯一大人になってから意味を理解した言葉がある。
「自分の意見が正論だろうが、どんなに理路整然に言おうが、相手を傷つけててしまったら意味がない。
そこまでして言いたかったことは、ただ口から出してぶつけるため?
”相手に伝えたくて”、考えたものでしょ?」
些細にも感じていたこの教えは現在の私の支柱となっている。
毎日多くの人と関わるひともいれば、自分に向き合い黙々と仕事に勤しむひともいる。
関わり合う人の数は違えども、働く中で他者が関与する怒りやイライラに疲れる日が一度もなかったなんて、奇跡の人はきっと少ないだろう。
”言い争いができる”ことにまで発展すれば上出来だ。世の中には、自分の意見を飲み込み、吐息をつきながら過ごす人が沢山いることを、薄っすらと誰しもが知っている。
そんな中、今振り返ると良くも悪くもだが、私の職場は発言の自由な環境にあった。
新卒で配属された営業部。図に乗るスピードは誰よりも早いところがあるので
仕事をするうちに当初の初々しさは消えていき、ものの1年もすると一丁前に上司と意見を交わせるようになった。
いや、交わしてなんかない。
むやみやたらに自分が正論だとアピールしていた。
仕事の結果やプロセスを認めてほしいとき、なにかトラブルがあったとき、報連相をするとき、
「私はこういう風に考えたから、正しいですよね?」
「私は正論を言っていて、向こうが間違っている。」
相撲部屋での、壁に向かっての一人ぶつかり稽古のよう。相手への伝え方を無視した訴えばかりだった。
その当時の上司(チームリーダー)は、営業部の中では珍しく非常に穏やかで、優しいが故の優柔不断な男性だった。
「お前の意見はわかっているけれどね」
「部長がNOといっているからしょうがない」
この煮え切らない口癖にいつも私はイライラしていた。
2社の相見積もりで十分なのに「何かあったときに」と、4社は取るようなひと。危ない橋が嫌いで、それでいて決め切らないようなひとだと当時の私は思っていた。
頭の固い部長と小生意気な部下の間に挟まれ、苦悩の日々だっただろう。
強く言わない彼の性格の良さに甘えてしまっていた。だからこそ、そのポジションを果たす羽目に追い込んでしまったんだと思う。
「正論だ!」と訴える部下からの強い言葉は、受け手には「暴力」だったに違いない。
実際に、その暴力の重さに気付いたのはそれからずっと後の事だ。
どんなことでも“する側”ではなく“された側”の方は根深く記憶に残る。
あれは年次を重ねて、いつしか一人で仕事をしてる感覚に酔っていたときだった。例の上司からの命により、新卒入社の後輩が部下として入ってきた。
年齢はさほど変わらない同性の後輩を教育することは、DEAD or ALIVEだと思う。(特に女性同士だと・・私見過ぎるだろうか・・)
毎日後輩からの直球勝負でくる「認めて欲しい」という純真たる想いが詰まった正論攻撃にほとほと疲労してしまっている自分がいた。
そして今となってみれば「どのツラ下げて!」とツッコミたくなるのだが、当時の私はどう後輩を指導するべきか悩んだ末、かつての上司に相談を持ち掛けた。
笑いながら、彼は一言答えた。
「本当にちゃんと、話を聞いているか?」
後輩の伝えたい想いを理解している?
その上で叱ったり、理解させたり、”指導”をしている?と、上司の目に書いていた。
「勿論です」と即座に答えるより先に、ふと口をつぐんだ。
どこかで後輩が人として苦手になり、嫌気がさしてしまい、意見を聞きつつも注意することに疲れていた後ろめたさがあったからだ。
そこでやっと気付いた、目の前にいる後輩はかつての自分なのだ、と。
なぜ、そこまで必死に正論を周囲にアピールしていたんだろう。
結局は自分で自分を守っていたのだろうか。
信頼がある人は多くを語らずとも周囲はついてくる。それはある意味、時間がかかるものかもしれない。
けれど、本当にコミュニケーションが取れていれば、言葉はそんなに多くは必要ない。自分の実力が足らず、それでもプライドを保ち周囲に認められたい私の訴えが、”正論をぶつける”ことだったのだろう。
その上司は、どんなに意見をぶつけた時でも最後まで話を聞いた上で叱咤激励をしてくれた。
そして、最後の最後に、誰かに身をもって「折られる」時の大切さも教えてくれていた。
煮え切らず頼りなく見えた上司の姿は、ずっと大きいものだったことに退職した今なら気付ける。
近頃、ツイッターのハッシュタグ#Me tooの事で話題になることが多い。
性別や年齢・環境によって産まれたモラハラ・パワハラ・セクハラがそこにあり、ハッシュタグに込められた女性たちの声は哀しく、同じ女性として悔しいものばかりだ。
ただ、「この一連の女性による#Metooの行動は、正義なのか?」とも思う。もちろん今まで挙げることができなかった【声】たちが、世界の一人一人の勇気に触れて立ち上がる素晴らしい行動には違いない。
ただ、流れ行く“棘だらけのタイムライン”を下にスクロールし続けていると、同情と共に鬱々しい気持ちにもなる。
それほど、誰かの強い主張や正論というものにはパワーがある。時にはそれが被害者ということを忘れてしまう程の、強さを感じてしまうのだ。
その強烈な強さは武器になっているんじゃないだろうかと心が騒めくのだ。
ITの進化の恩恵で顔も知らない誰かの言葉を受け取ることが簡単になったし、自分の手から全世界に声をあげることができるようになった。物事は良いようにも悪いようにも捉えられる。だが、
語る主体はどこに、また語られる批判はどこに向かっているのか。
結局のところ、正論ばかりを言っていると相手を否定しつづけて横に広がるあらゆる可能性を潰すリスクは間違いなく在る。
言葉は有限だけれど、解釈は無限だ。
だからこそ自分の言葉は、口から放出されて手元を離れた瞬間に見たこともない姿に変わる。
行動も同じである。自分の意図した行いが、受け手にとっては予想もつかない意味に受け止められていることがある。
これからも目の前の相手や、はたまた遠くにいる誰かへ”自分”を伝えるために翻弄させられ続けるんだろう。
そのたび「正しい」という海に溺れていないだろうか、と
自分自身に問いたい。
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