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いのちの削ぎ落とし

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短編、掌編小説など。
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#教養のエチュード賞

掌編「鈴虫の鳴く部屋で」

掌編「鈴虫の鳴く部屋で」

「ねえねえ、あれ、見てよ」
 左隣で車いすを並べてこいでいた加奈が、声をひそめておれの腕に軽く触れた。
 おれたちは大通りから細い路地に入ったところにある公園の脇を通りがかっていた。コンビニで今日の晩飯や酒、菓子、そして加奈の愛してやまない成人向け雑誌を買って、ねぐらであるぼろアパートに帰る途中だった。
 公園は周囲をイチョウの木でぐるりと覆われていた。イチョウはすでに目が痛くなるくらいどぎつく色

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つながり

「わ、いいにおい」
 玄関でスニーカーを脱ぎながら彼は声を上げた。印刷会社勤務の彼は週末、作業着をインク滲みや機械油、汗で汚して帰ってくる。
 おかえり。私は乗っている車いすをコンロのそばで停め、鍋をかき回していた。
 先にシャワー浴びといで。私の言葉に彼はうん、と子どもみたいに応じた。脱いだ作業着を直接洗濯機に放り込んだ様子が、脱衣所のすりガラスを通して見えた。
 交際直後、部屋の合鍵をもらった

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短編小説「ゆなさん」

短編小説「ゆなさん」

「ゆなさんって、呼んでよ」
 はじめて参加となった、職場での忘年会。くじ引きでたまたま隣席になった彼女に、苗字をさんづけで呼びつつビールを注いだら、そんなふうに即答された。
 ぼくは瓶ビールをかたむけながら首をかしげた。ゆな。その名は彼女の本名とまったく異なっていた。苗字、名前となんのつながりも感じられない。ひと文字すら重なっていないのだ。
「ゆなさん、ですか」
「そう。みんなからもそう呼んでもら

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