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短編小説「ゆなさん」

「ゆなさんって、呼んでよ」
 はじめて参加となった、職場での忘年会。くじ引きでたまたま隣席になった彼女に、苗字をさんづけで呼びつつビールを注いだら、そんなふうに即答された。
 ぼくは瓶ビールをかたむけながら首をかしげた。ゆな。その名は彼女の本名とまったく異なっていた。苗字、名前となんのつながりも感じられない。ひと文字すら重なっていないのだ。
「ゆなさん、ですか」
「そう。みんなからもそう呼んでもらってるの。お、黄金比率」
 ゆなさんはグラスに注がれたビールを覗き込んだ。確かに泡と液体の割合が絶妙だった。
「上手いじゃん」
「たまたまっす」
「それでもすごいよ。えらいえらい」
 ゆなさんは微笑みながら、ぼくの頭をくしゃっと撫でた。ぼくの手から瓶を取ると、ゆなさんは返杯した。ぼくのグラスにも黄金比率のビールができあがった。
「じゃ、期待の新人直幸くん、これからの活躍、期待してるよ。乾杯」
 ふたつのグラスがくっついた。かちん、とかろやかな音がした。ゆなさんは一気に飲み干した。見ている方が気持ちいいくらいに。
「ごめん、ちょっとお手洗い行ってくるね。まだいてよ。せっかくなんだから、いろいろしゃべろう」
 ゆなさんはグラスを置くと、丸テーブルから離れた。すれ違う同僚や上司と笑顔であいさつをかわしつつ、会場を出ていく。ぼくはその背中をずっと見つめていた。
 ゆなさんの乗る、車いすの背中を。

 大通りから細い路地に入ると、すぐ公園が見えてきた。周囲をイチョウの木々がぐるりと囲んでいる。ああ、もうこんなに色づいてるんだ。やわらかい昼下がりの光を受けた黄葉は、瞳をいたわるように優しかった。
 ぼくは出入口近くに乗ってきた自転車を停めると公園に入った。すぐ右手のあずまやから「よ。こっちこっち」と声が聞こえた。
 ゆなさんだ。
「おひさしぶりです」
「時間ぴったりだねえ。えらいえらい」
「たまたまっす」
 ゆなさんの向かいに座った。おなじようなやり取りを、この四年間で幾度繰り返しただろう。スマートフォンから伸びたヘッドフォンをはずすゆなさんを見つめる。肩までの黒い髪。ぱっちりした瞳。薄い唇。変わらない。でも変わった。頬がこけた。首筋に前はなかった皺ができていた。肩や腕も細くなった。身障者卓球大会で度肝を抜かれた、バックハンドからの強烈な低空スマッシュを放っていた腕じゃなかった。
「ま、乾杯しよっか。コーヒーだけどね」
 ゆなさんは車いすの背もたれグリップに下げたリュックから、ボトルとビニール袋に入れられたマグカップをふたつ取り出した。ゆなさんの淹れたコーヒーはぼくの大好物だ。
 コーヒーが注がれたマグカップを合わせた。こん、と音がした。ゆなさんはコーヒーを愛おしむようにゆっくり飲んだ。こうして好きなものを飲んだり食べたりすることも、もうすぐできなくなるのだろうか。
「なんか、はじめての忘年会の時みたいだね」
「おれもここに来る途中、その時のこと思い出してました」
「ほんと? よく覚えてたね」
 忘れられるわけ、ないじゃないすか。
 その言葉を、コーヒーと共に飲み込んだ。

 ゆなさんがぼくたちの職場であるデザイン事務所兼印刷会社を退職したのは、一か月前のことだ。
 社内で唯一の身体障がい者。でも優れたデザイン力と進捗管理の巧みさで入社後すぐチームリーダーに抜擢された。健常者の後輩たちに厳しくも優しく接し、無理な要求をしてくる男性営業と互角にやり合う姿は、事務室で伝票処理や給与計算をよく間違っては係長に怒られているだめ社員のぼくには、いつだってあこがれの存在だった。
 一年半前、ゆなさんは腎臓を患った。
 通院、入院、体調不良による休みを繰り返すようになった。ゆなさんから出される有給休暇届が目に見えて増えていった。備考欄に書かれた「通院のため」「入院のため」「体調不良のため」の文字から目をそらし、届を処理した。
 苦しみつつ体調管理に努めたのに、ゆなさんの腎臓はよみがえらなかった。人工透析をすることになったのでそれを機に、という報告と共にゆなさんは会社を去った。まもなくその準備のため再入院するという。

「会えませんか?」
 退職して一か月近くたったある日、ぼくはゆなさんにLINEを送った。
「会いたいです。もし体調がよかったら出かけませんか? どこにだって連れていきます。映画だって、美術館だって、ゆなさんの好きなお寺にだって、どこにでも。でもおからだが辛かったら、遠慮せず断ってください」
 既読がつき、五分後に返事はきた。ふたりで会いたい、とぼくがはじめて告げた時みたいに。
「わたしんちの近くの公園で、ぼうっとしない?」

 休日の公園には他に誰の姿もなかった。秋の虫や雀の鳴き声、イチョウの黄金だけがゆなさんとぼくを包んでいた。
 コーヒーを飲みながら、ゆなさんの望み通りぼうっと時を過ごした。ゆなさんはブックカバーに包まれた文庫本を開き、ぼくはゆなさんから借りたスマートフォンで音楽を聴いた。繰り返し流れていたのはマイ・リトル・ラバーの『Hello,Again~昔からある場所』と、バックナンバーの『ハッピーエンド』だった。
「ごめんね。退屈でしょ」
 ゆなさんは弱々しい声で謝った。ぼくは首を振った。ゆなさんといっしょにいて、退屈だったことなんて一瞬たりともない。

「わたし、と?」
 はじめて食事に誘った時、ゆなさんはそう返事をした。出会って一年目。臆病なぼくに必要だった時間。本気で驚いた声だった。
「そうっすよ。どうしてですか」
「だってわたし、直幸くんよりひとまわりも年上だよ。それに……」
 口ごもり、ゆなさんは自分を見下ろした。髪が肩から力なく流れ落ちた。ぼくはゆなさんの前で膝を折った。
「なんか、ゆなさんらしく、ないっす」
「……」
「やっぱ、だめですか」
 ゆなさんは戸惑ったように髪を撫でた。しばらく迷った末、やわらかい微笑みを浮かべ、うなずいた。ぼくはゆなさんの前で跳び上がった。ゆなさんの微笑みに戸惑いが残っていたのに、ぼくは気づかなかった。
 それからふたりで、たくさんの映画を観た。美術館や博物館に行った。ゆなさんの好きなお寺巡りをした。地元のオーケストラコンサートにも連れていってもらった。うたた寝するぼくは、何度ゆなさんから肘で突っつかれただろう。食事や飲みも数えきれないほどだ。ゲームセンターではおそろいでぶたのぬいぐるみも取った。ぶたは今でもぼくの部屋で寝っ転がっている。ゆなさんはまだ持っていてくれているだろうか。

 公園に、ひと組の親子がやってきた。
 まだ学生みたいに若々しい母親と、三、四歳くらいの女の子。向こう側にあるパンダの乗り物に乗せてもらい、はしゃぐ女の子を、ゆなさんはかすかな微笑みとともに眺めた。

 飲み、付き合ってくれない?
 去年夏のある日、ゆなさんの方から誘われた。体調が悪くなっていた頃だった。
 行きつけの居酒屋で、ゆなさんは珍しくやけ気味に飲んだ。仕事でミスを犯したことは人づてに聞いていた。今までのゆなさんだったら絶対にしないミスだということも。
「全部わたしが悪いの。全部……」
 ゆなさんはグラスを握ったまま、下唇を噛みしめた。頬が青かった。心身の疲労と、体調不良は隠しきれなかった。年齢の重なりをはじめて感じてしまった。
 居酒屋を出ると、ゆなさんの車いすである「ヘンナノー号」がふらりと揺れた。ぼくは慌ててヘンナノー号を押し、ひと休みができそうな駅前のバス停ベンチまで連れていった。
「ついに押してもらっちゃったなあ」
 弱いささやきが聞こえた。ゆなさんは自分で車いすをこぐことに強いこだわりを持っていた。ちょっとした段差だったら軽々と乗り越えた。狭い店の通路も物にぶつかることなく操作して進んだ。ぼくが手助けするのは、ゆなさんだけではどうしても越えられない高い段差や急な坂道くらいだった。
 ベンチ横で車いすのブレーキをかけ、ミネラルウォーターを買って戻ってくると、ゆなさんは頬杖をついてうなだれていた。大丈夫ですか。訊きかけた時、ゆなさんの唇が震えた。
 ゆな。
 ぼくはこの時すでに、その名の由来を知っていた。
 古い社員名簿を整理していた時、ゆなさんがぼくの入社二年前、ほんの一時期だけ苗字が変わっていたのを見つけた。驚き、事情を事務室の先輩女性にたずねた。先輩女性はゆなさんと同期で仲がよかった。これはほとんど誰も知らないことだけど、と先輩女性はぼくに教えてくれた。
 ゆなさんがぼくの入社二年前に結婚し、子どもを授かったこと。父親の男性とはその後すぐ別れたこと。ゆなさんはひとりで子どもを育てる決意をしたこと。女の子と事前にわかった時から「ゆな」という名前にする、と嬉しそうに話していたこと。でもその子がこの世界に生まれることはなかったことを……。
 ぼくはゆなさんの前にしゃがみこんだ。ゆなさんの膝に手を置いた。ふたり同時に息を飲んだ。ゆなさんは突然のぼくの行動に。そしてぼくはゆなさんの動かない両脚が、こわれそうなくらい細かったことに。
「ゆなさん、おれ……」
 喉がつまった。続く言葉が出てこない。ゆなさんの膝があたたかい。動かなくても、歩けなくても、ちゃんと血が通っている。
 ゆなさんが、ぼくを見つめていた。
 ゆなさんを抱きしめようとした。でもその直前、ゆなさんの手がぼくのそれに重ねられた。ぎゅっと握りしめられた。熱い。湿った風がゆなさんの黒髪をなびかせた。
 ゆなさんは膝から、ぼくの手をはずした。
「今日はごめんね。こんな酔っ払いに付き合わせちゃって。でも、ありがとう。よく頑張りました。えらいえらい」
 ゆなさんはぼくの髪をくしゃくしゃと撫でまわすと、ふっと息をついた。もう、いつものゆなさんに戻っていた。
 また来週ね。ゆなさんはヘンナノー号のブレーキをはずすと力を込めてこぎ出した。
 ごめんね。
 背中ごしにもう一度、その言葉が聞こえた。さっきのごめんとはあきらかに違っていた。光と影。血と涙。出会いと別れ。怒りと憎しみ。動揺と決意。哀しさと淋しさ、愛しさ。ゆなさんの心すべてが、そのひとことに凝縮されている気がした。そしてぼくはわかってしまった。そのなかにはぼくと出会い続けた後悔と贖罪も含まれていることに。
 でも臆病なぼくはそんなゆなさんの背中を、動くことも呼びとめることもできず、ただ見送るしかできなかった。
 この日以来、ゆなさんの体調はますます悪化し、ふたりきりで出かけることはついになかった……。

「お願いが、あるんだけど」
 親子がひとしきり遊んで帰っていった後、ゆなさんが言った。
「この子、思いっきり走らせてやってくれないかな」
 なんのことかよくわからないでいるうち、ゆなさんはヘンナノー号から据え付けの椅子に乗り移っていた。ずっと感心し続け、でもゆなさんは「慣れよ、慣れ」のひと言でかたづけているこういう「身のこなし」は、出会った頃からちっとも変っていなかった。
「この子に乗って、走ってくれない? 公園のなか、ぐるぐる回るだけでいいから。走りたがってるのよ、この子。でももう、わたしには無理だからさ。だからお願いできるかな」
 ぼくは大きくうなずいた。椅子から立ち上がり、ヘンナノー号のシートにそっと尻を向ける。おさまるかな、と思ったが、シートのなかになんとかぼくの身はおさまった。
 これが、ゆなさんの車いす。
 褥そう防止用のクッションの感触を確かめたり、タイヤやフレームをのぞき込んだり、背もたれに体重をあずけてみたりした。まさかヘンナノー号に乗る日がくるなんて。乗り心地がいいのか悪いのかはよくわからない。でもほんの少し、ゆなさんのぬくもりに包まれた感触がした。
 顔を上げた。息をひとつ吐いた。両側のリムをぐっと握った。そして、前に向かってこぎ出した。
 両腕に力を込めてタイヤを回した。操作法はわかる。左右の曲がり方だってバックのしかただって、こぎながらのスピード調整だってわかる。ずっとそばでゆなさんを見てきた。車いすを操るゆなさんを、誰よりもそばで見てきたんだ。
 リムをこぐ腕にさらに力が入る。タイヤが固い公園の土をがたつきつつ回り、進んでいく。スピードが上がっていく。風を感じた。ブランコやシーソーが後ろへと流れていく。公園に茂る草の匂いがした時、ああ、と唇から自然に声がもれていた。
 これが、ゆなさんの見ていた風景。
 これが、ゆなさんの嗅いでいた匂い。
 これが、ゆなさんの感じていた風。
 パンダの遊具が近づいてきた時、左側のリムを握ってブレーキをかけて左折した。それからはイチョウの木々に沿い、公園を競技場のトラックのように走り続けた。時々くぼみにはまったり、欠けた小石に前輪がつまづいて前のめりになったりした。徐々に息が切れてきた。それでもこぎ続けた。ヘンナノー号は走りたがっているのだから。ゆなさんからお願いされたのだから。
 あずやまに車いすが向いたところで下向き加減にしていた視線を上げた。
 ゆなさんは、笑っていた。
 ゆなさんって、呼んでよ。
 はじめて話した時とおなじ笑顔だった。その時からずっとぼくの胸にあふれていた笑顔がそこにあった。
 ゆなさん。
 いっしょに、いたい。
 ずっと、そばにいたい。
 苦しみを、哀しみを、怒りを、淋しさを、なにより喜びを、ぼくにも分けてほしい。
 これから弱っていくかもしれないあなたを、ぼくに支えさせてほしい。
 なによりこれからも、ぼくを支えてほしい。
 ぼくはゆなさんに笑顔を返した。すべての想いを胸の奥底に押し込んだ。
 ゆなさんがいつだって「ぼくのあこがれ」でいたいのを知っているから。
 いつまでも仕事ができて、豪快にお酒を飲んで、弾むように車いすをこいでいく、かっこいい先輩でありたいから。
 衰えていく自分なんて、ぼくに見せたくないから。
 このからだには負けないよ。
 ゆなさんの口癖を、ぼくはずっとずっと聞いてきたから。
「ねえ、ありがとー」
 ゆなさんが両手でメガホンを作って呼びかけてきた。
「もう充分。疲れたでしょ。戻ってきていいよー」
 ぼくは一度車いすを停めた。もう息はかなり荒れていた。腕も痛くなっている。でも。
「ゆなさん! もっと走ります!」
 喉の奥から叫んだ。
「この子、もっと走りたいって。もっと走れるって。意地っ張りですね。誰に似たんですかね。でもいいっすよ。おれ、いつまでも付き合いますから!」
 呼吸をととのえ、リムを握り直すと、再びヘンナノー号を走らせた。ゆなさんといっしょに、走らせた。
「わかった! じゃよろしくたのむよ。直幸くん、やっぱり君、えらいえらい!」
 ゆなさんが手を振った。
 イチョウの葉が風にさわさわと揺れた。ゆなさんに贈られた拍手のように聞こえた。
 車いすをこぎ続けた。ゆなさんに背中が向いた時、額の汗を拭くふりをして、目元を袖で荒っぽくこすった。
                              了


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