見出し画像

掌編「鈴虫の鳴く部屋で」

「ねえねえ、あれ、見てよ」
 左隣で車いすを並べてこいでいた加奈が、声をひそめておれの腕に軽く触れた。
 おれたちは大通りから細い路地に入ったところにある公園の脇を通りがかっていた。コンビニで今日の晩飯や酒、菓子、そして加奈の愛してやまない成人向け雑誌を買って、ねぐらであるぼろアパートに帰る途中だった。
 公園は周囲をイチョウの木でぐるりと覆われていた。イチョウはすでに目が痛くなるくらいどぎつく色づいていて、おれは思わず目をひそめた。
 車いすの上で少し身をかがめている加奈の視線を追う。イチョウの木々の隙間に、小さなあずまやが見えた。そこにふたりの人影がある。まだ高校生くらいと思しき女の子と男の子だった。
 ふたりは互いに腕を背中にまわし合い、そして顔をこれ以上できないというくらいまでに近づけていた。
「うわ、すごい。思いっきりやっちゃってるよ」
 加奈はひそひそと、だが興奮を隠し切れない様子でふたりを見つめていた。まるで面白い映画でも観に来ているみたいに。
「おい、あんま見てんなよ。ばれるぞ」
「いいじゃん。公共施設でやってるってことは、どうぞ見てくださいって言ってるのとおんなじでしょ」
 まったく意味のわからないことを言うと加奈は膝に乗せていたコンビニ袋をおれに押しつけ、車いすの背もたれポケットからスマートフォンを取り出し、カメラモードにした。
「おい、まじかよ。やめろ。それ犯罪だぞ。ほんとやばいって」
「大丈夫、大丈夫」
 加奈は車いすをそっと公園に近づけ、イチョウの隙間からのぞくふたりにスマートフォンを向けた。その姿は本当に犯罪者そのものだ。おい、ほんとまじか。おれは慌ててあたりを見回した。休日の昼下がり、細い路地に人の気配はまったくない。遠くで雀の鳴き声が聞こえているだけだ。
 加奈はアングルを定めると、スマートフォンの撮影ボタンを押しかけた。まずい。おれは慌てて加奈からスマートフォンを奪い取った。指が撮影ボタンに触れ、音がした。イチョウの隙間を覗き込む。ふたりは相変わらず固く抱き合い、自分たちの世界に入り込んでいる。こちらに気づく様子は一切ない。スマートフォンの画面を見ると、自分の膝が映っているだけだった。
「もう、なにすんのよ」
「なにすんのよ、じゃねえだろ」
 不満げにしている加奈の頭をはたいた。グリーンアッシュにしたばかりのショートカットの髪が揺れる。先週、ふらりと出かけ、帰ってくるといきなりこの髪になっていて、はあ、とため息をついた。加奈はなにかを思い立つとすぐ行動に移すタイプだ。ちなみにこの髪にしたために、今月の加奈の小遣いはあと五百円くらいしかない。おれの働く小さな印刷工場の給料日や、加奈の働く社会福祉法人が運営する就労継続支援B型の軽作業所から出る工賃日までまだ二週間あるというのに。
「ああ、いいとこなのに」
 加奈が本気で唇をとがらせた。
「いい加減にしろ。もう帰るぞ」
 おれは彼女のスマートフォンを胸ポケットにしまうと、さっさと車いすをこぎ出した。実に名残り惜しそうにしながらも加奈がついてくる。ふたりがこれからどうするか見たかった、というように何度も振り返りながら。
「いやあ、でもいいもの見せてもらったからいいか。今日はいい日だ、うん」
 加奈は満足げににやついた。おれは寝癖のついた髪をかき回す。身障者養護学校高等部から付き合いはじめ、かれこれ十年ほどになるが、いまだにこいつのやることなすことには振り回される。グリーンアッシュの髪にまた目がいく。
「そういや、思い出したんだけど」
 加奈がふとつぶやきはじめる。静かな細い路地。古い木造の家と、いかにも最近のデザイン、といった感じのサイコロみたいに四角い家が、脈絡なく混ざり合っている住宅街。大通りと比べて舗装が遅れ、ひびや欠けの目立つアスファルトの道。
「イチョウが黄色くなってたから、去年のちょうど今ぐらいの時期だったな。コンビニ帰りにあの公園通りかかったら、なんかね、公園のなか車いすに乗ってぐるぐる走り回ってた兄ちゃんがいたの。そんで、あのふたりがいたあずまやに女のひとが座ってて、それをずっと見てたんだよね。すごいきれいなひとだったな。でもちょっと元気なさそうだったけど」
 思わぬ話に、おれは加奈に振り向く。彼女はその時の記憶を引き出すようにやや顔を上にあげ、車いすをこぎ続けている。前輪が小石を踏みつけ、二、三度弾みながら転がっていった。
「でもね、あの兄ちゃん、元々車いすに乗ってるわけじゃないな。こぎ方下手くそだったもん。もしかすると、あの女のひとの車いすだったんじゃないかな」
「ひとの車いすに乗ってたってことか?」
「たぶんね」
「なんでまたそんなこと」
「さあねえ。でもその兄ちゃん、すごい必死で車いす走らせてんの。もう汗かきながら。なんかちょっと泣いてた気もしたんだよね」
 ふうん。おれは加奈の話に曖昧な相槌をうちながら、公園を振り返った。イチョウの黄葉に日差しが当たっていて、そのきついまぶしさにまた目をひそめた。もうあのふたりの姿は見えない。まだ抱き合っているのか、それとも加奈が待ち望んでいるようなことをしはじめたのか。
 そう思いつつ加奈を見ると、やはり彼女も公園に首を何度も向けていた。どうやらおなじことを考えているらしい。それとも妄想はさらにその先へといっているのか。
 おれの車いすの前輪が道路の小さなくぼみに入り込み、大きく右に傾いだ。膝のコンビニ袋がこぼれそうになる。
「ちょっと、雑誌落とさないでよ」
 隣から加奈が慌てて手を伸ばし、袋を押さえた。こいつの考えていることはやっぱりよくわからない。

 それから数分後、おれと加奈のねぐらであるメゾン篭田に着いた。
 築四十年以上の木造二階建てで、各階に四部屋ずつ。古くさいゴシックで「メゾン篭田」と書かれた看板が屋根近くにあるが、とうに緑色はあせ、ほとんど「ゾン篭田」としか読めなくなっている。茶色の土壁にはひびが目立ち、トタン屋根や鉄階段は錆がひどい。雨どいも途中で割れ、雨のたび滝のように流れ落ちてくる。
 おれは自分たちの部屋である一階一番奥のD号室のドアの鍵を開けた。小さなアスファルト打ちっぱなしの玄関に車いす二台をぶつけ合うようにして並べ、ふたりして床に手をつき、からだを投げだすように部屋に降りる。六畳一間。それを取り囲むように小さな流しと押し入れ、トイレ、風呂がついている。脱衣所や洗面所などというぜいたくなものはない。
 おれは口にコンビニ袋をくわえぶら下げながら、完全まひの身体障害で可動も感覚もない下半身を引きずり、部屋に入る。その後をすぐ、やはりおなじようにして加奈が這いずってくる。コンビニ袋を小さな丸テーブルに置くと、加奈はあぐらをかいて座り、待ちかねたように雑誌を取り出して広げはじめた。まるで学生が参考書か文献を読むような真剣さだ。おれも加奈も高卒だから学生がそういうものかなんてわからないが。
 おれが晩飯と酒を冷蔵庫にしまい込んでいると、加奈が「ちょっとトイレ」と雑誌を閉じ、トイレに這いずっていく。しばらくして出てきたが、加奈はジーンズのベルトをしていなかった。
「漏れてたよ、めんどくさ」
 くさい顔をしながら加奈は押し入れをあけ、雑然と放り込まれた荷物のなかから紙おむつのパックを引き出し、新しい一枚を引き抜いた。そしてそれを広げると、畳の上で中途半端にしていたジーンズと糸のほつれたショーツをずり下げる。すると完全まひの身体障害で可動も感覚もすべて失われた下半身がむき出された。両脚の筋肉はとうに削げ落ち、ラーメンのスープ出汁に使うような鶏がらのように細くなっている。色も青白い。
「うわ、くさ。今日ちゃんと洗わないとな」
 恥らいもなにもあったものじゃないことをつぶやきながら、加奈は新しいおむつを少しずつずらすようにして尻の下に入れ、両脇のテープを止める。そしてショーツとジーンズを戻すと、さて、と待ちかねたようにまた雑誌を広げはじめた。
 その様子を見た後、おれも便所に入る。便座によじのぼり、ズボンとパンツ、加奈とおなじ失禁防止用の紙おむつを一気にずり下げた。腹に手をあてがい、膀胱を押して小便を出す。ちからなく垂れ下がった性器から、やはりちからない小便が垂れ流れてきた。五歳で原因不明の脊髄腫瘍に見舞われ、それを除去する手術をした後、下半身は完全に動かなくなり、感覚も去った。以来、当時の看護師に教えられた排泄方法を今でも守っている。
 用を終えて服を戻そうとした時、おむつを確かめた。幸い加奈と違って濡れていなかった。ほっとしつつ服を戻してから、脇に据えた汚れおむつ用のバケツの蓋を少し開ける。排泄物のにおいがただようなか覗き込むと、加奈のものが多いのに気づく。最近の加奈は飲み過ぎのせいか、漏らす回数が増えているのだ。
 部屋に戻り、加奈が雑誌を見ている間、おれはぼんやりテレビを見ているうちうたた寝をしていた。十分くらい後に目が覚めると、いつの間にか加奈が隣に寄り添い、寝息をたてている。大きな毛布が自分たちをくるんでいた。

「藤原加奈です。よろしくお願いします」
 担任に促されてした挨拶は、ほとんど消え入りそうな声だった。
 養護学校高等部一年の時、加奈は隣県から引っ越してきて、おれとおなじ学校に転入してきた。目に入るのではと思うくらいに前髪を伸ばしているせいか、いつも伏し目がちで、口数も極端に少なかった。当時、高等部一年には六人生徒がいて、そのうちふたりが女子だった。当然仲良くなろうと加奈に積極的に話しかけたが、ひと言ふた言くらいしか返事がなく、休み時間に体育館に遊びに行こうと誘われても断るばかりなので、すぐあきらめてしまい、加奈はあっという間にクラスで孤立した。どうもそれを望んでいたふしがあるのを、おれは脇で見ながら感じていた。
 夏休みももうすぐ、というある日の放課後、おれは忘れ物をしたのを思い出し、隣接していた寮から渡り廊下を通って教室へと戻った。すると教室には加奈がひとりぽつん、と机でなにやら本を開いていた。おれに気づくと机に広げていた本を慌ててしまい込もうとしたが、手がすべったのか、それを落としてしまった。
 それ……。
 床に落ちたその本を見て、おれは目を見開いた。それはいわゆる成人雑誌だった。女子の加奈がどうやって手に入れたのだろう。表紙には紐としか思えないような水着を着た、やたらに胸のでかい女が人差し指を口にくわえ、こちらをじっとりと見つめていた。
 加奈はばたばたと車いすを動かして雑誌を拾い、引き出しに突っ込んだ。だがもう時すでに遅し、といった感じでうなだれた。頬が異様なほど青白かった。
「正二くん、このこと、誰にも言わないで。お願いします」
 加奈は車いすをこちらに向けると、膝に両手を置き、深々とおれに頭を下げた。重苦しい黒髪が彼女のすべてを覆い隠した。
 おれは少し押し黙った後「ああ、誰にも言わねえから」とやや声を低めた。加奈は顔を上げ、ありがとうございます、と何度も礼を言った。ほっとした様子だった。
「でも、なんでそんなのを」
 おれの問いに、加奈の表情が再びひきしまった。しかし覚悟を決めたように口を開いた。
「小さい頃わたし、お父さんとお母さんとおなじ部屋で寝てたの。わたしにいつなにが起きてもいいようにだと思うんだけど。八歳くらいの時だったかな、なんか変な声が聞こえてきて目が覚めたのね。なんだろうって思ったら、隣でお母さんがはだかで、お父さんの上に乗っかってたの。お父さんもやっぱりはだかでね。ふたりのパジャマとかパンツとか、そこらへんにばらまかれてて。よくわかんなかったけど、お父さんもお母さんも苦しそうな顔してるのに、すごく気持ちよさそうだった。わたし、これ以上見たらいけないって思って必死に寝たふりしたけど、お父さんたちが寝てからもずっと眠れなかった。わたしだけの部屋をもらうまで、そういう夜が何回もあったの。で、中学くらいになってくるとあれがなんだったのか、わかってくるじゃない? あれって気持ちいいのかなって思って、自分でさわってみたの。でもね、全然気持ちよくなんかなくって。あれって思って、いろいろ強くいじったり、むりやりなかに指入れてみたりもしたけど、全然だめで。ああそっか、自分はこういうからだだからだめなのかってすぐわかったけど、でも、なんか、なんていうのか……」
 加奈はそこまで一気に話すと、またうなだれた。
 しばらく重い沈黙が流れた。教室の窓の外から、蝉の鳴き声が聞こえてきた。その夏はじめて聞く鳴き声だった。
 おれは蝉の鳴き声を耳に響かせながら車いすを反転させ、自分のロッカーを開けた。そしてなかに突っ込まれていた一冊の本を取り出し、加奈に差し出した。
 これ、と加奈が顔を上げた。長い前髪が左右に分かれ、よくわからなかった目元がしっかり見えた。驚いたようにまるくなっていた。
「これ、やる。もっと欲しかったら言えよ。まだ何冊か持ってるから」
 当時、おれたち男子生徒の間ではそういう雑誌やDVDがロッカーを受け渡し場所として貸し借りを行っていた。携帯のここのエロサイトがいい、なんて情報交換もひっそりとされていた。
「でも、なんで」
 不思議そうに問いかける加奈に、おれは息をふっと吐いた後言った。
「おれも、おまえとおなじなんだ」
 おれはつぶやいた後、加奈に渡した雑誌に目を落とした。
「こういうのって、なんなんだろうな。おれも知りてえよ」
 加奈はおれの顔をしばらく見つめた後、うん、とうなずいた。その口元にはほんの少し微笑みが浮かんでいた。加奈が笑ったのを見たのは転入以来はじめてだった。
 そういった雑誌の受け渡しを何度か重ねるうち、おれと加奈はいつの間にか付き合うようになっていた……。
 そんな昔話を思い出しながら、そばで眠る加奈を見つめる。あの時、どうして加奈は自分の思いをすべて打ち明けたのか。ずっと澱んでいた思いを誰かにぶつけたかったのかもしれない。実際、その告白がきっかけになったのか、それからの加奈は少しずつ変わっていった。前髪の重苦しかった髪型は今やすっかり風変りし、性格もこっそり見ていた雑誌を堂々とコンビニで買えるほどにまで大胆になり、さっきのような行動を取りかけるくらい破天荒にもなった。しかし時々ふっと見せる、あの教室の時とおなじ暗い顔や、そういった雑誌をひと通り読んではすぐ捨ててしまう胸底にひそむどこか歪んだ陰影は、やはりあの時から変わっていない。そしてそれは、おれだっておなじだった。
 加奈の寝顔がかすかに微笑んでいる。なにか楽しい夢を見ているのか。この微笑みもあの時から変わらないことに、おれはどこか救われる思いがしている。

 夜になり、コンビニで調達した晩飯のミートソースをそれぞれの酒を呑みながら食べた。おれはレモンサワー。加奈はやはりレモンサワーを一気に空けると、その後はトリスのポケット瓶に直接口をつけてちびちびと飲んでいる。今時のおっさんでもやらないようなおっさんくさいこの飲み方を、加奈はずっと好んでいる。やっぱりこいつのやることはどこかわからない。
「いやあ、でも今日はいいもの見たなあ」
 加奈は飯が終わってからも、あのふたりの抱擁を満足げに思い出しながらトリスをなめている。
「まったく、誰がおまえをそんな風に育てたんだろうな」
 パスタの空き容器をビニール袋に突っ込んでごみ箱に捨てていると「そりゃ、正二に決まってるでしょ。ひとのせいにしたらだめだよ」と、加奈は笑った。
 シャワーとトイレ、着替えをすませ、テーブルを脇に寄せて押し入れから引っ張り出した布団を敷くと、そこにふたりで潜り込んだ。灯りを落とすと、すすけた窓からにじむ街灯の光にぼんやりと部屋が照らされた。
「なあ、加奈」
 しばらくしてから、おれはうす暗い天井を向いたままつぶやいた。
「なに」
「あのふたり、どうなったんだろうな」
「あのふたりって、今日のあの子たち?」
「違うよ。加奈が話した、車いす走らせてた兄ちゃんとそれを見てた女のひとの方」
「ああ、そっちか」
 加奈はちょっと笑った後、少し口をつぐんだ。街灯の光が青さを増した。
「正二はどう思うの。どうなっててほしい?」
 問い返され、木目のうねる天井を見つめる。
「そんなのわかんねえよ。わかんねえけど……とりあえず生きててさえいてくれたら、それでいいかな」
 加奈がおれの方にからだの向きを変えた。おれも加奈に向き合った。グリーンアッシュの髪が鼻にあたってくすぐったく、つい強くこする。それを見た加奈が薄暗がりのなかでふっと微笑む。
 触れ合い、唇を重ね合う。やがてそれぞれの手が、互いの紙おむつのなかへとひそやかに伸びていく。何度もこうしたことを重ねた。なにかを感じたことは一度もない。加奈もそうだろう。その後にむなしさがおそってくることも、加奈が涙ぐむのを押さえられなくなってしまうことだってわかっている。
 それでもおれと加奈は互いを求め合う。生きているあかしを探し合う。そのあかしは、手に感じるぬくもりに確かにある。はじめて肌を触れ合って以来、おれと加奈はそれを信じ、すがりついて生きている。きっとこれからもそうだろう。
 夜が更けていくと、鈴虫の鳴き声がすぐ近くから聞こえてきた。どこか部屋のなかにまぎれ込んできたようだ。
 気がすむまで鳴いてくれ。
 おれたちを、見ててくれ。
 そんなことを思いながら、おれは加奈の細い胸に顔をうずめた。

                           了

※お読みいただき、本当にありがとうございました。

当作品ですが、以前書いた以下の短編と少しつながりがあり、軽い連作のようになっています。リンクを貼りますので、合わせてお読みいただけるとより楽しめると思うので、よかったらのぞいていただけると嬉しいです。


いただいたサポートは今後の創作、生活の糧として、大事に大切に使わせていただきます。よろしくお願いできれば、本当に幸いです。