「愛する」は やまとことばではない! 日本語の起源について
書籍紹介
漢語でも外来語でもなく、日本古来の独自の言葉である「やまとことば」の美しさについて記されており、勉強になる本。
頁を開いてまず思うのが、普通の本と違う意匠。文字色が黒でなく、紫色っぽくなっている。
大きく三章に分けられているが、各章ごとの節も細かく分かれていて、気軽に読み進めることができる。
ただ、第二章のひらがな50音の一文字一文字に込められた意味が述べられているが、これが少々単調で飽きてくる。
しかし、やまとことば(大和言葉)の美しさやだんだんと薄れ行く日本語文化についても言及されており、共感できる点も多かった。
また、音読みよりも、日本語本来の訓読みの価値観にもあらめて気付くことできる内容だった。
日頃からなるべく外来語(横文字)を遣わないように意識しているので、本書で紹介されていた以下の言い換えも今後参考にしたい。
どうだろう。これだけでかなり風情が出ると思う。
さらに、日本人が「愛している」という言葉を遣わないのは、「愛する」がやまとことばではなく馴染みがないからだと記述されている。
確かに、私も何かで見聞したが、「愛し合う」という概念は欧米的であり、日本人はそもそも愛し合う(手を取り合う)のが当たり前なので、あえて言葉にしないということを聞いたことがある。
あるいは百田尚樹氏の名著「永遠の0」でも「わしらの世代は愛という言葉を遣わない」というような記述があったが、直接的な言葉で表現しないところがある種の日本人らしさだろう。
逆に恋という言葉は多用されて来た点も注目したいところ。
漢語にも外来語にも無い日本語の魅力
外来語を卑下するわけではないが、英語はABCというアルファベットと数字でしか表現できない。
これは昔読んでかなり影響を受けた清水馨八郎氏の「大東亜戦争の正体 それはアメリカの侵略戦争だった」という本に書いてあった内容を参考に以下述べたい。
例えば「雨」を表す語句はRain、Showerと限られるが、日本語なら梅雨、五月雨、霧雨、小雨、大雨、風雨、夕立・・・などなど他にもたくさんあり、しかもその一語で季節や雨量がわかる。
他にも英語がVitaminA、 B1などなど数字での表記しか分別できないものでも日本語ならば、松竹梅、甲乙丙、上中下・・・などなどそれだけで格も示せる優れた言葉だ。
また、私が政治の師が石川九楊氏著書の「縦に書け! 横書きが日本人を破壊している」(祥伝社)を引用して雑誌に寄稿していたので、その内容を紹介したい。
つまり日本語は本来縦書きでしかない。上から下に書くことは天地を意味する。
これは自論だが、おそらく言霊という概念にも繋がるのではなかろうか。
編集部への問い合わせと本書の内容に対する反論(指摘)
上述したように本書「やまとことば50音辞典」は、漢語でも外来語でもなく、日本古来の独自の言葉である「やまとことば」の美しさについて記されている点や日本語文化についての記述などなど、全体的に共感できる内容だった。
しかし、以下3点は同意できかねる内容だったので、記したい。
指摘① 歴史認識の違い
とあるが、この「やまとことば」に関する部分は共感する。
しかし、日本で文字書かれるようになったのは四世紀以降であり、厳密に言うとそのときの「大陸」の呼称は「中国大陸」ではないはず。
細かいようだが、中華民国、中華人民共和国と名乗るのはもっと後のことであり、当時は支那大陸等々(合っているかはわからないが)違う呼称であり、漢字が「中国大陸」から伝わったと表記するのは間違いだろう。
指摘② 日本語の起源は間違いなく日本でしかない
やまとことばの起源についての記述があり、本書では「はっきりわかっていない」としつつ、「朝鮮語やモンゴル語系統だという説や、南インド起源説、東南アジア、南太平洋から来ているという説がある」と紹介しており、「中心となる語彙は南方から来たが、文法は朝鮮語やモンゴル語の系統を強く受けたという人がいる」と書いてある。
これについては一言で言えば、浅い。
日本語の起源については「割とはっきりわかっている」と反論した上で、「起源」とするならば、日本語の起源は間違いなく日本でしかないと主張したい。
以下、竹田恒泰さん著書の「天皇の国史(PHP)」の記述を参考資料として内容を部分的に掻い摘んで記載する。
と、同書では考古学や比較言語学の観点からそれらについて言及している。さらに、
と、結論付けている。また、比較言語学の観点から縄文語と弥生語が同系統の言語であることは間違いないと述べられている。
本書のやまとことばが上述した「縄文語」「弥生語」「古代日本語」「中世日本語」「近代日本語」のどれに当てはまるのか編集部に問い合わせた上で、暗に朝鮮語やモンゴル語、南インドに起源や影響を受けたという説はイデオロギー論争にもなりかねないので、恐縮ながら、上記した点を今後の参考にして頂ければ幸いだという点を伝えた。
こういった部分は、根拠となる文献があれば、その部分がわかるように提示してもらえると読者にもわかりやすい。
指摘③ 交ぜ書きについて
「子ども」という表記が本書に一度だけ出てくるが、これもやまとことばを表するように本文中の他の表現と同様すべてを平仮名にして「こども」とするならわかるが、そうでなければ「子供」とするべきだ。
昨今「子ども」や「障がい者」と漢字と平仮名の混ぜ書きが氾濫しており、「子供」「障碍(害)者」という本来の表記が見られなくなっている。
「子ども」は交ぜ書きの象徴であり、「供」は御供するという意味で封建的だが、「ども」だと民主的だという出鱈目な左翼の企みによって漢字文化の否定になっている。
国や地方の議会や官庁、役所までもこういった漢字文化の否定に流されている有り様。
学習指導要領は「供」を「小学校六年生で読み書きを指導」としているので、堂々と「子供」と表記すべきだろう。
こうした交ぜ書きが国民の知的水準や漢字能力の低下を招いているので、出来れば平仮名ならひらがなで統一、漢字ならば漢字で統一と表記したほうが良い。
個人的には飛鳥新社の出版物には共感できるものが多く、今後も出版される本を楽しみにしたい。
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