無色透明で何にも染まっていないと思っていた私の、本当の色は何色だろう

私がまだ働き始める前、学生だった頃。
当時お世話になっていた先輩に言われた一言が、今でもときどき頭をかすめる。

「君は、真っ白なんだな。」

言われた当時、少なくとも褒められてはいないな、と感じた。その頃私は、熱意はあってもやりたいことがなくて、右往左往迷走していた。

そのせいか、何も知らない、何にも染まっていない、まっさらな子なんだと思われた、と思った。
私の中で、「白」はそういうイメージの色だった。

それは、私の中で色がないこととほぼ同義だった。無色透明で、何にも染まっていない状態。

先輩が言ったことは間違っていない、むしろ図星だと思った。

けれど。

今だから思うことだが、その先輩に件の一言を投げられた学生の頃、私はすでに二十歳を越えていた。
仮にも二十年以上生きていて、まったく何にも染まっていないなんてこと、あるだろうか?

染まっていることに気づいていないだけで、あの時の私も、すでに染まっていたんじゃないか?

あれからすでに5年以上の時間が流れているけれど、時間が経過して変わったこともあれば、変わっていないこともある。
私は今でもやっぱり、大きい、人に言えるような意味での「やりたいこと」はない。たぶん、まだ見つかっていないし、今後も見つからないかもしれない。

ただ、やりたいことがないままでも、今の私は働いてお金を稼いで日々生活している。働き始めた当初に比べたら、仕事にも毎日のスケジュール管理にも、だいぶ慣れてきた。休日に休めるようにもなった。学生だった頃の自分が知ったら、きっと驚くだろう。

それでも、学生だった当時の私と比べて、変わっていないと思うところがある。私の根底。考え方の奥底。私自身の、「核」となるもの。

それは、あの頃からすでに、染まっていたんじゃないだろうか。

「白」という色に。

染まっていることにさえ気がつかず、ずっと持っていた私の色。
根底の色。私自身の、ベースとなる色。

「経験を積む」ということは、根底の色の上に、異なるレイヤーで同じような色や違う色が重なっていくことなのではないかと思う。

経験を積むごとにどんどん違う色が乗っかっていくけれど、レイヤーは異なるから混ざらない。ときには同じレイヤーで異なる色が入って混ざることもあるかもしれないけれど、どれだけ見えづらくても、根底の色はきっとそのままそこにある。

きっと、そのままそこにいてくれる。
そう思えるからこそ。根底の色を信頼できるからこそ。

私は、異なる色のレイヤーを重ねていけるのだ。


◇◇◇

このnoteは、ささいなさんの「エッセイで書けるほど私の人生に色はない」を読んだことがきっかけで、書くことができました。

以前から頭の片隅に引っかかっていた一言が、ささいなさんのエッセイで、ふっとほどかれるような感覚で、転がり落ちてきました。
それは、本当に些細な、けれど心の奥のやわらかい部分に残っている棘のような記憶で、時折ちくりとしながらも、どうすることもできず、ほおっておいたものでした。

今回このnoteを書いたことで、ずっと刺さっていると思っていた棘が、ふっと抜け落ちたかのような感覚にとらわれました。まだ痛みはあるけれど、それでも今後はきっとかさぶたになって、治っていくと信じられるような、そんな感覚でした。ちょうど、指に刺さった棘をとげぬきできれいに抜けたような感覚。

自分でも、びっくりしました。抜けると思っていなかった棘が、抜けたのですから。

noteを書くことは、私にとって、自分と向き合うことでもあります。そして、不思議です。ときおりこんな風に、自分でも思ってもみなかった自分に出会えます。そして、思ってもみなかったことが、起こるのです。今回みたいに。

ささいなさん、このnoteを書いてくださって、ありがとうございます。
noteの片隅で、こっそり御礼を申し上げます。本当に、ありがとうございました。

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