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ギロチンとピアノ(190)

1793年10月16日のマリー・アントワネットの処刑の直後にロンドンで出版された、デュセックのピアノ組曲《フランス王妃の受難 Op. 23》第9楽章は、ギロチンの落下を表す下降音階で無慈悲に打ち切られます。

この恐怖政治を象徴する「Guillotine」なる斬首器具がパリに現れ、初めて処刑に使用されたのは、1792年4月25日のことで、この時まだ1年半ほどしか経っていません。にも関わらず、この楽譜を見るにロンドンの市民にもその名は知れ渡っていたようです。おそらく1793年1月21日のルイ16世の処刑の報で諸外国にもギロチンの名が広く知られるようになったのでしょう。

Massacre of the French King! View of la guillotine; or the modern beheading machine, at Paris. By which the unfortunate Louis XVI. (late King of France) suffered on the scaffold, January 21st, 1793.
https://archive.org/details/bim_eighteenth-century_massacre-of-the-french-k_1780

しかし、実はこの処刑装置が登場する3年前もから「ギヨティーヌ」こと「ギヨタン博士の斬首器械」とは、パリではよく知られた概念だったのです。その奇妙な事情についてこれからお話ししていきましょう。


不幸な人達がいる。クリストファー・コロンブスは彼の発見にその名をつけることができなかったし、ギヨタンは彼の発明からその名を切り離すことができない。

Victor Hugo, Journal des idées et des opinions d’un révolutionnaire de 1830.
Joseph Ignace Guillotin, engraving by B. L. Prévost after J. M. Moreau, 1785.

ギロチンがその名を冠するジョゼフ=イニャス・ギヨタン Joseph-Ignace Guillotin(1738-1814)は、パリの有名な医師であった人物です。彼の名が歴史的事件に初めて現れるのは、1784年に悪名高いメスメルの疑似科学である「動物磁気」に対して政府による調査が行われた時で、ギヨタンはベンジャミン・フランクリンやアントワーヌ・ラボアジエらと共に調査委員会に名を連ねています。

ギヨタンは1788年12月8日に『パリ市民の請願 Pétition des citoyens domiciliés à Paris』と題する第三身分(平民)を擁護する政治的パンフレットを出版しました。もっとも、実際に書いたのは別人で、ギヨタンは名義を貸しただけともいいます。それはどうあれ、この文書は危険思想と考えられてギヨタンは高等法院から睨まれることになるのですが、そのことが逆に市民からは人気を得て、ギヨタンは1789年に召集された三部会の議員に選出されます。

Pétition des citoyens domiciliés à Paris, du 8 décembre 1788.
https://gallica.bnf.fr/ark:/12148/bpt6k47370g

いかなる偶然が才能も名声もない男の名を不滅のものとしてしまったのであろうか? 彼の作品というのは実際には弁護士のアルドゥアンが書いたものであった。彼はそれを本名で世に出すには有名過ぎたのだ。その作品が高等法院に非難されたことで責を引き受けたギヨタンは時の人となり、その評判によって三部会選挙に当選した。実のところ彼はただのでしゃばりでしかなく、あれこれと無節操に首を突っ込むので厄介かつ滑稽だった

Phillippe Quénard, Portraits des personnages célèbres de la révolution, 1796.

革命後、議員として彼は当然ながら主に医療や衛生問題に関わりましたが、同じく医師としての知見から死刑制度についても口出しをします。絞首刑は緩慢で苦痛に満ちた死をもたらす一方、斬首の死は瞬間的であると。当時は死刑といっても犯罪内容によって処刑方法は様々で、一般的な絞首刑以外に、車裂き(強盗、殺人)、火炙り(放火、獣姦、異端、男色、魔術)、釜茹で(貨幣偽造)、四肢切断(大逆罪、親殺し)などヴァリエーション豊かで、また剣による斬首は貴族に限られるという差別があったりました。彼はそれを残酷で無益として、刑罰を公平で人道的なものとするべく1789年10月10日に6箇条の法案を憲法制定国民議会に提出しました。

1. 犯罪者の身分や地位に関わらず、同種の犯罪には同種の刑罰が科される。

2. 法が被告に対し死刑を宣告する場合、罪の内容に関わらず犯罪者は斬首される。これは簡単な器械によって行われる( l'effet d'un simple mécanisme)。

3. 罪は個人のものであり、犯罪者に対するいかなる刑罰もその親族を巻き込むことはない。犯罪者の親族の名誉は決して損なわれず、あらゆる職業、仕事、社会的地位に就く資格を維持する。

4. 何人も、その親族に課せられた刑罰によって国民を非難してはならない。そのようなことに敢えて及ぶ者は裁判官により公に叱責されるものとする。この叱責状は違反者の戸口に掲示され、さらに三ヶ月間晒し台に掲示される。

5. いかなる場合でも犯罪者の財産は没収されない。

6. 死刑囚の死体は要望があれば親族に引き渡される。いずれにせよ通常の埋葬が認められ、死因について台帳に記載されることはない。

Archives parlementaires, 9 octobre 1789.
https://archive.org/details/archivesparlemen09pariuoft/page/392/

その後しばらく音沙汰がないのは、単に無視された模様ですが、ギヨタンは諦めず、12月1日に再び議会でこの法案を持ち出して熱弁をふるいました。

結果、第1項は全会一致で採択されました。しかし第2項については斬首についての懸念などの異議が出ます。それに対しギヨタンはこう述べたといいます。

La mécanique tombe comme la foudre, la tête vole, le sang jaillit, l'homme n'est plus.

その器械が稲妻のように落ちると、頭が飛び、血が吹き出し、その人はもう死んでいます。

Journal des états généraux convoqués par Louis xvi, 1789.
https://www.google.co.jp/books/edition/Journal_des_%C3%A9tats_g%C3%A9n%C3%A9raux_convoqu%C3%A9s/WYS58YGRzrcC

ギヨタンのこの発言はすぐに人気のジョークとなり、「ギヨタンの器械」はまだ実物が存在しないにも関わらずミームとして人々の記憶に刻まれてしまうことになります。

その月の王党派の雑誌『Les Actes des Apôtres』には以下のような歌が掲載されました。

Les Actes des Apôtres, No. 10, 1789.
https://archive.org/details/lesactesdesapt01pelt/page/n153/

Guillotin
Médecin
Politique

Imagine, un beau matin
Que pendre est inhumain
Et peu patriotique

ギヨタンは
医者で
政治家

ある晴れた朝、彼は考えた
絞首刑は非人道的で
非愛国的じゃないかと


Aussitôt
Il lui fait
Un supplice

Qui sans corde ni poteau,
Supprime du bourreau
L'office

いますぐ
処刑法を
こしらえよう

縄も柱も使わずに
それで処刑人は
お払い箱


C'est en vain que l'on publie
Que c'est pure jalousie

D'un suppot
Du tripot
D'Hippocrate

Qui d'occire impunment
Même exclusivement
Se flatte

言っても無駄だ
それはまさに嫉妬だと


賭博場の
ヒポクラテスの
信奉者


罰されずに
特権的に
殺しを楽しむ者への


Le Romain
Guillotin
Qui s'apprête

Consulte gens du métier
Barnave et Chapelier
Même Coupe-tête

ローマ人
ギヨタン
準備する

専門家にご相談
バルナーヴとシャペリエ
首切りにも

  
Et sa main
Fait soudain
La machine

Qui 'simplement' nous tuera
Et que l'on nommera
Guillotine!

そして彼の手は
たちまち
器械を作りだす

「簡単」に僕らを殺すため
名付けて曰く
ギヨティーヌ!

こうしてギヨティーヌ(ギロチン)という名前が、器械そのものよりも先に誕生してしまったのです。

なお、記事に「menuet d’Exaudet」に合わせてとあるように、この歌はアンドレ=ジョゼフ・エグゾデ André-Joseph Exaudet(1710-1762)の『6つのトリオ・ソナタ Op. 2』(1751年)のソナタ第1番、第3楽章のメヌエットの節で歌えます。

舞踏譜もありますから踊ってみるのもよろしいでしょう。

Claude-Marc Magny, Principes de Chorégraphie, 1765.

その後、議会ではそもそも死刑を廃止しようという話が持ち上がるのですが、大論争の末に結局死刑制度は維持されることになりました。ちなみに、この時最も熱心な死刑廃止論者であったのがロベスピエールだったといいます。

そして1791年刑法では「死刑は、死刑判決を受けた者に対するいかなる拷問も無しに、単純な生命の剥奪のみで構成される」「誰であれ死刑判決を受けた者は斬首に処されるものとする」と定められました。しかしこの時点では具体的な斬首方法については規定が存在せず、1792年1月24日にニコラ・ジャック・ペルティエという人物がパリの刑事法廷で強盗と殺人の罪で死刑を宣告されると、実際どのように斬首を執行すればよいのかと現場は困惑してしまいます。

これに関してパリの死刑執行人であるシャルル=アンリ・サンソン(1739-1806)は斬首刑の執行の困難を訴える意見書を提出しています。

『斬首による犯罪者の処刑に関する所見覚書:それが引き起こす、あるいはその可能性のある諸問題について』

処刑が法律の意図(単純な生命の剥奪)に従って行われるためには、たとえ犯罪者側に何の問題もなくても、死刑執行人が極めて熟練し、かつ犯罪者が安定していなければならない。さもなければ剣による処刑の遂行は確実に危険な事故をもたらすことになるだろう。

一度処刑をすれば剣はもはや使用に耐えない状態になるだろう。剣は欠けやすいため研ぎ直す必要がある。したがって一度に多くの処刑を執行するならば十分な数の剣を用意しておかなければならない。それは困難であり、ほとんど不可能である。

この種の処刑では剣が折れることが非常に多いことも指摘される。

パリの死刑執行人は前パリ高等法院から支給された2つの剣しか所有していない。これらはそれぞれ600リーヴルに値する。

同時に複数の犯罪者を処刑する場合、その処刑がもたらす恐怖は大量の血が流れそれが四方八方に飛び散ることによって、次に処刑される者たちに極めて豪胆な心にさえ怯えと弱気をもたらすだろう。 そのような弱気は処刑の至難の障害となる。犯罪者がもはや自分を支えることができない状態で強行すれば、処刑は格闘と殺戮になるだろう。

別の種類の処刑(絞首刑)では、この種の処刑が必要とするような正確さは全く必要ないが、仲間の処刑を目にして病気になった犯罪者を見たことがある。少なくともそのような弱気を示す傾向がある。すべてが剣による斬首に反対している。実際、そのような血みどろの処刑を見て弱気を感じたり示したりしない人がいるだろうか?

絞首刑ではそのような弱気を公衆から隠すことが容易である。なぜなら執行を完遂するために被刑者が安定して恐れずにいる必要はないからである。しかし斬首刑では犯罪者がためらえば処刑は失敗することになる。

都合の良い姿勢を保とうとしない、あるいは保てない人間に対して、死刑執行人はどうやって必要な力を行使すればよいのだろうか?

しかしながら、国民議会は旧来の方法による処刑が長引くことを防ぐためだけに、この種の処刑を考案したように思われる

私は人道的な見地を推進すべく、剣による処刑が試みられた場合に生じる多くの事故について、予め警告する機会が得られたことを栄誉に思う。

したがって、国民議会の人道的な意図を実現するためには、遅延を回避し確実性を確保する手段を見つけることが不可欠であり、被刑者を固定して処刑の成功を疑いないものにする必要がある。

これにより、立法者の意図が達成され、死刑執行人は公衆の偶発的な暴動から保護されるだろう。

John Wilson Croker, History of the Guillotine, 1853.

ここでサンソンは斬首は当然剣で行うものと考えているようで、「器械」については全く言及がありません。

なお、1766年5月8日に仏領インド総督ド・ラリー伯爵の斬首刑が執行されたのですが、当時助手であったサンソンは一撃で首を刎ねることができず、監督である父の手を煩わせる失態を演じています。おそらくサンソンはこの時のことがトラウマになっていたのでしょう。

Décapitation de Lally-Tollendal le 9 mai 1766, en place de Grève, Paris.

この如何に斬首すべきかという問題に議会が意見を求めたのは、ギヨタンではなく、王立外科アカデミーの常任書紀官であるアントワーヌ・ルイ(1723-1792)でした。

ちなみにギヨタンは前年の9月30日に憲法制定国民議会が解散してからは議員でもなくなっており、その後政治の舞台に返り咲くことはありません。

しかしながらルイが推奨する斬首方式もやはり器械によるもので、以下のルイによる報告書の中で初めて斬首装置の具体案が語られます。

Antoine Louis, 1778.

『斬首方式に関する報告』

立法委員会が私に諮問の栄誉を与えたのは、刑法第1編、第3条の執行に関する2通の書簡についてである。この条文は死刑判決を受けた犯罪者は斬首されるべきである、と指示している。これらの書簡によると、司法大臣とパリ県の知事は、彼らに寄せられた意見に基づき、この法律の執行における具体的な手続きを直ちに決定することが必要であると考えている。手法の欠陥や経験不足や不手際により、処刑が犯罪者に対して残酷なものになったり、観衆に不快感を与えたりすることがないようにしなければならない。そのような場合、人道的な理由から人々が死刑執行人に復讐しようとする恐れがあり、それを防止することが重要である。これらの意見や懸念は正当であると私は信じる。これまで実践されてきた斬首の方法が、単なる生命の剥奪という法律の指示を超え、犯罪者に対してより恐ろしい罰を与えていることを経験と理性の両方が証明している。法律を厳格に守るためには、処刑は一瞬で一撃で行われるべきである。しかし、これを達成することがいかに困難であるかは、あらゆる経験が示している。

ド・ラリー氏の処刑時に何が起こったかを思い出すべきである。彼は膝をつき、目を覆われていた。死刑執行人は彼の首の後ろを打ったが、その一撃では首を切り落とすことはできなかった。体は支えを失い、顔面から倒れた。そして結局、サーベルの3、4回の切りつけによって首が体から切り離された。新語を創出することが許されるのならば、この hacherie(切り刻み)は観衆に恐怖を引き起こした。

ドイツでは、この種の処刑が頻繁に行われるため、処刑人はより熟練している。特に女性はどの階級であっても他の方法では処刑されない。しかし、そこでも処刑はしばしば不完全である。被刑者を椅子に縛りつけるという予防策を取っているにもかかわらず。

デンマークでは、斬首には2つの姿勢と2つの道具がある。より名誉とされる処刑方法は剣を用いるもので、患者は膝をつき、目を覆われ、手は自由である。もう一方の方法はより不名誉であるとされ、被刑者は縛られてうつ伏せにされ、斧で首が切断される。

切断器具が垂直に打たれた場合、あまり効果がないことは周知の事実である。 顕微鏡で観察すれば、刃は多かれ少なかれノコギリ状であり、それは切断すべき物体の上をスライドすることでのみ機能する。直刃の斧をもって一撃で首を切り落とすことは不可能だが、古い戦斧のような凸型の刃なら、打撃は円弧の中心でのみ垂直に作用し、側面は斜めに滑る動作をするため切断することができる。 人間の首の構造を考えれば、その中心は数本の骨で構成される脊柱であり、それらの連結が一連のソケットを形成し、関節を打つことはできないため、モラルや、肉体的な強さや器用さのばらつきに負う手段では、迅速かつ完璧な切断を確実に行うことは不可能である。 したがって、その力と効果が調整され管理された不変のメカニズムによらなければ確実な結果は得られない。これはイギリスで採用されている方式である。犯罪者は上部が横梁で繋がれた2本の柱の間に腹ばいに寝かされ、留め釘を外すことで凸型の斧がにわかに被刑者の上に落ちる。斧の背は杭打ちをするのと同じような強度と重量が必要である。その威力は当然落とす高さに比例する。

そのような器具を作るのは簡単で、その効果は確実であり、斬首は新刑法の文言と精神に則って瞬時に行われるだろう。試験は死体や生きた羊を使えば容易にできるだろう。そして被刑者の首を半円の中に保持する必要性を検討すべきである。これによって首が頭蓋骨のちょうど後ろに制限される。この半円の端は台の丈夫な部位にボルトで固定できる。この追加が必要と思われる場合でも、それはほとんど目立たず、気づかれないだろう。

1792年3月7日、パリにて協議

John Wilson Croker, History of the Guillotine, 1853.

刃物が引いた時によく切れる理由は、実際には見かけ上の刃角の減少もあるのでちょっと違うのですが。それはともかく、ここで語られている「効果が調整され管理された不変のメカニズム」は明らかに所謂ギロチンに他なりませんが、「イギリスで採用されている方式」とされていることが注目されます。実際ギロチン的な処刑装置は新しいものではなく、ヨーロッパ各地で古くから使用されていた証拠があります。

Heinrich Aldegrever, Titus Manlius Beheading His Son, 1553.

イギリスの例としては、ウェスト・ヨークシャーのハリファックスで使用されていた「Halifax Gibbet」が有名です。これは17世紀の版画に見るように刃が小さい以外は全くギロチンそのものの装置です。

ハリファックス・ジベットは、その地域内で一定以上の価値の物品を盗んだ泥棒に対してのみ領主権限で使用された特別な処刑器具で、その起源は不明ながら、最初の処刑記録は1286年に遡ります。そして1650年4月30日に2人の泥棒を処刑したのが最後となり、その後は使用されていません。台座は今も残っていて、その上に1974年に復元された装置が展示されています。オリジナルの刃も伝存しており、現在は近くのバンクフィールド博物館に所蔵されています。

Halifax Gibbet, John Hoyle, 1650.

他にもエディンバラで1564年に製作され、1716年まで使用されていた「Maiden」と呼ばれる処刑器具もまさにギロチンです。これには第4代モートン伯爵ジェームズ・ダグラス(1516-1581)がハリファックスに倣って作らせたという伝説があります。彼は1581年6月2日に殺人の罪で「乙女」で首を刎ねられました。この処刑具は完全な形で現存し、スコットランド国立博物館に所蔵されています。

"Maiden" (John Wilson Croker, History of the Guillotine, 1853)

しかしこれらの器具はイギリスでもごく特殊なもので、しかもルイが報告書を書いた頃にはどちらも使用されていませんでした。彼がこういったものをどうやって知って、そして現在も使用されていると誤解したのかはよくわかりません。ギヨタンもおそらく同じようなものを想定していたはずですが、ルイの提案にギヨタンの関与があったのかも不明です。

確かなことはギヨタンもルイもこの「単純な器械」の発明者では決して無いということで、元よりそんなことを主張もしていないということです。


ともかくも、上掲のルイの提案は3月20日に報告書が提出されると直ちに採用され、実際に斬首装置が製作される運びとなりました。以下は1792年3月30日にルイが「裁判所御用大工 La fourniture des bois de justice」のギドンに発注した際の仕様書の内容です。

1. 高さ10フィートの平行な2本のオーク材の柱が、上部で横木によって結合され、側面と背面には支えのための斜材を配置し、堅固に台座に取り付けられる。これらの2本の柱は1フィートの間隔を保ち、それぞれの太さは6インチとする。柱の内側の面には、縦方向に1インチの深さの四角い溝があり、これはカッターのガイドを受けるためのものである。各柱の上部、横木の下にそれぞれ1つずつ銅製の滑車が取り付けられる。

2. 凸型の刃を持つカッターは、よく焼き入れし、熟練の鍛冶屋による最高の肉切り包丁のように堅牢なものとする。その鋭利な刃は幅 8 インチ、高さ 6 インチ。このカッターの背は斧の背と同じくらいの厚みとする。この背面の下に鍛冶屋によって開口部が作られ、鉄の輪で30ポンド以上の錘をこの背面に取り付けることができるようにする。試験でこのカッターの重量を重くすることが適切であると判断された場合、この錘の中央に鉄のリングが取り付けられる。カッターは2つの支柱の溝に滑り込まなければならない。カッターの背面には横切る足があり、それらの溝に入る1インチの四角い突起を2 つ突き出させる。

3. 十分な長さの十分に強いロープがリングを通り、上部の横木の下でカッターを支える。このロープの両端は対応する滑車を通って内側から外側に伸び、各支柱の底部近くで外側に固定される。

4. 被刑者の首を乗せる木製のブロックは、高さ8インチ、厚さ4インチ。その基部は1フィート幅で、2本の支柱間の距離と一致させる。取り外し可能なペグが各支柱を通り、両側でブロックの基部を固定する。このブロックの上部は幅が8インチで、上部に凸型カッターの刃先を受け入れる溝が作られる。したがって2本の垂直材の内部側面の溝はこの溝より下まで伸びないようにする必要がある。そうしないとブロックがカッターによって切断されることになるだろう。ブロックの上部は被刑者の首が快適に収まるように軽く凹みを作る。

5. ただし、処刑の瞬間に頭を支えて持ち上がらないようにするために、馬蹄形に曲がった鉄製の円弧が、患者の首のうなじの上部、頭蓋骨の底部、頭皮の終わりあたりで被刑者の首を包み込むようにする。この円弧の十分に伸びた端は、4インチの厚さのブロックを貫通するボルトで固定できるように穴が開けられる。被刑者はうつ伏せになり、胸を肘で支え、首は台の凹みに無理なく置かれる。全てが整ったら機械の後ろに立った執行人がカッターを支えるロープの両端を同時に放すことで、この器械は重さと加速により一瞬で頭と胴体を分断する。

Hector Fleischmann, La guillotine en 1793, 1908.
https://archive.org/details/laguillotineend00fleigoog/page/n51/

これに対しギドンの費用見積もりはこのようになりました。

器械、処刑台:1,500
階段:200
鉄材:600
刃3枚:300
滑車及び溝の内張り:300
鋳鉄製の錘:300
建造費:1,200
展示用実物大模型の建造費1,200
ロープ:60

計5,660リーヴル

Achille Chereau, Guillotin et la guillotine, 1870.
https://archive.org/details/BIUSante_34588x13/page/n19/

これはどう考えてもぼったくりです。ギドンは偏見のために労働者に高給を払わざるを得ないからだと弁解していますが。

財務大臣のエティエンヌ・クラヴィエールはギドンへの発注を却下し、結局パリのクラヴサン及びピアノ職人であるトビアス・シュミット Tobias Schmidt(c. 1755-1831)が報酬960リーヴル(費用824リーヴル)で引き受けることになります。ちなみにこれは良いクラヴサン1台分ぐらいの金額だといいます。

シュミットはドイツのヴィースバーデンの生まれで、1780年にパリに移住し、1785年9月28日にパリの楽器職人ギルドに加盟しています。おそらくはそれ以前にどこかで楽器職人としての修行を積んできたものと思われますが、パリに来る前のことはよく分かっていません。

Piano carré by Schmidt - 1817 - Philharmonie de Paris, Europe - CC BY-NC-SA. https://www.europeana.eu/item/09102/_CM_0161904
Ibid.

シュミットの製作したピアノは4台現存します。このパリ音楽博物館所蔵の1817年製のスクエア・ピアノは、音域こそ6オクターヴと広いものの、アクションは原始的な Prellmechanik で、だいぶ時代遅れと言わざるを得ません。4つあるペダルはそれぞれ、リュート、バスーン、セレステ、フォルテ。

ところで、ストラスブールの裁判所の書記官のラキアンテという人物が、ルイよりも先に「ギロチン」を設計して、それをシュミットに製作させたという説を見かけることがあります。しかしラキアンテがその設計図を司法大臣に提出したのは1792年4月27日であり、パリで最初のギロチンの犠牲者が処刑された4月25日よりも後のことなのです。それにパリに工房のあるシュミットがストラスブールで仕事をするというのも変な話です。ただしシュミットが以前にストラスブールで修行したというのはありそうなことで、完全に根も葉もない話でもないのかもしれません。

そもそもどうして明らかに畑違いのシュミットにこの仕事が振られたのかと言えば、ギドンに発注が行く少し前の1792年3月24日に、ルイが検事総長のロデレールに宛てた書簡で、「自分は会ったことはないが」、「あるドイツ人のクラヴサン職人が斬首器械のために才能を発揮した」として、その設計を称賛しているのです。ということは、ギドンに発注された仕様は、もともとシュミットがルイの報告書の要件に合わせて設計したものだったのかもしれません。シュミットは例によって発明家気質の人物で、ピアノとギロチンの他にもグラス・ハーモニカや潜水装置などの開発も手掛けています。

ときにシャルル=アンリ・サンソンの孫にあたるアンリ=クレマン・サンソン(1799-1899)による『サンソン家回顧録』(1862-3)にはシュミットに冠する興味深いエピソードが載っています(以下の引用は英語版から)。

H. Sanson, Sept générations d'exécuteurs 1688 - 1847, Mémoires des Sanson mis en ordre, redigés et publiés, 1862.

幸運なことにシャルル・アンリ・サンソンはシュミットという名のドイツ人技士と知り合いだった。この男は楽器職人で、極めて高い工作技術を持つのみならず、熱心な音楽愛好家でもあった。彼は祖父にいくつかの楽器を売ったことがあり、後には彼がヴァイオリンを弾いているところにシュミットが加わって合奏をすることがよくあった。シャルル・アンリはヴァイオリンを弾き、ドイツ人はクラヴサンを弾いた。

ある晩、《オリドのイフィジェニー》のアリアの一つを演奏した後、シャルル・アンリは相方に彼の悩みを打ち明けた。シュミットは少しためらった後、紙切れに素早く線を走らせ、祖父にそれを手渡した。それがギロチンであった。

そしてサンソンがギヨタンにシュミットが提案した「ギロチン」のアイデアを伝えた、という話になっているのですが、しかし上述のギヨタンの議会演説を1791年「4月31日」のことにしているなど、この『サンソン家回顧録』にはあからさまな矛盾が多く、全く信用できるものではありません。とはいえ、音楽を愛する死刑執行人とエンジニアがグルックのアリアを奏でる情景は魅力的ではあります。

『サンソン家回顧録』にはギロチン開発に纏わる有名なエピソードがもう一つあります。

ルイは王の侍医であり、王は彼が果たさなければならない任務について耳にしていた。この王の錠前技師としての器用さはよく知られている。王はルイを助けたく思い、君主として関心を持っていると言って、個人的にこの問題に関与した。王とその侍医はギヨタンが提案した器械の設計を検討したいと考えていた。そこでルイ博士はギヨタンをテュイルリー宮殿に呼び出し、またその際、祖父を連れてくるようにと言い添えた。

彼らがルイ博士の書斎に到着し、二人の医師が挨拶を交わした後、ギヨタンはシュミットが描いた器械の設計図をルイに見せ、祖父がいくつかの説明を加えた。ルイがそれを熱心に調べていると、ドアが開き、新しい来訪者が書斎に現れた。座っていたルイ博士はすぐに立ち上がった。見知らぬ人物は冷ややかにギヨタンを見つめ、彼が頭を下げると、突然ルイに向かって言った。

「やあ、先生、それをどう思う?」
「私には完璧だと思われます」博士は答えた。
「またギヨタン氏が私に申されたことに全く適うものです、どうぞ御自身の目でお確かめください」そして設計図を最後の客に渡すと、彼はそれを眺め、やがて疑わしげに首を振った。
「この刃は弧を描いているが、この形の刃が全ての首に合うものだと思うかね? これでは切れないものもあるだろう」

その話し手が入室してから、シャルル・アンリ・サンソンはその言葉一つ、挙動一つも見逃さなかった。そしてその声色から彼の第一印象が正しかったことがわかった。再び王が彼の前にあった。しかしその質素な服装から王が正体を隠しておくことを望んでいるのは明らかだった。シャルル・アンリは彼の発言に驚き、王の首を見てその形がまさに王の言葉を裏付けるものであることに気づいた。

王は再び低い声で話し、こう尋ねた、「これがその者か?」ルイ博士は肯定した。
「この件について彼がどう思うか尋ねてみたまえ」

「この方の意見は今聞いたとおりだ」ルイ博士は言った、「君はこの刃の形状についてどう思う?」
「その方は全く正しいと存じます」祖父は答えた、「その刃はあるべき形にありません」

王は満足気に微笑んだ。そして卓にあったペンを取って設計図に手を加え、円弧を斜めの直線に訂正した。
「結局私は間違っているかもしれない」彼は付け加えた、「2つの形で試作品を作って実験すべきだ」

そう言うと彼は席から立ち上がって手を振りながら退出した。

このルイ16世がギロチンの刃のデザインを監修した(そして自分でデザインした刃で首を落とされた)という逸話は、アレクサンドル・デュマの『Le drame de quatre-vingt-treize』(1851)でも取り上げられていますが、やはりこれも事実とは思えません。

しかしルイが「凸型」の刃に妙なこだわりを持っていたにも関わらず、1792年9月に地方行政機関に配布された「machine à décapiter」の図では、すでに斜めの直線刃が使用されているのが見えます。

« machine à décapiter » 24 septembre 1792, Archives départementales de l'Isère.

これは新しい処刑器具を担当者に周知させるための公式資料であり、初期のギロチンの姿を正確に示しているものと考えられます。ギロチン本体はルイによる当初の仕様では10フィート(約3m)でしたが、試作段階で14フィート(約4.3m)に拡張されました。しかし驚くのは舞台の巨大さで、1792年8月27日にサンソンの息子の一人が首を観衆に見せている時に転落して死亡するという事故が起こるのですが、この高さでは無理もありません。刃を落とす方法は、初期案では2人同時に刃を引き上げているロープを手放すというものでしたが、実機では刃を留め金で支え、それをロープで引っ張って外すという方式になりました。このギロチンは赤く塗られていたと言います。死刑執行人の制服も赤でした。

1792年4月10日にシュミットが受注した翌11日の午後には早くも最初の試作機が完成しており、藁束や羊や牛で試験が行われました。

4月17日にはビセートル病院で人間の死体を使った公開試験が行われました。これは本番通りにサンソンと二人の兄弟によって実行され、19日のルイの書簡によれば完全な成功を収めたとされます。

しかしルイの親戚である Emile Begin という人の手記によれば、まず子供と女性の死体は簡単に首を切断でき、2人の男の死体でも問題なかったものの、3人目の男は「強靭な筋肉構造」により刃を3回落としても切断に至らなかったといいます。この結果を受けてルイは威力を高めるために支柱を高くし、刃の形状を変更することを提案したそうです(しかしルイは4月12日の書簡ですでに高さは14フィート必要と述べている)。残念なことにベギンは変更前後の刃の具体的な形状を記していないのですが、おそらくこの時に斜めの刃が導入されたものと考えられます。そしてそれがルイ16世のアドバイスを取り入れたのだと想像しても許されるのではないでしょうか。

その後4月21日に再びビセートル病院で改良型の試験が行われ、今回は「体格の良い、病死ではなく事故で死んだ」男の死体を選んで試験が行われ、「ヘラクレスのような」3人の男の首を見事に切断したそうです。

そして1792年4月25日に、1月24日に死刑判決を受けてから3ヶ月も放置されていたニコラ・ジャック・ペルティエの処刑がグレーヴ広場に設置されたギロチンによってようやく執行されました。しかしこの記念すべきギロチンの最初の処刑はあまりに一瞬で終わってしまったため観衆には不評だったようです。

当初この斬首装置はアントワーヌ・ルイの名に因んで「ルイゾン」と呼ばれましたが、あまり定着せず、結局以前から馴染であった「ギヨティーヌ」に落ち着きます。これはルイが早くも1792年5月20日に急逝してしまったためでもあるでしょう。

ちなみにギヨタンが自分の名を冠したギロチンで処刑されたという流言が古くからありますが、彼は革命を生き延びて1814年3月26日に普通に自宅で亡くなっています。

参考文献

Croker, John Wilson. History of the Guillotine. 1853.

Sanson, Henry. Memoirs of the Sansons, from private notes and documents, 1688-1847. 1876.

Fleischmann, Hector. La guillotine en 1793: d'après des documents inédits des Archives nationales. 1908.

Kershaw, Alister. A History Of The Guillotine. 1965.

Jennings, Christopher. THE HALIFAX GIBBET, An early English version of the guillotine. The Yorkshire Journal, Volume 1, 2018.
https://theyorkshirejournal.wordpress.com/wp-content/uploads/2018/11/2018-2-the-halifax-gibbet-pages-26-45.pdf

Jones-Imhotep, Edward. « Imaginaire de la guillotine », Techniques & Culture, 72 | 2019, 30-45.
https://journals.openedition.org/tc/12258

Debat, Guillaume. « La guillotine dans le Maine-et-Loire : un instrument de la justice d’exception (1792-1795) », Annales de Bretagne et des Pays de l’Ouest, 128-2 | 2021, 143-176.
https://journals.openedition.org/abpo/6860

Guillotine Headquarters. 
https://guillotine.dk/index.html

BMO, Schmidt, Tobias. 
https://boalch.org/instruments/makerprofile/2067

Tobias Schmidt 1800. 
https://www.fortepiano-collection.net/tobias-schmidt-1800

Tobias Schmidt 1817. 
https://www.europeana.eu/en/item/09102/_CM_0161904

国書刊行会、バルザック版『サンソン回想録』
https://note.com/kokushokankokai/n/nab2f0ac4bbdd


今回の記事の副産物として、ギロチン研究の草分けである John Wilson Croker. History of the Guillotine. London: John Murray, 1853 を翻訳してKindle本にしてみました。

古い本ですが情報は意外と正確ですし、古き良き英国紳士らしく知的でシニカルな筆致で語られる血みどろの歴史は、昨今の本には無い魅力があると思います。


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