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自作プロモーションと「秘密」を明かすこと

作品を作り手本人がプロモーションするのはいまやあたりまえになっている。あたりまえになるにつれて、個々人の宣伝スキルはどんどん上がっていく。

作り手本人よりも作品の細部を熟知している人はいない。また作り手本人ほど全力で作品への愛を語れる人もいない。作り手はあきらかに商品を売る適任のひとりだろう。それは間違いない。

しかし、実際には「知っているけれど言えないこと」も山ほどある。

ひとつ大きな懸念となるのは、作品をつくるにあたっての「秘密」をどこまで開示するかだ。

それはストーリー上のネタばらしとか、関係各社との秘密保持契約とか、「誰かにネタを盗られちゃうかも」とか、そういう懸念ではない。作品の制作過程において作り手本人(もしくは制作にかかわる限られた人)だけが知る精神的な秘密に関する懸念だ。

浜崎あゆみのヒット曲「M」の誕生秘話をめぐる小説がドラマ化されて話題になっている。ほんとうに「M」がそういう経緯で生まれたのかどうかはもちろん知らない(小説作品のために造られたフェイクである可能性も当然ながらある)。ただ、それが事実である可能性もまた当然ながらある。そうだとしたら、その事実は少なくともリリースされるまで、そしてリリースされてから20年間近くは秘密にしておく必要があった。作品をめぐる秘密は、口にした瞬間に作品を戯画化してしまう。下手をすると破壊してしまう。

作り手側の「秘密」を、作品にリアリティや説得力を与えるちょっとした隠し味だと思っている人は多い。わたしは少し違う考えをもっている。変なたとえだけれど、秘密はパンを作るときのイースト菌のようなものだ。パンをパンたらしめる種であり本質的で不可欠な存在。音楽家の伝記的研究は、作り手本人が明かすことなく死んでいったその秘密を探り当てようという、無謀で、野暮で、ひょっとしたら無意味かもしれない試みだ。


きょうも政治とアーティストをめぐるニュースが喧しい。いうまでもなく個々人の思想信条の表明は尊重されるべきだ。いっぽうで、わたしは文化人なら必ず思想信条をはっきりと表明すべきだという意見には懐疑的でもある。なぜなら思想信条は作品における秘密になりうるからであり、作品は小さな秘密の種が夢を見て極限まで膨張した姿に他ならないからだ。作品はいつも秘密から生まれ、完成に至るまでの過程でかならず秘密を乗り越える。それこそが、ひとが歌ったり画を描いたり文章を書いたりすることの最大の価値なのだと信じたい。