カレーを、肉がとろけるまで、煮込むな。【2020年3月6日】
タイトル通りである。そこまで煮込むな。
食堂のカレーは煮込まれすぎてか、そもそも入れてないのか、具がない。
過疎カレーである。
パウチ入りのカレーも同様「過疎カレー」。
なんならパッケージには「とろけるまで煮込んだ云々」の文字。
もう煮込むな。
【はじめに】カレーを、
怒り心頭である。ここがアメリカだったら訴訟も辞さない。日本だったら消費者センターに駆け込む。
さて、カレーを煮込みすぎるな。
人間の食事は実に豊かな行為だ。栄養摂取の一面だけを切り取ればサプリメントを飲むことと食事は大体同じだろう。しかし食事は、到底サプリメントでは埋め合わせられない、非常に多くの側面をもつ行為なのである。
それは一緒にテーブルを囲む「コミュニケーション」の側面
マナーや作法を守る「信用」の側面
伝統や相手を知る「文化」の側面等の意味合いをもつ。
そして何より、口の中で味わい、香りを楽しみ、そして
「歯で噛む」
ことによる肉体的・精神的健康を保つ側面だろうが。なめてんのか。
【本文】肉がとろけるまで、
次はお前をとろけさすぞ。
とろけたものは飲むしかできないだろうが。噛めねえだろうが。
とろけるまで煮込むような無知な料理人はどうせ言っても理解に大変な苦労を要するであろうが噛む必要のある固形食と噛む必要のない流動食では大きすぎる違いがある。わかりやすく示してやる。
・噛むことで満腹中枢が刺激され満足感のある食事になる。
・噛むことで口腔の発達が正しくなされ、人生100年時代を健やかに駆け抜けることが可能となる。
・噛むことでこめかみの筋肉が刺激され脳に血液が流れ込み十分な量の酸素が行き渡るため理解力の乏しい煮込みすぎ料理人でも本稿を理解するだけの知性を獲得できる。
・噛むことで日々のストレスを解消する効果がありこのストレス社会において咀嚼が人々の癒しになっていることは至極明らかであり瞭然たる事実は根拠のない行為を打ち砕くこと間違いなしなうえこの点についてはある種のベーコン的科学方法論主義の流れを汲む。素晴らしいの一言に尽きる。尽きない。あと15個は尽きない。
もちろんこの他にも多くの効果が見込まれるのは想像に難くないしその手に持ってるスマートフォンで調べればいいというのは全く自明である。早く咀嚼の完全優位性をその目と脳に示してこい。
もう言ってしまうが固形食であり流動食でもあるハイブリッドな食品であるカレーから固形食の要素をなくし流動食の要素しか残さないというのはわけがわからない。気が狂いそうだ。かの大哲学者であるヘーゲルの弁証法からのアウフヘーヴェン(止揚)であろう「ハイブリッド性」をいきなり排除するのは狂気の沙汰である。肉が噛めねえだろうが。
これを知ってどうして肉がとろけるまで煮込むことができようか。
いやできるわけねえだろ何やってんだ。ふざけすぎるのも大概にしろ。
あまりふざけるとほんとに消費者センターに駆け込むぞ。「肉が噛めないのにカレーなのですか?」と。カレーじゃねえよただのスパイシーな飲み物だろうが。「カレーは飲み物」なんてカレーを馬鹿にした言葉を使うマヌケが昨今大変多く見られるが馬鹿にされてる側がそれをやっちゃ終いだろ。カレーは飲み物ではなく固形食の咀嚼食としてインド人と日本人とイギリス人のダイニングの覇者であり文明の到達点料理および白米の永遠のベストマッチフレンズで俺の人生の暖かな黄色い日差しであることはもう義務教育課程を修了してなくても心に耳を傾ければすんなりと容易くきっちりと解るこの世と人の理である。
この世に絶対があるとすればそれは則ち具が溢れんほどにたくさん入ったカレーに他ならないだろう。これらは真理だし辞書を改訂すれば「絶対」の欄に追記されるしもはやカレーはそんな概念である。要は水族館のイワシの水槽もしくは休日のスタバの混み具合を想起させるような具の一都過密的な社会問題カレーが食いたいと言っている。誰か作ってくれやっぱいい俺が作る。
カレーは絶対に噛める食品でなければならない。でないなら俺の記憶から消してくれ。
【終点】煮込むな
おそらく具を全く入れていない言い訳やカモフラージュとして
「とろけるまで煮込んだ」
と言っているのだろう。その浅ましさがこの世の悪や不幸の始まりだろうが。反省ののち後悔の海に肩まで浸かって100年を自責の念でいっぱいにしてろ。
カレーを、肉がとろけるまで、煮込むな。
以上
試しに押しても罰は当たらないはずです。知りませんけど。