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ランニングフォームの重要性と「良い動きで走ればモテる理論」

今回は、僕が競技力向上に最も関係する要素だと思う、「ランニングフォーム」、つまり「動き」の重要性を「良い動きで走ればモテる」という謎の理論を交えながら、大真面目に言語化していきたいと思います。

良い動きで走ればモテる理論

まず、「風が吹けば桶屋が儲かる」と同じ意味合いとして「良い動きで走ればモテる理論」を唱えたいと思う。

その順序は下記の通りである。

・良い動きで走る 
    ↓
・特定の筋肉への偏った負担が減る。
・力を使わずにより長く走る事ができる。
・力を使わずにより速く走る事ができる。
・力感が減り、動きに余裕が出てくる。
       ↓
・練習の量を増やす事ができる。
・練習の質を高める事ができる。
・代償運動が減り、ケガをしにくくなる。
    ↓
・メンタルが安定する。
・休むだけで疲労が抜ける。
・疲れにくくなる。
    ↓
・ランニングに適した筋肉が発達する。
・筋量が増える。
・基礎代謝が上がる。
・身体が絞れてくる。
・ボディスタイルが良くなる。
・モチベーションが上がる。
・自尊心、自己肯定感が高まる。
・若々しくいられる。
・イケメンになる(多分)。
・競技力が上がる。
    ↓
・モテる。


このように、一見関係無さそうに見えるが、良い動きで走ればモテるのだ。

だから僕は良い動きで走りたい。

そしてモテたい。







というのは冗談として。

良い動きで走るということは、単に競技力向上というだけでなく、実際には因果関係がなさそうな様々な事柄(例えば、メンタルやボディスタイルなど)に良い影響を及ぼし、それが周りまわって競技力向上に影響を及ぼすと僕は考えている。そのため、選手は「良い動き」、つまり「ランニングエコノミー」を日々探求していくべきだし、そこに最大限の努力を傾けるべきだと思っている。

(そうすればモテるかもしれない。)

良い動きを作る技術と「まやかし」

良い動きを作るために行うことは全て技術である。つまり、目に見えるランニングフォームはあらゆる技術の結果だと言える。一方で、長距離走では動きなんかよりも、『練習量をこなしてなんぼ』と思われる方もいらっしゃるかもしれない。でも僕はそんな事は無いと思っている。

ずいぶん偏った考え方かもしれないが、はっきり言おう。

練習量(走行距離)は「まやかし」、
練習メニューも「まやかし」、
体重も「まやかし」、
心拍数も「まやかし」、
練習のタイムでさえ、「まやかし」である。

「まやかし」とは、見せかけだけを繕って『人を欺くもの』という意味だ。僕は今まで、これらに何度も欺かれてきた。距離を走り込み、練習メニューを試行錯誤し、人よりもケアに気を遣い、食事に気を遣い、練習での心拍数やタイムを意識した。それでも、トップ選手たちに10000mで1分もの差をつけられる。そしてすぐにケガをする。こんなに考えて、こんなに努力してるのに。

また、『ケニアやエチオピアのトップ選手が何故あんなに速いのか』を考えることを放棄してはいけないと思う。骨格や腱の長さが違うから?幼い時に学校まで長い距離を走っていたから?僕にはそうは思えない。彼らのランニングフォームは無駄がなく美しい。彼らには「良い動き」で走る「技術」があるのだ。おそらく、無自覚的に習得したものが。

極論を言ってしまえば、彼らはどんなトレーニングをしたって脚が速いのだと僕は思う。なぜなら彼らには「良い動き」で走る技術があるからだ。そして僕にはそれがなかった。そんな風に考えるうちに、どんなトレーニングをすることよりも、何キロ走ったということよりも、どんなタイムで走ったということよりも、「そのトレーニングをどんな動きで行ったのか」ということが重要なのではないか、という考えに至った。つまり、今まで僕が努力だと思っていたものは努力ではなかったということだ。

(どうりでモテないわけだ。)

良い動きを作る難しさ

そんな風に考え始め、僕は「良い動き」を探求していった。その結果、頭打ちになっていた僕の競技力は少しずつ向上した。これは、自分の中でとても大きな発見だった。だから今は「良い動き」の状態をキープすることが、脚が速くなる一番の近道であると僕は信じている。

しかし、敢えて言おう。

「動き」でさえ、「まやかし」であると。

なぜなら「良い動き」とは捉えどころがないものだからだ。『目に見えるランニングフォームというものは、あらゆる「技術」が集約された結果だ』と先述したが、ランニングフォームはその時のメンタルや疲労具合や身体の強さや使い方のクセなどの個人的な状況によっても簡単に変化する。

また、僕はランニングフォームというものは個性があり、万人に対してこれが「完成形」だというものは無いと思っている。基本的には、その人にとっての「良い動き」、「悪い動き」があるだけだ。ただ、「良い動き」を突き詰めていけば、ある程度は、皆似たような動きになると思う。具体的に言えば、腰が高く、全身の力感がなく、余裕を持って、脚を大きく、速く、正確に回せるような動きだ。


彼らのような動きが出来るのは様々な技術(そのほとんどが無意識的に習得したもの)や鍛錬の賜物だと思う。だからこそ「良い動き」で走ることは非常に困難である。それに少しでも近づけるためにあらゆる方法を使ってコントロールする必要があるが、良かれと思ってやったことが、マイナスに働くということはザラである。

更に、トレーニングの途中に疲労をしてくると、脳はあらゆる手段を使って、そのトレーニングをやめさせようとする。人間の脳は本当に器用に出来ていて「お前は今悪い動きだぞ」と悪魔のささやきのごとく、言い聞かせようとさえしてくる。だからこそ悪い動きだと感じていても練習の途中で止まるわけにはいかない場合もある。

そのため、時として身体の声を無視して、がむしゃらに身体を動かすことも必要だ。それが結果として、良い動きになっていたという場合もある。だから僕は、身体の声を聴く一方で、身体の声を無視するという能力も、ある種の必要な技術だと思っている。

また、先述の通り、「走っている最中の身体の意識の傾け方」だけが実際の「動き」に影響するわけではない。ありとあらゆる要因に対して身体が適応し、結果として「動き」が作られる。当然、トレーニングによる刺激も重要な要因の一つと言えるし、ランニング以外のトレーニングやメンタルやイメージや考え方なども要因となりえる。それらは大まかに分ければ、「走る前に行われる技術」と、「走る中で行われる技術」に大別される。これについてはいつかnoteで書きたいと思う。

だからこそ、それら全てを一人でコントロールすることは非常に難しい。そのため、考え過ぎると『どうやって走っていいか分からない』という「動きの迷宮」に迷い込む。僕もまんまと迷い込んだ選手のうちの一人だ。それをコーチに委ねることも出来るだが、僕にはそれが出来なかった。どうしても自分の感覚を共有することが出来なかったからだ。その結果、不調になり、力任せに走って何度もケガをした。

(だからモテなかったのだ。)

良い動きで走れない理由はある

だが僕は動きを探求することを諦めなかった。その結果、ある程度の答えを得られたと、自分の中では思っている。そして、改めて思ったことは、「良い動きで走れないのには必ず何かの理由がある」ということだ。もっと言えば、良い動きで走れないということは、ただその理由を見つけられていないだけ、だと思う。

その理由は人それぞれだと思う。だからこそ、最も大事なことは「動き」が良くなったり悪くなったりする中で、「良い動き」に近づけようとするセルフプロデュース力であり、決して諦めない忍耐力であり、気合いと根性である。

(モテない理由を探そう。)

まとめ

まとめると、速く走るための様々な要素の中から「どうすれば良い動きで走れるか」という課題にフォーカスし、「動きのまやかし」の中から自分にとっての最適解を見つけられれば、良い動きになり、他の要素に良い影響を及ぼす。つまり、「他の要素のまやかし」が、段々とまやかしではなくなっていき、新たな世界が見えてくる。それから各要素にフォーカスすることで、より高い次元の課題にチャレンジ出来ていく。その繰り返しの結果として脚が速くなるのではないだろうか。

だからこそ、「まやかしだらけの中で自分にとっての最適解を探し出し、いかに良い動きに近づけることができるか」が競技者にとっての最大の努力と言えるのではないかと、僕は思う。

(モテるかどうかは知らんけど。)

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以上、長々と読んで頂きありがとうございました!今回は、今の自分の考え方の根幹にある「動き」の重要性について書いてみました。競技力に関係なく、ランナーによって色々な考え方があると思いますので、こんな考え方もあるんだなぁ、といった形で受け取って頂けると幸いです。

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