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コロナショックの反動?学校現場でのニューノーマルの兆しはまだ遠い。

学校が6月から再開されることが濃厚になってきた5月半ばごろから、原因不明の蕁麻疹が出た。今までの学校現場からしばらく遠ざかり、コロナ禍を謳歌した私の体が今までの教員生活に戻ることを拒否しているような気すらする。

学校で生きづらさを感じているのは生徒だけではない、教員だって同じこと。生徒は可愛いけれど、教師として働くことへの息苦しさから解放されることはないように思う。

以前見たNHKの番組で、不登校になったのは自分の命を守るために必要な行動だったという答えにたどり着いた話が紹介されていたのを見たが、これは教員にだって当てはまる。

教員が心を病んで休職したり、辞めたり、命を落としたりするのはブラックと呼ばれる業務量の多さだけが問題ではない。限られた裁量の中でしかできない教育活動に苦しむ教員もたくさんいるのだ。

コロナが公教育にもたらしたインターネット革命や、何か新しいことができるんではないかという期待感。これからもしかしたら、公教育も何かが変わるのではないか。そんな期待が膨らんでいたこの数ヶ月間。しかし、実際に現場に立ってみると、それが現実になるにはまだまだ先のようだという本当の現実に直面する。

6月に課題考査の実施という強い筆記試験崇拝。
職員会議はいまだに全員が集合しての連絡伝達。
5月の間は登校可能期間として、生徒の欠席は公欠扱いなのにも関わらず授業をしたり、大事な連絡をしたり、休むことを選択した生徒にとっては結局不利になる学校運営。などなど、挙げればやはりきりがない。

「平常化すれば今まで通りできる」と思うことで安心する教員は多い。実際、すでに駆け足で走り出している方もいる。しかし、大波のように巻き戻ってくる正常化バイアスを前に、もう元には戻れない拒絶感を感じているのもきっと私だけではないだろう。

今朝は職朝で生徒の自殺が増えているという報告があった。
学校が再開されれば生徒もまた大きなコロナショックの反動を抱えて登校することになる。ここ数ヶ月の非日常を彼らはどう感じたのか。授業で少しでもコロナの振り返りを通して生徒と対話していきたい。

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